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意思による楽観のための読書日記

お殿様の定年後 安藤優一郎 ****

江戸時代には「300諸侯」と言われ、それぞれに第XX代という歴代の殿様がいたはず、つまり、260年の間には一世代で25年とすると300X10=3000人ほどの殿様がいたということになる。基本的には世襲なので家督を譲ると隠居することになるが、そのためには幕府の許可が必要だった。隠居年齢は人さまざまで40-60歳程度が多かった。庶民の寿命は35程度と言われたが、食糧事情が良い殿様は70-80歳程度まで余生を楽しむ大名もいた。しかし、その余生は娯楽や文化事業で、その負担は各藩財政を圧迫したという。現役時代はしきたりや江戸詰め、登城など堅苦しい生活を強いられたが、隠居後は多くは大都会のお江戸で余生を楽しむ殿様が多かった。本書では、水戸藩え「大日本史編纂」を始めた徳川光圀、大和郡山藩で柳沢吉保の孫として生まれ六義園整備と歌舞伎に血道を上げた柳沢信鴻、白河藩「宇下人言」の著作者で谷文晁を育てた松平定信、肥前平戸藩で随筆集「甲子夜話」の著者松浦静山、薩摩藩西洋文化摂取に努めた斉彬の曽祖父島津重豪を紹介する。

光圀は18歳のときに伯夷伝と史記に刺激を受けて歴史書編纂を心に期した。明暦の大火で江戸の街は灰燼に帰すと幕府の命により編纂されていた「本中編年録」の編者で光圀が師事していた林羅山と正本も灰になったが、幕府は羅山の息子林鵞峰に完成を命じた。これが編年体の「本朝通鑑」となり、全310巻の対策となり家綱に献上されていた。これを機に光圀も「大日本史」完成に向け資料収集整理を開始、屋敷内に編纂所を設置した。天皇を尊崇する光圀は大日本史の歴史認識を尊王敬慕思想、南朝を正統とする歴史書となり、これが水戸学の嚆矢となる。大日本史が完成するのは明治、藩にとっての大事業となり費用は年間8万石、表高28万石の藩財政を圧迫する原因ともなる。天皇の存在を注目させる大日本史の存在は幕府にとっては厄介な事業となり、やがて幕末には幕府の権力基盤を揺るがす遠因ともなる。

綱吉時代に活躍した柳沢吉保が造成したのが六義園、古今伝授を受けるほど和歌に造詣が深かったので、六義園のテーマは紀州和歌山の景勝を表現した和歌だった。その後柳沢家は大和郡山に転封、その年に生まれたのが吉保の孫、柳沢信鴻。隠居したのは50歳のときでその後20年ほども気楽な老後を楽しんだ。上屋敷から移り住んだのが駒込六義園の場所にあった下屋敷、自然豊かな染井吉野の生まれた場所、六義園の整備に入れ込んだ。芝居にも熱を上げ、藩邸内で芝居を自主興行するまでになる。六義園の松に舞い降りた鶴を見て思いついた松鶴をタイトルとする「松鶴日記」によりその悠々自適の老後生活を後世に伝えることになるが、藩財政は逼迫した。

寛政の改革で有名な松平定信が老中として腕をふるったのは6年強で、老中退任は36歳のとき。その後は白河藩主を20年務め、72歳まで生きた。隠居して力を入れたのが絵画、定信の実家である田安家家臣として生まれた谷文晁を育てたことで有名。江戸湾沿岸巡視を命じられた定信が、港湾や街の正確な距離や奥行きを遠近法や陰影画法により描かせた。亜欧堂田善も定信により見出された画家。江戸の街の繁盛ぶりを活写した「東都繁昌図巻」を依頼したのは鍬形蕙斎、その後庶民生活を描いた「近世職人尽絵詞」も発注した。その他、京都御所の再建や石山寺縁起絵巻の模写、補作も手掛けた。自らの著作としては自叙伝「宇下人言」、寛政の改革の政治論「国本論」「政語」をまとめた。隠居生活を送ったのは築地市場の場所にあった白河藩下屋敷、造園を行い浜離宮と同様の汐入庭園「浴恩園」を造成した。

正続100巻、後編78巻という随筆集の大作「甲子夜話」の著者は平戸藩10代目藩主松浦静山、大名や旗本の逸話、市井の風俗に関する見聞をまとめた。松浦家は九州北部で活躍した松浦党からでた戦国時代の松浦隆信が秀吉に所領安堵されたのが初代。その息子の松浦鎮信が関ヶ原の戦いで東軍に属し、平戸藩松浦家が誕生した。所領は6万石とされたが実際は10万石あった。静山の名前は清、後に親戚関係となる松平定信と同様、武芸、学問、文芸に造詣が深く、能、蹴鞠、和歌、連歌に親しみ、定信の浴恩園の和歌サロンメンバーでもあった。外様ながら定信の改革を受け継いだ松平信明の妹を正室としたため、幕府での役付きを願った静山だったが、老中だった信明としては情実人事と受け取られかねないとして、静山を役職につけなかった。静山が隠居したのは1806年、47歳のとき。上屋敷は浅草橋にあった1万5千坪だったが、隠居後36年の生活を本所にあった1万坪の下屋敷で過ごす。一年間の生活費は1万石と360両が藩から支給された。10万石あった藩収入だが、それは米の生産額であり、年貢率は約5割、つまり藩としての収入の2割ほどが御隠居様の道楽に使われたということ。下屋敷には刀研ぎ職人、僧侶、相撲取りなどバラエティに富んだ住人がいた。甲子夜話には本所7不思議、鼠小僧次郎吉、大塩平八郎の乱など、奥女中などに聞いた見聞録も収められている。

将軍家とは緊張関係が続いた薩摩藩だったが、綱吉の側室で大納言清閑寺熙定の妹、大典侍の局がいた。局はその兄の娘の竹姫を養女としたので、竹姫は綱吉の養女ともなった。その上で竹姫を綱吉の孫でもある吉宗の時代に養女としたうえで、島津家に輿入れした。これが初めての徳川家と島津家の婚姻関係であり、関ヶ原の戦いで敵味方になって以来初めての縁組となる。竹姫の夫は継豊だったが隠居後に、側室が生んだ孫が藩主となり、血の繋がりはなかったが竹姫が育ての母親となったため、薩摩風を改め、江戸風、京風を薩摩藩江戸屋敷に持ち込んだ。その孫が島津重豪で、一橋家の娘保姫を正室に迎えた。薩摩藩ではそれまで戦国の気風を色濃く残していたが、開化、改革の雰囲気をまとう藩主が誕生したことで、重豪のひ孫となる幕末の斉彬による藩政改革、欧州技術の取り入れにつながる。重豪は造士館、演武館などの藩校、そして天体観測のための天文館も創設した。当時の将軍は家治、急病で亡くなったあとの将軍は一橋家当主だった豊千代(家斉)で、その婚約中の相手は重豪の娘だった。次期将軍の岳父となった重豪は、幕府でも重んじられるが、他の大名たちから反発を感じ、43歳の若さで、家斉が将軍となる直前に隠居。その後も藩改革に取り組んだが、藩財政は逼迫、幕末の調所広郷による藩政改革まで改善しなかった。本書内容は以上。

隠居後の大名の生活を知ることはあまりないが、太平の世となった江戸時代中盤からは、寿命の長い大名たちは老後に経済的に余裕のある生活を送ることができたということ。幕末には、安政の大獄で隠居させられた慶喜、春嶽、容堂、伊達宗城などの発言力が世の中を動かしたと言える。慶喜は隠居後に将軍となったわけで、定年後の自由な立場は重要だったということ。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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