本日は、びわ湖一周のルートを外れて、古都おおつ観光ボランティアガイドの会が開催した大津城址めぐりに参加した。
大津の城といえば膳所城が有名だが、江戸より前の時代、浜大津近辺に秀吉が坂本から移した大津城が建っていた。
午後13:30。
京阪浜大津駅のデッキに集合したのは、30名以上の参加者。
そこから大津港口の大津城趾の石碑を見下ろした。
このあたり、駅、明日都などのエリアに本丸が湖上に突き出すように建っていた。
集団は歩いて、浜町朝日生命前ビルで城の石垣を確認し、かつて外堀だった通りを上る。
アーケード街に折れる。
このアーケードはまるまる外堀だった。
江戸時代にはすでに埋められていた。
そしてそのナカマチ通りの一本浜側の細い道は中堀りだった。
不自然にある、川口公園も中掘りの名残だ。
アーケードを抜けきった、一方通行の道は北国海道。
疎水と平行に流れる細い川が折れ曲がった外堀の現在の姿だという。
集団は、旧町名を確かめながら、かつてあった大津の城を空想で脳内に築きながら歩いた。
図書館のあたりが二の丸が建っていたあたりだが、現在の道とは一致しない。
何しろ、江戸時代にはもうなかったのだから、現代の人々も、大津に城があったことを知っている方は、ほとんどいない。
私は以前から不思議に思っていることがあった。
旧東海道が現在の国道1号のように石山から逢坂までまっすぐ結ばず、なぜ札の辻で90度のカーブを描くのか。
湖に沿っていたのだとしたら、現在の湖岸道路と異なり、中途半端に湖岸からの距離がある。
この湖からの距離が、ちょうどお城一個分に当たるのだとしたら謎が解ける。
京の都からきた道が、逢坂の峠から下ってきて、湖に向かう正面に大津城が鎮座する。
お城にぶつかった道は左右に分かれ、右はそのまま東海道として東国に向かい、左は北国海道となって日本海まで行っている。
今は何もない札の辻に立って、空想力で大津城を脳内に見れば、城と丁字路の光景が浮かんでくる。
こういう時こそ、三度笠ですよ。
ルートが違うから、だめ?