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Delightful Days

tell on BLOG - ささやかな日々のしずく

トウキョウソナタ

2009-06-05 | movie
黒沢清監督『トウキョウソナタ』を観た。

会社をリストラされたことを家族に告げられず、それでいて虚勢の権威を未だ振りかざす父親。
誰かに引き上げてほしいという心をひた隠しにしながら、ただ「母親」という役を演じる母親。
世界の平和を守るには世界の警察であるアメリカに飛び込まなければならないと信じ込む長男。
冷めた目で家族を見、自身はほのかな恋心から親に黙ってピアノを習い始める次男。

家族はバラバラだ。崩壊寸前だ。
でも、本当に崩壊するのも簡単ではないのだ。崩壊したその先に待つ、再生を信じられないから。本当に再生などできるのか、どうすれば再生できるのか、いや、本当に自分はこの家族の再生を願っているのか、それすら分からないから、崩壊寸前の家族は危うい均衡を保とうと不自然な日々を繰り返す。ただ、もはやそれを支える柱は腐り、やがて家族は崩れる。

一度は崩壊した家族が再生に向かって歩み始める、なんて映画ではまるでない。
もはやそこにしか戻れない父親と母親は、形の上での「家」に帰るしかなく、自分の役割すら分からないままだ。
長男はアメリカに飛び込んだものの自身の願望が満たされないことに気付くのみで、まだアメリカから逃れられない。
ただ、次男だけが自分が何ができるかを知り、その道を歩み始める。
その次男の才能を見守る両親。そっと肩を抱く父親。

小泉今日子の冷めた、がらんどうのような目が恐ろしい。
映画全体が絶望と恐怖に覆われたような雰囲気の中、最後に流される美しすぎるソナタ。
ただ、この美しいソナタでさえ救いにはなっていない。

ここまで救いを差し伸べられなかったほど、黒沢清は世界に深い憂いを抱いているのだろうか。この作品はそれを表現し、警鐘を鳴らすためだけに創られたのだろうか。
だとしたら悲し過ぎるし、何とも後味の悪い映画だ。

グラン・トリノ

2009-05-06 | movie
GW最終日。午前中に昨日観逃した映画を。
クリント・イーストウッド監督『グラン・トリノ』。

妻を亡くし、小うるさい息子家族とも疎遠に暮らす老いさらばえたかつての軍人。朝鮮半島での戦争の記憶から逃れられずに自らを責め、病を患い、一人死にゆくはずだけの人生に、ふとしたきっかけから得る人の温かさ、初めて知る友情。そして、自らの人生の引き際。
ストーリーだけを追えば浪花節の人情劇にもなりかねないものを、ここまで素晴らしい作品に仕上げる監督イーストウッド、役者イーストウッドに感服。

元フォードの技術者だった彼が大切に乗り続けてきたフォード・グラン・トリノという名車は、言うまでもなくアメリカという国の古き良き幸せな時代を象徴し、そして、自らもポーランド系白人のはずのウォルト・コワルスキーは、戦争と暴力、異民族への偏見を孕みつつもそれを内包していく巨大国家アメリカそのものだ。
やがてアメリカが自らが抱える虚構の正義とそれを盾にとった暴力、多民族/巨大化する国家に耐え切れずブッシュ政権が崩壊したのと同様、ウォルトも自己が抱える矛盾に葛藤したまま、苦しみながらただ死んでいくはずだった。
そんな人生の晩年に、彼が知ったもの。それを教えてくれたのが、ラオス系少数民族であるという皮肉。

この映画で俳優を引退することを示唆しているクリント・イーストウッド。
かつてダーティー・ハリーとして散々銃をぶっ放してきた彼は、この映画のラストで、まさに丸腰でアメリカに挑み、圧倒的に勝利し、脱ブッシュのアメリカの光を示す。
彼のキャリアがあるからこその、主演作、監督作で、だからこのウォルト・コワルスキーは彼にしか演じられないし、彼が撮るからこそここまで素晴らしい作品になったのだと思う。

スラムドッグ$ミリオネア

2009-04-29 | movie
annは熱も上がらず吐き気も治まったみたい。でも、まだ下痢が治らず、一度出始めるとおむつを替えてすぐにまた出てしまい、それがしばらく続く。そして、そういうときはお腹を指して「アイテ、アイテ」と顔をしかめるのだけれど、それ以外は元気に遊びまわっている。
どのみち治癒証明をもらうまでは保育園には行けないし、来週はゴールデンウィークだし、しばらく家でゆっくりして完全にウィルスを出し切ってしまえばいい。

当面の心配はなくなったので、午後から夕方までちょこっと外出。
今年のアカデミー賞8冠に輝く『スラムドッグ$ミリオネア』を観た。監督はダニー・ボイル。ダニー・ボイルと言えば『トレインスポッティング』なんだけど、『スラムドッグ$ミリオネア』ではそのビートの効いた映像はそのままに、展開・構成に巧みさが加わって、見事に魅せる映画を作り上げている。
スラムの街に育ち、親を失い、それでも生きるために波乱の人生を生き抜いてきたジャマールが、どうしてミリオネアに出ることになったのか。さらには、どうやって全問正解を果たしたのか。物語はジャマールの人生にフィードバックしながら進み、3つの時間軸を行き来する展開は迫力満点で、2時間強はあっという間。映画的カタルシスを充分に堪能させてくれる。
ただ、ジャマールとサリームの兄弟の絆、ラティカへの純粋で強い愛、そういった本来はもっとぐっと来てもおかしくはない要素が、あまり心に響かない。
もちろん作品としての総合的な魅力は充分なんだけど、なんだか巧すぎる構成と展開に酔っているうちに終わってしまった…という印象も残った。


昨年の『ノーカントリー』もそうだけど、良い意味でこの映画がオスカー独占とは。審査員でも変ったのだろうか。

容疑者Xの献身

2009-04-22 | movie
西谷弘監督『容疑者Xの献身』を観た。
東野圭吾の原作小説を読んだとき、その鮮やかなトリックには唸ったもの。で、得てして映画化されると原作の良さが消えてしまうものだけれど、この映画は緻密で丁寧な脚本と演出、そして何よりも堤真一の素晴らしい演技によって、珍しく成功している例だと思う。
テレビドラマ『ガリレオ』の延長線上としての映画だが、福山雅治演じる湯川の物理学的アプローチによる事件の解決は見られず、ただ、人間の不器用な愛とその儚さが描かれる。それまで愛を知らなかったがゆえに、初めて覚えた「人を愛する」行為はどこまでも悲劇的になる。それは確かに献身ではあるけれど、確かに相手には伝わったけれど、それが幸せに結びつくとは限らない。いや、その愛ゆえの献身によって、愛された者はこれからの人生も重く苦しい十字架を背負い続けなければならない。
最後の堤真一の咆哮がどこまでも悲しく響く、苦い余韻が心に響く映画になっている。

2009-04-13 | movie
これまで観ていない名画を観ようという今年の個人的キャンペーンも4作目。フェデリコ・フェリーニ監督『道』を鑑賞。
作品選びはレンタル屋で棚を見ながらランダムに選んでいるだけだけど、観たい映画がたくさんあって選ぶのに困る。これまで自分がどれだけの名画を観て来なかったのかを思い知らされる様。

で、『道』。
粗野で暴力的な大男ザンパノは自らの肉体で鎖を引きちぎる芸をする大道芸人。彼に買われて無理やり芸を仕込まれ、ザンパノに罵倒されながらも彼と道中を共にする、純真で少し知恵遅れなジェルソミーナ。
もちろんザンパノは暴力としての男性の象徴として描かれ、ジェルソミーナは被抑圧者としての女性として描かれる。
そして、愛もなく情もない、それでも共に歩むしかない彼らの道中を、フェリーニは批評的に描き、人間の悲しき性を悲劇的結末として提示する。
ザンパノはジェルソミーナによって、少しずつ変わっていった。でも、やっぱり大切なものに気付くのは、それを失ってしまった後なのだ。ただ、その喪失感と後悔を繰り返すことが、人生の道なのだ。閉じられさえしなければ、それを繰り返しながら道は続く。
大男が初めて心揺さぶられ、さめざめと泣き崩れるラストシーンに言葉は出ない。ただただ、圧巻。

パコと魔法の絵本

2009-04-11 | movie
中島哲也監督『パコと魔法の絵本』を観た。

ベタベタな展開に、ベタベタなギャグ。それなのに、途中から緩む涙腺が止められない。それは、中島哲也監督が緻密に計算して、それ以上でも以下でもない、素晴らしい匙加減の演出に因る。
真骨頂の極彩色、誰が誰だか分からないほどのメイクと衣装。テンポ良く切れ味良く流れる展開。大袈裟に盛り上げ過ぎない人情劇。それでいて、ぶっ飛んだCG。全てが見事に溶け合い、ここにしかない独自のワールドが出来上がる。
もちろん、役所広司、國村隼、阿部サダヲ、妻夫木聡、上川隆也を初めとした出演陣が素晴らしい。そして、何よりアヤカ・ウィルソンがとてつもなくかわいい。

「ただ、他人の心にいたい」
それは、それこそが愛なのだろう。

前半に度々出てきたアマガエルには目をふさいでしまったけれど、まぁ、これは僕個人の問題だし、愛と勇気とギャグと優しさを真っすぐに描いた、素敵な映画。

恐るべき子供たち

2009-04-03 | movie
ジャン・コクトーの原作をジャン・ピエール=メルヴィルが監督した『恐るべき子供たち』を観た。
1950年の映画だけど、さすがヌーヴェル・ヴァーグの先駆的役割を果たしたと言われる映画、面白い。

一つの閉鎖的な部屋で喧嘩を繰り返しながらも強く結びついて暮らす姉と弟は精神的近親相姦であり、大人になりそれぞれに別の異性が入り込んでくるようになるに連れその関係性は破綻し始める。弟を他の女に渡さないために姉エリザベートは様々な偽装工作を繰り返し、2人の世界を守ろうとする。ただ、その根本に弟への深い愛情があるわけではない。ただ、外の世界への無意識で、無意味な敵意。愛情から生まれるのではない、根拠なき嫉妬。捻れた愛憎劇は、やはり捻れたままに閉じられる。

モノクロゆえに、「白=生」、「黒=死」というコントラストが構図としてくっきりと浮かび上がり、それをコクトー自身の淡々としたナレーションとバッハやヴィヴァルディのピアノ協奏曲が畳み掛ける。
そして、とにかく姉エリザベートを演じるニコール・ステファーヌがもの凄い演技。
あっという間の、100分のシニカルな悲劇。

アキレスと亀

2009-03-20 | movie
北野武監督『アキレスと亀』は、芸術の虚構と現実、その狂気を描く様相を見せながら、実際は深い深い愛の物語だ。そして、前作、前々作で自らの監督としてのキャリアをリセットした北野武にとっての、もう一つに処女作たる物語の始まりとなる。
北野作品には珍しく時間を追って、芸術家が真の芸術家になれない人生を描く。ストーリーは分かりやすく、構図も映画的、編集に暴力的な冗長さは影を潜め、最後はなんとハッピーエンドで終わる。映画監督と言われる居心地の悪さに反発し、そのエネルギーを逆へ逆へと押し進めてきたこれまでの北野武は、この作品で物語を語ることに開き直った。
タイトルに採られている「アキレスと亀」は、ゼノンのパラドクス。ハンデをもらったのろまの亀と、天才気質のアキレスとの競争。数学的にはアキレスは亀に、いつまで経っても追いつけないというもの。
良家の坊ちゃんとして「絵が巧い」とチヤホヤされ、いつしか自分の才能を信じ切って芸術に取り付かれ、自身の芸術を追求するしか生きる術はなく、そのために周囲の人間は巻き込まれ、死に逝く。芸術にしか生きられない。仕事も恋愛も何もできない。でも、芸術だけでは、自分1人では生きていけない。それは、のろまな亀。
そんな亀に理解を示し、亀を愛してハンデをあげて、いつまでもどこまでも亀を追いかけ続ける。でも、やっぱりアキレスは追いつけない。亀はのろまなくせに、どこまでも自分の人生だけを突き進むから。アキレスのことなど考えていないから。
芸術とは何なのか。北野武は、芸術に深い愛情を抱きながらも、それを突き放して描く。
そして最後に、一時は亀に愛想をつかして追うのを止めたアキレスが、ふいに訪れて亀に追いつく。それは、亀が闇雲に走り続けた人生の険しい道中で、ようやく立ち止まったから。芸術をいったん脇において、振り返ってみたから。
歩幅を揃えたアキレスと亀は、これからどんな人生を歩むのだろう。亀はやっぱり芸術を追い求め、アキレスはそんな亀を置いてきぼりにして進んでしまうのかも知れない。やっぱりいつまでも歩幅を揃えて、2人で歩み続けるのかも知れない。
それは、それぞれのアキレスと亀次第。
芸術を描き、愛を描く。北野武、新たなる一歩。素晴らしい作品。

真夜中のカーボーイ

2009-03-15 | movie
「今年は観ていない過去の名画を観よう」の第2弾(もう3月だけど)、ジョン・シュレシンジャー監督『真夜中のカーボーイ』を観た。原題が『Midnight Cowboy』だけれど、どうしてカウボーイじゃないんだろう…。
いわゆるアメリカン・ニューシネマの傑作で、他のニューシネマの作品群同様、夢と幻想が薄汚れた体制に打ち砕かれる様を象徴的に描き、アメリカの闇と病巣をあぶり出す。
時代は1969年、ベトナム戦争の影がアメリカを覆う。アメリカこそが病の巣窟なのだと、若者たちはニューシネマを作った時代。ただ、ここに描き出されている鬱屈とした世界は、今もアメリカを始めとした大国に宿る闇でもあり、だからこそこういった映画は傑作として後世に残っていく。
田舎としてのテキサス、田舎者としてのカウボーイ。彼が夢見る大都会ニューヨークは、しかし暴力とドラッグと金持ちと貧乏が混在する退廃の象徴として存在する。
そこにネズミのようにこそこそと生きる移民。彼が夢見るのは陽光降り注ぐであろう、フロリダ。そして、夢も幻想も都市に根こそぎ吸い取られてしまったボロボロの2人は、夢の街フロリダを目指す。
いつだって長距離バスは、若者の夢を乗せて走る。テキサスからニューヨークへ、ニューヨークからフロリダへ。でも、夢や幻想はバスの車内にしかないのか。窓の外は、脚を引きずり咳を吐き、ドラッグでもやらなければ笑えない、それでも生きていかなければならない現実なのか。
筋だけを追えばありがちな物語だが、ダスティン・ホフマンとジョン・ヴォイトの素晴らしい演技、現実と妄想と回想入り乱れるシュレシンジャー監督の演出が独自の世界を作り上げる、やっぱり傑作なのだ。

たみおのしあわせ

2009-03-11 | movie
劇作家、演出家、俳優など多方面で活躍し、ドラマ『時効警察』の熊本課長役も印象深い岩松了監督『たみおのしあわせ』を観た。
母と死に別れ、父(原田芳雄)と男2人で暮らすオダギリジョーが、何度もお見合いを繰り返してようやく麻生久美子との結婚が決まり、その結婚式までの日々を描く。
舞台は日本ののどかな田舎、ほのぼのとしたムードから民男(オダギリジョー)がついに幸せを掴むまでの話かと思えば、これは真逆に裏切られる。
オダギリジョーは死んだ母親を忘れられず、母と同じ名前の結婚相手にその面影を見るマザコン。
原田芳雄は同じく死んだ妻の影を追い、死別後も別の女性との交際を繰り返すも上手くいかず、いつまで経っても息子を幼い子供として扱う、子離れ妻離れのできていない中年。
麻生久美子は母の再婚によって養父と暮らし、そのせいなのか(明らかにはされていないが)オダギリジョーよりも原田芳雄に惹かれていくファザコン。
他にも、小林薫はアメリカからの帰国を誰にも知らせずに天井裏でひっそりと暮らすし、原田芳雄と付き合っていた大竹しのぶは彼に愛想をつかした直後にこっそりと小林薫といちゃつく。
何気ないような日常に暮らす、何気ないような人々。何気ない幸せに向かっているように見せかけられていた物語は、登場人物たちの少しずつのズレと、それぞれが持つ癖や性格や態度を少しずつ誇張して描くことにより、最後には大きなズレとなりいつの間にか奇妙な世界に迷い込む。いや、岩松了は確信を持って、観客をそこに引きずり込む。
思わず失笑が出てしまう間抜けなラストシーンに続いて出される最後のテロップで、もはやこの男2人の狭くて特殊な家族のループは別の世界に移行し、やはりそこでも彼らは2人きりのループから抜け出せないことを暗示して終わる。
面白いとか面白くないとか(岩松了だからクスクス笑える不条理なシーンは散りばめられているが)ではなく、とてもおかしな後味が残る映画であり、その後味の原因である人間の性と内面(自分のも含めて)に気持ち悪さと恐怖すら抱く、観る人を選ぶ癖満点の映画。