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意思による楽観のための読書日記

お殿様の人事異動 安藤優一郎 ****

江戸時代の大名「国替え」は現代で言えば人事異動、豊臣政権からの移行時期には敵対していた大名を江戸から遠ざけ、江戸近隣に永年の家康忠臣たちを配置するのが目的だった。

そもそも家康自身が秀吉に三河・遠江・駿府から転封を命じられた結果、江戸に拠点を定めた。秀吉は家康への押さえとして、上杉景勝を50万石の越後から120万石会津に転封させる。しかしその半年後秀吉は死去、天下取りを目指す家康の存在が大きくなる。家康は景勝への上洛を命じるが上杉家老中直江兼続はそれを拒否、家康は会津に向けて出陣するが、その間隙を縫うように石田三成が大阪城で挙兵、関ヶ原の戦いへと進んでいく。三成、家康の東西合戦の結果、没収された石高は282万石、毛利家(120万石→36万石)、上杉家(120万→30万)など各大名の88家にのぼる大幅な改易が敢行された。東海地方に配置されていた秀吉子飼いの諸大名を中国、四国、九州などの遠隔地に転封、そのあとに譜代の家臣を配置した。

姫路城は家康の娘婿である池田輝政が築いた一大拠点であり、江戸幕府にとって見れば外様が多い西国抑えの城。その後、輝政死去後は幼君のため因幡に転封され、その後には桑名から本多忠政が城主となり、西の丸、三の丸などの増築を行う。その後、姫路は15万石の譜代大名か親藩大名が任命されるのが慣例となり転封は9回実施、姫路のあとには越後の村上、上野の前橋、陸奥の白河に転封されるのがお決まりのパターンとなる。

国替えには各領地石高や実態の豊かさの違いを前提とした栄転や叱責の意味がある。従って国替えは栄典、お家の失態に対する譴責などがあった。それ以外にも大名継承による幼君出現、情実などもあり、国替えは将軍の命で行われるが、その司令塔は時の実権を握る筆頭老中や大老であり、昇進や国替えの裏には多くの金品が動いていたと言われる。幕政の中枢を握るのは老中で定員は4-5名で3万石以上の譜代大名、その補佐が若年寄で3万石未満の譜代大名から任命された。老中が朝廷と大名、若年寄が旗本と御家人に関する事項を担当した。老中への昇進コースとなるのが京都所司代、大阪城代、寺社奉行、奏者番で、譜代大名140家から主に選ばれた。老中、若年寄、寺社奉行などの要職に就任すると関東や東海、中部に国替えとなるのが慣例、これが国替えの理由となっていた。

旗本にとっての最終目標は町奉行で、南北二名が定員。260年の江戸年間で100名ほどが任命された。6000人ほどいた旗本の出世コースは、御番入りと言われる大番組、書院番組、小姓番組、新番組、小十人組から始まる。番士は2000名ほどで狭き門。その後は、目付、遠国(浦賀、山田、駿府、甲府、奈良、佐渡、長崎、京都町、大阪町)奉行、勘定奉行となると三奉行の仲間入りとなる。そして最終的に江戸の町奉行となる。旗本でも半数ほどは花形の役職なしで一生を終わる。そのため、旗本・御家人には老中などの要職者にアピールするため、江戸城登城前の面会である「対客登城前」という慣習があり賄賂もはびこる。

改革断行を強圧的に行った水野忠邦も最初はその場所にいることが求められた長崎警備が必要な唐津藩主で、そのままでは要職は望めない。奏者番となった忠邦は、同族で将軍の信任が厚かった水野忠成に頼る。忠成の進言により忠邦が寺社奉行に任命されると浜松藩に転封された。その後、大阪城代、京都所司代、そして老中となるが、その裏では莫大な金品が動いていた。その負担は浜松藩にのしかかる。その後、忠邦による天保の改革で関東近辺の領地を幕府に差し出す、という上知令を出し、これが諸大名から猛反発を食らう。その結果、忠邦は失脚、蟄居を命じられ山形への転封を命じられる。その際、賄賂金捻出のための御用金という名の借金が浜松藩には残っていて、領民たちからの大反発を食らい、一揆が起きる。一揆を抑え込んでくれたのは、転封の結果浜松に入ってきていた井上家、水野家の最後はほうほうの体で山形へと去っていった。

一度発出された国替え命令には逆らうことは許されなかったが、幕末の天保年間の川越、庄内、長岡三藩への転封命令は領民の反対などにより撤回に追い込まれた。川越藩主の厳しい年貢取り立てが有名で、長岡領民による激しい反対運動は、老中直訴や東北各藩への働きかけなど粘り強く行われた。その結果、幕府も国替えの撤回にまで追い込まれた。国替えとは、大名とその部下である武士階級とその家族の入れ替えであり、百姓、商人たちはその領地に留まる。大名の居城と武家屋敷がそっくりその持ち主を入れ替えることになるので、その手続や入れ替え作業は大変な手間になるため、近い藩同士でも数ヶ月、遠方の半同士では半年ほどもかかり、その費用も莫大な額となっていた。国替えの手続きは対象となる藩同士で行うことになり、その司令塔は各藩江戸藩邸となる。三方領知替えも度々あり、その場合には一層手続きは複雑になる。

1747年、京都所司代に任じられていた牧野貞通は延岡藩主だったため、常陸笠間藩への転封が命じられた。笠間藩井上家は磐城平藩へ、平藩主内藤政樹が延岡に転封を命じられ、三方領知替えとなった。延岡から笠間への転封は牧野家にとっては朗報だが、平から延岡に転封になった内藤家は大騒ぎとなった。引越し費用だけでなく今後の参勤交代費用も莫大になる。引っ越しに伴う藩士たちの移動は自前、助郷が期待できないため、自力で行うのが前提、さらに途中の宿が混雑するため徐々に行うことを求められた。引っ越し荷物は4分の1に絞っても4000駄、馬一頭分が一駄であり、その費用は4000両と見積もられた。武士たちは老中245両、組頭184両、平士51両1分、それ以下では最低で13両1分と引っ越し両を定められた。その総額は2万両、参勤交代の10倍にもなるため、大名は領民に御用金などと称して商人や領民に献金を求めたが、去りゆく殿様に献金などはしたくないのが人情。領民への借金を踏み倒す大名も居て、領民からは反発が多かった。そして江戸時代の末期天保11年には三方領知替えが撤回されるという事態が起こり、幕府の弱体化が表面化、その後は転封が行われなくなり、大政奉還へとつながっていく。本書内容は以上。

時代劇でも度々登場するお家騒動や世継ぎ断絶などの結果としての国替えと思っていたが、その実態は虚々実々、家臣たちは大変な手間と苦労があったとのこと。現代の人事異動と同じ、とはいえ、その規模や費用は比べ物にならない規模。大名たちが必死で「対客登城前」のアピールを20年も続けていた、という意味がよく分かる。


 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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