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意思による楽観のための読書日記

徳川四代 大江戸を建てる! 河合敦 ***

門井慶喜の「徳川家康の江戸プロジェクト」で読んだ内容とほぼ同じだが、本書特徴は絵図が豊富に使われていて分かりやすいこと。倭健命の東征で失った妻を偲んで名付けた「吾妻」が東、坂東の地、東国となる。坂東武者たちは平安の時代から京の貴族に憧れながらも反骨の心を持つ。平安末期に登場したのが秩父に始祖を持っていた江戸重継で、その本拠の地に建てられた城が江戸城。平氏の武将としてのし上がった江戸氏だったが、後に頼朝に臣従して鎌倉の御家人として勢力を伸ばす。室町時代には室町幕府の出先機関に反抗、平一揆を起こして鎮圧され所領は没収、滅亡する。

関東はその後、関東管領と古河公方との対立の場となり、関東管領の上杉氏は旧利根川を境にして対立した古河公方を警戒。砦として建てたのが岩附、河越の城であり、それらを築城したのが太田道灌。江戸城の場所は東遷付替前の旧利根川河口付近で、三島あたりにあった堀越公方の地から見れば、古河公方の支配地の眼の前、格好の砦となる。そこに手を伸ばしてきたのが後の北条早雲で、その当時は伊勢新九郎長氏である。伊豆、相模を領する大勢力となっていた早雲は、その子氏綱とともに、武蔵、下総へと領地を拡大。長く対立し続けた古河公方と堀越公方が手を組んだ連合軍と河越で戦い、北条氏が勝利して関東を手にする。その頃は桶狭間合戦で織田信長が今川義元を討ち取った時期でもある。北条氏は江戸城を居城として勢力を張るが、その後は秀吉に討ち取られ、家康が関八州を領地とする。

家康が江戸に入城したときには大変な田舎町だった、という記録があるが、それは神君家康の偉大さを誇張するための記述と思われる。関ケ原の当時にはすでに北条氏が代々居城としてきた本丸、二の丸もある立派な城と街が出来上がっていたとの記録があり、武家中心の町として相当の体裁を整えていたと考えられる。家康は、その地を陸運、水運、防御、東国の農耕地としての可能性などを考慮して居城の場所と決めた。

最初は水の確保。今も残る千鳥ヶ淵、牛ヶ淵に川をせき止めてダムを作った。さらに大久保忠行に命じて作ったのが小石川上水。忠行はこの功績で主水を名乗るが発音は「モント」。水が濁ってはイケナイとの考え。この小石川上水を発展させたのが井の頭池を水源とする神田上水。塩も必要不可欠であり、行徳の塩を運搬するため、新川、小名木川、そして医師だった曲直瀬道三屋敷にちなんだとされる道三堀という水路を開く。住まいとなる江戸城は太田道灌以来の三つの郭を再構成、空堀を埋めて一つの大きな郭として本丸を築く。西側には局沢十六寺を移転、ご隠居御城、のちの西の丸を建設した。

江戸の街は、今の山手線、京浜東北線を境界とし、高台を武家地、低地を職人、商人、町人地とした。それが山の手、下町の境目となる。秀吉が亡くなると家康による天下普請が始まる。西国31カ国の大名に江戸城石垣用の石材調達を命じた。薩摩島津氏が300艘、紀伊浅野幸長が385艘など合計3000艘により巨石が運搬された。五街道の整備、一里塚設置、東海道伝馬制の確立、東廻り航路、西廻り航路の水上運輸整備、貨幣制度の確立を急いだ。金座の設置は1595年、京都の金工後藤庄三郎を現在の日本銀行の場所に招聘、製造させた。銀座は1601年伏見城に設置、1606年に駿府、1612年に江戸の現在の銀座に移された。寛永通宝でおなじみの銅貨鋳造は、家光の時代になり、江戸と近江の銭座で行われ、その後は必要に応じて民間に製造を委託。1765年以降は金座、銀座にて銭製造を一貫製造することになる。ちなみに、一両は四分で16朱に相当。1文銭であれば相場により変動するが4000-6500枚。

秀忠が二代目将軍となったのは1605年、つまり家康は2年で将軍を退き、大御所として駿府から政治に影響力を与え続ける。天下普請が実際に始まったのは秀忠が将軍となってから。日比谷湾が埋め立てられ外堀、内堀の石垣が築かれた。このときの江戸城の縄張りを担当したのが藤堂高虎。大阪城の陣の前であり、実践的な防御を考え抜いた城とした。1611年には第二次天下普請で、舟入堀、水運運送のための現在の八丁堀が作られた。1620年、第三次天下普請が実施、平川改修による隅田川への放流、家康による慶長天守に代わり石垣の高さと面積を増した元和天守の江戸城改築が行われる。利根川東遷もこの時期に本格化、関東郡代であった伊奈氏親子により徳川初代から4代にかけての大工事となる。

1623年には家光が将軍となる。1628年から30年にかけて第四次天下普請が行われ、本丸、西の丸、二の丸、三の丸の工事が実施。外堀のうち、ため池から赤坂、筋違い門、春日町、浅草にかけて「の」の字の外側部分が拡張された。このときに作られた寛永天守は黒、銅板を使用したものだったが、家光の移転の前日、放火により全焼。1年をかけて再建はされたが、1657年の明暦の大火で再び全焼。保科正之の英断で、再建は町の再建を優先することが決められ、二度と再建はされないまま現在に至る。家康を尊崇していた家光は、日光東照宮改修を巨額の費用により実施、以降の財政逼迫の要因となる。

1651年には4代将軍家綱となり、53年には玉川上水の大工事が実施、玉川兄弟と呼ばれる庄右衛門と清右衛門が指揮を取った。その後の水資源確保のため、三田、千川、青山の各上水が建設されたが、維持管理に手間と費用がかかりすぎ、井戸掘削技術向上のためもあり、吉宗の代でそれらは廃却され、神田上水と玉川上水が残された。神田上水は明治まで給水、玉川上水は1965年まで淀橋浄水場への導水路として使用された。1657年の明暦の大火は江戸の町と天守を灰にし、その後は、寺社の移転による広場の設置、定火消設置、小路の拡幅、軒先長さの制限、吉原の新吉原への移転などが行われた。

江戸にあった寺の宗派別内訳は、浄土宗233、法華宗199、曹洞宗155、一向宗125、天台宗93,臨済宗70、新義真言宗66、古義真言宗15,黄檗宗9、修験7、時宗2、真言律宗1。寛永寺は天台宗、増上寺は浄土宗。寺は寺社奉行と寺社諸法度などにより厳しく管理されたが、幕末に向かうと、檀家制度などによりその力を増していく。本書内容は以上。

明治以降は、大震災や空襲、五輪開催などにより度々町が作り変えられたと考えていたが、最も大きな改変は江戸時代に行われていた。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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