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Delightful Days

tell on BLOG - ささやかな日々のしずく

CHANGELING

2009-08-23 | movie


クリント・イーストウッド監督『チェンジリング』を観た。
1920年代のロサンゼルスで実際に起こった事件というが、まず観ていて嫌悪感を覚えるほど凄まじい権力の不正が実話だということに驚く。
140分を超える長い映画で、ストーリーも色調も音楽も重く、心の奥底にズシリと響く。それなのに観ている者に時間の長さを感じさせないのはさすが、イーストウッドらしく人間を丹念に描いている結果だと思う。
人間の汚らしさ、崇高さを丁寧に描き、愛の深さと揺るぎなさをあぶり出す。
これほどまでに人間は薄汚いものなのか。
これほどまでに人間は愛ゆえに強くなれるものなのか。
そして、人間は戦う。もちろん、愛ゆえに強くなった人間が戦うとき、そこには銃も剣も要らないのだ。
イーストウッドはいつもながら物語を過度に強調することなく、ありのままを描き、だからこそ、そこからあぶり出されてくる物事に僕たちは深く考えさせられることになる。
最後にアンジェリーナ・ジョリーが口にする「希望」。その意味を考えたとき、「希望」とはそれぞれの心のあり様で様々な形となって見出されるものであり、決してありきたりの形を持ったものではないと気付かされる。例えそれが「絶望」と隣り合わせでも、人によっては「絶望」だと捉えようとも、彼女にとってそれは確かに「希望」だった。
アンジェリーナ・ジョリーを始め、役者陣の魂のこもった演技も素晴らしい名作。

稲妻

2009-08-17 | movie


成瀬巳喜男監督『稲妻』を観た。なんと、初成瀬巳喜男。
いや、驚いた。1時間半ほどの短い映画だし、内容も日本の家族の悲喜こもごもを描いたシンプルなもの。それでいて、この濃密さと淡白さのバランスは何だ?
4兄弟姉妹が全て異父という複雑な家庭環境にあり、それでも彼らは「家族」というしがらみからは決して逃れられない。そこにお金が絡み、浮気が絡みというこれだけ読むとドロドロとした昼ドラみたいだけれど、奇跡的なバランスの上に成り立つこの物語は決してそうは観られない。
朗らかで健康的な兄妹を、家族に翻弄される主人公(高峰秀子)と対置し、成瀬巳喜男は観ている者に血縁のしがらみと金のいやらしさを強調して見せた後、ただそれでも彼らがぶつかり合いながらも共に生きていかなければならない、そしてそれは決して悪いことなのではない、と稲妻の一瞬の閃光を持って反転する。
ラスト間際の母と娘の口喧嘩、窓の外に閃く稲妻、笑い泣きを持って歩き出す母娘。それまで観ている者が感じてきた(過剰ではない)嫌悪感を一瞬にして(しかも劇的にではなく)ひっくり返すラストシーンまでのこの連なりは素晴らしいとしか言いようがない。それは、高峰秀子の強さを伴った柔らかさ、浦辺粂子のあの口調、そして成瀬巳喜男の完璧な演出(最後の道を歩く母娘の絶妙な距離感!)が全て完璧なまでに調和した結果として生み出された、奇跡のようなシーンだ。
遅ればせながら成瀬巳喜男、すごいね。いろいろ観てみよう。

サマーウォーズ

2009-08-13 | movie
僕はすでに夏休みを終えているので今日も出社だけれど、世間一般はお盆。ウチの会社は海外との取引も多いのでお盆も誰かしら事務所に出ておいた方が良いという名目はあるが、やっぱり暇。
しかも、今は社長と他の男性社員が海外出張中だし、女性社員数名は夏休みを取り、本来出てくるはずだった女性も風邪で休み。経理は一応来ているけれどフロアが違うし、営業の事務室は僕一人という状況だった。
普段できない雑務を黙々と進めたりもしていたんだけれど、やっぱり暇。
14時過ぎ、社長からの電話に「特に何もありませんね。電話もメールもファックスも…」と言うと、だったら早めに切り上げても良いんじゃない?と社長のお許しが出たので、15時前に事務所を出る。

せっかくなので映画でも。細田守監督『サマーウォーズ』。



前作『時をかける少女』が甘酸っぱい青春をシンプルに描きとても面白かったので、今作も期待して行った。

細田監督はここで現代社会に広がるヴァーチャルなネットワークの対抗軸として、田舎の古い親族の血縁を置く。いや、対抗軸ではないな。何しろヴァーチャルのネットワークが悪くて家族の温もりあるコミュニケーションこそが大事だとかいった単純な物語ではないのだから。
細田守が言いたいことはただ一つ。現実世界であれネット世界であれ「繋がり」こそが大事なのだよ、ということ。
ヴァーチャルネットワークは時に暴走してそれを作り出した人間の不完全さに付け込んで世界を危機に陥れるかも知れない。けれど、その世界だって、基本的には人間が誰かと「繋がり」たくて作り上げたもののはずだ。本来の節度を持ってウェブを行き来すれば、ヴァーチャル世界での「繋がり」だって本物だし、その広大な世界だって悪くない。現実社会の血の「繋がり」があったって、何年かに一度しか会わないような親族もいるわけだし、それならばヴァーチャルで繋がっている遠いドイツの子供との「繋がり」の方がよっぽど深い場合だってあるだろう。
インターネットを通した「繋がり」自体がすべて希薄なわけではない。もちろん、黒電話でジーコジーコとかけたり年賀状で一年に一度だけ文字を通したりして「繋がる」ことも含めて、そのコミュニケーションの方法自体が問題なのではない。
要は、誰かと「繋がっている」こと。
繋いだ手を離さないこと、信頼した友達を最後まで信じきること、その友達が戦っているときには(優しくでも力強くでもいいから)背中に手を置いてあげること。
そうすれば、甲子園にだって行けるし、世界だって救える。
誰かと手を繋いだときに感じる温もり。ヴァーチャル世界でだって、その温もりの記憶が僕たちを守ってくれる。だって、人間は記憶と歴史の上に立って、これからも進んでいくんだから。
だったら、手を繋いでいよう。いっしょにご飯を食べよう。

途中からは溢れ出る涙が止まらなかった。日本アニメ史に、いや、邦画史にも残る素晴らしい作品だと思う。

2009-08-06 | movie
夏休み2日目。午前中は『ヱヴァンゲリオン新劇場版:破』を観にいく。



DVDで観た『序』に続き『ヱヴァンゲリオン』2作目だけれど、いや、もの凄いね。徹底した細部構成と背景、作り込みの丁寧さと美しい絵。素晴らしい完成度。
もの凄いのはもちろんそれだけじゃない。それは、この物語がただただ少年少女の「想い」だけを描いている点だ。
(僕が2作観た限りでは)得体の知れない使徒から人類を守る「戦争」を描いているはずなのに、ここに描かれている「戦争」はあまりにも遠い。というか、「戦争」ですらない。作戦はいつも頓挫し、大人たちは少年少女が操るヱヴァンゲリオンの人智を超えた破壊力(暴走)に守られるばかりだし、相手が感情を持つ人間ではないためか、ヱヴァンゲリオンの戦いは徹底して暴力的にのみ描かれる。日常生活の平穏さと戦いの場面での目を背けたくなるほどの暴力が並列して置かれることにより、それは戦争ではなくあくまでも少年少女の強過ぎる「想い」が暴走した結果の感情の爆発であることが強調される。
躊躇い、恥じらい、好奇心、反抗、愛、狂気、自分でも表現できないもどかしい気持ち。それらの「想い」は、観ていて涙が出てくるほどに純粋で、強い。だから、ヱヴァンゲリオンのパイロットは14歳でなければならないのだ。
これまでのアニメが少年少女たちの心の揺れを軸にしながらも、人類が抱え込んだあらゆる広範なテーマを内包していたのに対し、『ヱヴァンゲリオン』は彼ら彼女らのことしか描かない。だからこそそれは深く深く描かれるのだし、結果としてもの凄い物語となって成立している。
早くも『Q』が楽しみ。

2009-07-30 | movie
ヱヴァンゲリオンは、そのブームの頃はあまりの過熱振りとガンダム世代の変な意地もあってまったく観ていない。でも、相当気にはなっていた。そのうちDVDで観ようと思っていた。
で、最近周りで『ヱヴァンゲリオン新劇場版:破』を観てやっぱり面白かったという話をちらほら聞き、そろそろ僕もやっぱり観たいなぁと。
でも、テレビ版やら旧劇場版やら新劇場版やら色々あって、どれから観れば良いのか全く分からない。
そんな話を会社でしていると、同僚の娘さんがDVDを持っているということで、まずはそれを借りて観ることに。『ヱヴァンゲリオン新劇場版:序』。



テレビシリーズの6話までをダイジェスト的に構成した(正式には「リビルド」した)ものらしく、確かに背景や細部の構造は深く徹底されているし、デザインもかっこいい。
ただ、人間や社会への批評や少年少女の深層心理にある傷など、哲学的テーマがどこか薄っぺらく色づけされているだけのようで、この程度ならばガンダムを始めとする数多のアニメーションと比べて突出しているわけでもないな、と。
ただ、そういった印象はおそらくこの映画がテレビシリーズのダイジェスト版、いわばヱヴァンゲリオンという物語の紹介という構成になっているからなのだろうと思う。だから、これを観ただけではまだ何も語れない。ただ、少なくとも続きが観たいという気にはさせられたし、きっとそこからヱヴァンゲリオンの物語が始まるのだと思うとワクワクする。
とりあえず『破』を観にいこう。で、また会社の人にテレビシリーズも借りよう。

TAXI DRIVER

2009-07-11 | movie
昼前からパートナーがannを連れてお出かけしたので、部屋で一人、のんびりと競馬を楽しむ。
それにしても夏競馬は難しい。地方の小回りの競馬場で行われる夏競馬は、春や秋の大きな競馬場のそれに加えて様々な細かい要素まで考慮に入れなければならない。だから、難しい。でも、その分予想は楽しかったりする。

夕方からビールを開け、ごろりと横になりながら映画を観る。マーティン・スコセッシ監督『タクシードライバー』。



今年に入って個人的に続けている「見逃している名画を観よう」の一環なんだけど、この作品は観た気でいたのが、先日ツタヤで目にしたときに「いや、やっぱり観ていないかも」と思って借りてきたもの。やっぱり観ていなかった。ここまで有名な作品だからか完全に観た気になっていた自分に吃驚。

で、『タクシードライバー』。ベトナム戦争後のアメリカの闇と狂気を描く。
海兵隊を名誉除隊となったロバート・デ・ニーロは、戦争の後遺症を引きずったままタクシードライバーとしてアメリカを彷徨い、その闇を我が物顔で闊歩する「悪」に異常なまでの嫌悪感を示す。「悪」は徹底的に排除しなければならない、弱く小さな存在を救わなければならないという使命感。それは戦争から抜け出せず、社会と上手く折り合えないデ・ニーロの狂気ではあるけれど、狂っているのはどちらなのかという問いをスコセッシはそこかしこに提示する。
引き起こした殺戮劇の末、思いもよらずヒーローとして祭り上げられる結末。それは、戦争と同じじゃないか。
スコセッシのカメラワーク、デ・ニーロの鬼気迫る演技がそれぞれに現役バリバリ。
あの時代とあの国だからこそ生み出された傑作。

郵便配達は二度ベルを鳴らす

2009-07-04 | movie


ルキノ・ヴィスコンティ、1942年の処女作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』を観た。
原作はジェームス・M・ケインの小説で、そのタイトルが『郵便配達は二度ベルを鳴らす』。この映画はそれを原作としているが、原題は『Ossessione(妄執)』。原作者の許可を得ないで映画化したのですぐに上映禁止となり、公開されたのは随分後になってからのようだ。
『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は有名なジャック・ニコルソンとジェシカ・ラング主演のハリウッド版を含めて3回映画化されているが、ヴィスコンティ版はエロスやインモラルのイメージとは違い、もっとねっとりとまとわりつくような男女の情愛とそこから逃れることのできない妄執の強い粘着性を描いている。
強く惹かれあう男女、その盲目の愛ゆえに犯される犯罪、共有した罪に縛られる絆はもはや愛とは呼べないが、愛があったからこそ罪を共有したのだという暗示に女は絡め捕られ、男はそれを受け入れざるを得ない。そんなねっとりとした妄執は遠くに行ってこそ忘れ去られるものだと言われるが、女の死(それはある意味「最も遠いところ」だが…)によって男はその妄執から一生逃れることができなくなる。
1942年の映画とは思えないほど情愛がリアルにむせかえるほどで、芸術としての映画の根本を思い知らされる。

ちなみに作中に郵便配達など一度も一人も出てこないのだけれど、これは原作小説の題名をつけたときのいわくらしいので何とも…。ただ、この不思議なタイトルが作品を観たあとに謎めいた余韻を残しているし、もはやこの作品はこのタイトルでしかあり得ないほどのものとなっているのもすごいことだなぁ、とか思う。

チェ 28歳の革命

2009-06-20 | movie
annのプール熱はまだ続く。昼間はそれほど熱は上がらないと医者に言われたのに、昼間も夜もずっと40度近い熱がある。解熱剤もそれほどしょっちゅうは入れられず、食欲もないようだし、少し食べても寝ると咽せて吐いてしまう。



見守るしかないっていうのが辛い。かわいそう。


夜、スティーブン・ソダーバーグ監督『チェ 28歳の革命』を観た。



ソダーバーグと言えば『セックスと嘘とビデオテープ』や『トラフィック』のイメージがあって、実在の人物の伝記的映画を撮ったということ自体が意外だったのだが、観てみてスタイリッシュで刺激的な映像がやっぱりソダーバーグ的で納得。
アルゼンチン人であるチェ・ゲバラがメキシコでカストロと出会い、キューバに乗り込んで歴史的革命を成し遂げるまでを、時折その後のニューヨークでの国連演説を挿し込みながら、忠実に描く。
チェ・ゲバラという人物自身がそのまま魅力溢れる男だし、成し遂げた歴史的意義は大きい。だから、ソダーバーグは彼の人間的魅力を引き出すことに専念し、映画的装飾、ドラマチックな演出を一切排除する。ただ、1人の革命家を描くことに専念する。
それが映画的カタルシスを損なっているとか盛り上がりに欠けるという意見の原因になっているんだろうけれど、ゲバラの思想と偉業に対するリスペクトが素直に表れていて、そこに何と言ってもベニチオ・デル・トロの圧倒的存在感があって、僕は盛り上がって観られた。
ただ、やっぱりこれは2部作なのだ。このあとの『チェ 39歳 別れの手紙』を観てこそという感じもする。

scarecrow

2009-06-13 | movie
土日の旅行中、愛犬りゅうを一泊で面倒みてほしいということで、義妹家族が預けに来た。先日のりゅうからの贈り物である長崎ちゃんぽんは、今日のためのお礼みたいな。
従妹のKに会えてご機嫌のann。来る前から「Kちゃん来るって」というと、「K、K」と言っていた。



買ってきてくれたモスでお昼を食べて、義妹家族をお見送り。
annは一丁前にりゅうをお散歩気分。引っ張られて転んでたけど、リードも離さず泣きもせず。



今夜はまたパートナーがお出かけなので、annとりゅうと留守番。
annは先日パートナーがいなかったばかりなので、「ママがいないこともあるんだ」と学習したのかどうか、先日の夜よりもリラックスした感じでいつも通りにテキパキ遊ぶ。
僕もこの前よりも少しだけ上手にannの髪を結わく。

annに追い回されて逃げ回っていたりゅうだけど、annが眠ったあとは寄り添ったりして意外と仲良しな感じ。


2人が眠ったあと、ジェリー・シャッツバーグ監督『スケアクロウ』を観る。


ふとしたことから出会った2人の男。もちろんそれぞれに事情や夢を抱えていて、意気投合した彼らはヒッチハイクと電車を乗り継ぎ、男2人の旅を始める。
もちろん、人生は思い通りにいくことばかりではないし、どれだけ意気投合しても2人の男がいつも仲良く過ごせるわけではない。さらに、それぞれに思い描いていた到達点に、思い描いていた通りに辿り着けるわけでもない。
でも、到達点が大事なのではない。いや、もちろんそれは大事かも知れないけれど、それ“だけ”が大切なわけではない。
対照的な2人は、それぞれに刺激を受け、それぞれに思いやりを感じ、やがてかけがえのない存在となる。
人が、人の間で、人と関わって生きているのだから、その人生においてかけがえのない出会いや触れ合いが自身の人生に影響を与えるのは当たり前で、だから、最後にジーン・ハックマンは自分にとって決して無くしてはいけない友のために、自身の強情だった夢を先送りにしてまで往復のエアチケットを買うのだ。
そんなことが、押し付けがましくなくサラリと描かれ、やっぱりアメリカも昔はこういう素晴らしい映画をたくさん作っていたんだよなぁ、としみじみ感じる。
ジーン・ハックマンもアル・パチーノも脂が乗っていて若く、素晴らしい演技で魅せる、味わい深い作品。

おばあちゃんの思い出

2009-06-12 | movie
ドラえもんの劇場版短編映画『おばあちゃんの思い出』を観た。



思えば日記をこのブログに移行して3日目に観たのが『のび太の結婚前夜』。あれからもう4年も経つのか。

『のび太の結婚前夜』でもそうだったけれど、この『おばあちゃんの思い出』でもやっぱり号泣。
幼稚園児のときに死別したおばあちゃんに、タイムマシンでドラえもんと共に(こっそりと)会いにいくのび太。おばあちゃんはやっぱり記憶通り優しい笑顔を浮かべていたけれど、幼い自分は我が儘邦題だった。
最初はこっそりと見るだけのつもりが、会話を交わすことになり、自身がのび太であることも告げる。

幼いジャイアンやスネ夫の心の内、相変わらず優しいしずかちゃん。そして、どこまでも穏やかで優しくて愛に満ち溢れたおばあちゃん。

掌に乗るような、小さな感動。どこにでも溢れているような、愛の物語。
だからこそ、観る者すべてが感じる心の震えはリアルで、素敵な気分にさせてもらえる。

声優が変わって、親の僕たちがあまり観るのに乗り気じゃないので、最近のテレビのドラえもんは観たことがないannも熱心に鑑賞。


やっぱりドラえもんは子供の心を掴む、素敵なアニメなんだなぁ。