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そんな素敵な旅に「南会津」を訪れませんか

戦後の南会津地方

2008-06-05 11:03:15 | Weblog
昭和20年代
 南会津郡内の町村は戦時中の空襲はなかったが、疎開引揚げ人口の膨張・生産力低下による疲弊・餓死・混乱が続いた。特に、昭和21年5月の田島町の中心部の大火(455戸焼失)が与えた影響はおおきかった。
 只見川電源開発事業は、工事基地の只見町だけでなく郡内各町村に明るい将来を与えた。昭和28年に本流案決定、田子倉の立ち退き問題は全国的和代となった。一方田島町(現在は南会津町)滝原にも住友金属鉱山会社による銅山開発が発展し人口5000人、独立小学校を設置するなど鉱山町が出現した。

町村合併の影響
 昭和30年は町村合併の年であった。南会津15町村が「東部」は旧田島(田島・桧沢・荒海)と、「下郷」(楢原・旭田・江川)の1町村、西部は舘岩・桧枝岐・伊南・南郷(大宮・富田)の4村と、只見(明和・朝日・富田)1町村、合わせて2町3村にまとめられた。

過疎現象の進行
 現在、南会津郡のほとんどの町村が過疎現象に悩んでいる。明治以来の人口戸数は大体ににおいて増加の一途をたどってきたが、昭和30年代前半をピークに減少し始めた。それが一時期の特殊なことではなく、50数年を経た今日でも留まらない。

新たな方向を求めて
 近世の南会津特産には麻があり、昭和以後は木材があったが、その後特産らしきものはない。一方関東の各都市から自然を求めて、田島町(現在は南会津町)と神奈川県などが交流をもち、自然豊かな「日本の原風景の里」にふれあうなど、新たな方向を求めています。