高橋昌一郎『理性の限界-不可能性・不確定性・不完全性』を読んだ。アロウの不可能性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理、ゲーデルの不完全性定理を軸に、選択の限界、科学の限界、知識の限界を分かりやすく解説し、それぞれを絡ませながら人間存在の限界と可能性を描く。社会科学から自然科学、哲学、数学、論理学まで広範な学問をカバーしつつ、それぞれの専門家と大学生や会社員といった初心者までを架空の登場人物としてシンポジウムに参加させ、ディベートさせるという形をとっているため、初心者にも分かりやすい入門書となっている。
選択の限界とはつまり民主主義の限界であり、科学の限界とはマクロとミクロに広がる広大な世界に対する自然科学の限界であり、知識の限界とは数理論理的思考の限界を言う。つまり、すべてがこれまで人間が長い年月をかけて培ってきた拠り所の限界を曝け出す内容となっているため、その不可能性・不確定性・不完全性には驚くばかりだ。
社会の在り方として理想的だとされる民主主義には実は完全なる民主的選択によるシステムなどないことが暴かれ、根拠の絶対的拠り所としての自然科学は(特にミクロの世界では)実に不確定だ。論理的・数学的思考は完全に不完全(変な日本語だけど)で、数学は証明し切れない「真理」を内包する。
もちろん理性の限界という広範なテーマに渡っての入門書なので、それぞれの定理・原理を深く掘り下げているわけではなく、この著書ですべてが理解できるわけではないが、現代学問の知の最前線を垣間見るだけでもその内容は衝撃的だ。
特に自然科学における客観的認識の不確定性には驚かされた。ミクロに物質に迫るとき、その認知の方法に限界があるのではなく、物質そのものがそもそも不確定なのだという理論は衝撃的で、そこから導き出される「多世界解釈」にはこれが科学なのかと驚くばかりだ。
もっと言ってしまえば科学は「客観」や「真理」の概念ではなく、あくまでも科学者集団の「主観」や「信念」の「合意」に過ぎないことになってしまうという論にも目から鱗。
もちろんここで語られているのはあくまでも「限界論」であり、民主的選択、自然科学、論理的思考が人類の叡智を支えていることは間違いない。ただ、それらの限界を知らずに何の根拠もなく全幅の信頼を置いてそれらに依拠してばかりでは、人類はそのうち壁にぶつかって途方に暮れるしかない。
シンポジウムに参加しているカント主義者、ロマン主義者は著書内の扱いとしては話を哲学的・観念的に広げようとして止められるという役回りだが、人間に理性的、科学的、論理的限界があり、それが見えているからこそ人間は哲学や芸術をせっせと創り上げてきたとも言え、著者もそのことを時折ちらちらと垣間見せるために彼らを登場させているのかも知れない。