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Delightful Days

tell on BLOG - ささやかな日々のしずく

カールじいさんの空飛ぶ家

2010-05-05 | movie
連休も遂に最終日。やっぱりあっという間だった。
今日からパートナーは仕事なので午前中はannとゆっくり過ごし、午後からばぁばも一緒にひぃばぁの病院へ。既に抜糸を終えていて、本格的なリハビリは連休明けからだけど、何と自分で歩行器で勝手に(ではないんだとうけど)少し院内を歩いているひぃばぁ。元気ですごい。annと会うとやっぱりとても嬉しそうで、早く家に帰りたいモチベーションにもなっているようだ。

帰りの車内からannが午睡。暇なのでピート・ドクター監督『カールじいさんの空飛ぶ家』をDVDで観る。ピクサー初の3D上映された作品だけど、DVDなのでもちろん3Dではない。それでも充分。素敵な映画だった。



何と言っても最初の10数分の導入部が素晴らしい。カールとエリー、子供の頃の出会い。大人になって結婚してから不幸な出来事に見舞われながらも愛し合いながら幸せに過ごす様子から、エリーの死、その後のカールの暮らしが台詞無しの音楽のみで綴られ、とても印象に残る。そして、そこから始まる冒険はピクサーらしく全編に渡って笑いも散りばめられた飽きさせない展開。それに導入部の深い印象が植え付けられているから、感情移入が自然に出来るし、それによって涙が自然にこぼれる。
憧れた冒険が果たせなくても、想い描いていた夢が叶わなくても、また新しい冒険は始められるし、夢だって描ける。絶望の底に沈んでいるのなら、一度上を向いてみればいい。そこにはきっと希望がある。じゃないと、生きている筈がない。
annがもう少し大きくなったら、パートナーも一緒に観たいな。

パレード

2010-04-09 | movie
出張も終わり。朝8時15分の便で帰国。
今回は暑くて暑くて、暑いと疲れが倍増するから参った。

帰りの機内で行定勲監督『パレード』を観る。



東京でルームシェアをして暮らす男女4人。そこに転がり込んでくる男。隣の部屋には売春疑惑があり、周辺では若い女性が無差別に殺されていく。
お互いに干渉し合わないドライな関係でも、それなりに悩みを打ち明け合ったりはする。でも、打ち解け合っているわけではない。そんな関係が楽だし、楽しい。パレードのように、人生は進むはずじゃない?楽しく賑やかなパレードのように人生は進むべきで、そのためにはお互いの深い部分に踏み込んではいけないし、踏み込んでほしくもない。
だから、メンバーに人殺しがいたって関係ない。というか、その動機や心の闇なんて見せないでほしい。関係ないから、一緒に旅行に行くでしょ?

行定勲監督は原作(吉田修一の同名小説)にある冷めた目線を忠実になぞり、現代社会の人間関係の恐ろしさを浮き彫りにする。ラストシーンでは寒気すら走る。
出演陣もそれぞれに確かな演技で、朝本浩文の音楽が恐ろしさを冷たく盛り上げる。
この関係性のデタッチメント、知らない振り、上辺だけのコミュニケーションはもはや個人的人間関係だけに蔓延するものではなく、世界的国家間の問題ですらある。つまり、個人としても集合体としても人間には乗り越えられない(乗り越えたくない)病理としてそれらは存在する。
今日もあの人とあの人は握手をして心の奥でにやりと笑い、脱落者に手を差し伸べる振りをして実は「脱落」という抗えない行為ですら和を乱すことを許さないのだ。

マイレージ、マイライフ

2010-03-31 | movie


今日から主張。今回は中国~タイ。まずは広州へ飛ぶ。

往きの機内でジェイソン・ライトマン監督『マイレージ、マイライフ』を観た。
リストラのための首切り代理人として全米各地を飛び回り、機内と空港を根城にしたマイレージな人生を生きる男にとって、そのバックパックは軽ければ軽いほど良い。そんな軽快な人生を半ば自嘲気味に生きるジョージ・クルーニーは自身を合理的で孤独な男だと信じ、それを愉しんでいるのだと言い聞かせてきたのか。
同じように各地を飛び回る女性、そして経費削減のために出張を廃してウェブカメラで首切りを伝えることを提案する新卒の後輩女性社員。彼女らとの出会いをきっかけに主人公の人生は大きく舵を切ることになる。
恋愛すらも行きずりで合理的にこなしてきたはずが、同じ匂いを持つ彼女にのめり込む自分がいる。他人の人生をどん底に突き落としている側面から敢えて目を逸らしてきたはずが、デジタルな新入社員の超合理性に納得することができない。彼のバックパックには様々なものが詰め込まれ、どんどん重くなっていく。でも、その重さが不愉快ではない。
要は、彼はアナログで、人間臭く、孤独の意味すらはき違えていた男だったのだ。
デジタルで合理的な仕分けが進む世界にあって忘れてはいけないことは、人間はどこまでもアナログだということだ。そして、人生を生きる上で、背負うバックパックが軽いことはとても寂しいことなのだ。どんどん詰め込めばいいわけではない。ただ、大切な人や物はずっと背負って、死ぬまで一緒に歩めたら。
軽快な演出とテンポの良い脚本。ジョージ・クルーニーが醸し出す中年男性の色気と悲哀。現代の問題や矛盾がユーモアも交えて描き出され、楽しんで観られる佳作だと思う。

Chapter 27

2010-03-20 | movie


J・P・シェファー監督『チャプター27』を観る。ジョン・レノン暗殺の殺人者マーク・チャップマンの心の闇。実行までのニューヨークでの3日間を描く。
確かに彼はビートルズの大ファンで、だからこそジョンがヨーコと結婚し、ショーンの世話のために主夫として隠居した5年間を長過ぎると感じたのかも知れない。詩と実生活がかけ離れていると怒っていたのかも知れない。
『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンに、自分なりに(それはきっと間違った解釈で)自分を重ね合わせていたのかも知れない。ホールデンは怒っていたけれど、彼の考えるキャッチャーはマーク・チャップマンの思うキャッチャーとは違う役割だったのだと思う。
だから、あの魂がこんな奴に葬られたのかと。永遠に戻って来れない場所へと追いやられたのかと思うと、やり切れない。
マーク・チャップマンの心の闇など、この映画を観たって何も感じ入ることが出来ない。ただの狂った男にしか見えない。
この映画の狙いはそこにあるのだろうな。何も深みがない。全然共感できない。こんな真相があったのか、とかを描いているわけではない。
ただただ、ジョンの魂を思う。どうして殺されたのかすら、分からない。

明日僕は、ジョンが「信じない」と歌ったジンママンのライヴに行くよ。あらゆる人を背負って、未だ世界中をツアーで回る彼のメッセージを聴いてくるよ。

だから、安らかに。
世界はまだ平和じゃないけれど、あなたの同志はまだ、歌っているから。

それでも恋するバルセロナ

2010-03-14 | movie


ウディ・アレン監督『それでも恋するバルセロナ』(それにしても酷い邦題)を。
情熱的で刹那的な恋を繰り返すクリスティーナと、結婚を間近に控えた安定志向のヴィッキーは親友同士。それぞれの目的のために共にやってきたバルセロナで破天荒な芸術家に違った形で惹かれ、挙句の果てにはぶっとんだ芸術家の元嫁が戻ってきて…。という旅先での恋のドロドロ顛末の物語。
ただもちろんウディ・アレンだからドロドロになんて描かない。それどころか、恋につきものの心の揺れや葛藤なんかも描かない。苦悩や迷いはすべて早口なナレーションで終わらせてしまうのだ。
だから、観ている方は誰にも感情移入できないし、自分を投影することもできない。ただ、恋の顛末を眺めるだけだ。つまり、観客はずっと冷静な第三者なのだ。
ウディ・アレンはその視点を見事なまでに作り出し、浮足立った「恋」の本質をシュールに浮かび上がらせる。当人にとっては激しく揺さぶられる感情的な心の病も、可笑しく、愛らしく、バカバカしくもある一時の熱病に過ぎない。
そしてそんな「恋」は、非日常である「旅」というスパイスによってさらに加熱する。だから、全てが終わってアメリカに降り立ったときのクリスティーナとヴィッキーの表情はあれほどまでにくたびれ、放心しているのだ。
74歳の監督は「恋」を愛しながらも、あくまでシニカルに描く。いや、「恋」を愛しているからこそシニカルに描き、その中と外との温度差を伝えることによってやっぱり慈しむべきもの、愛すべきものとして観客に提示する。
クリスティーナ役のスカーレット・ヨハンソン、ヴィッキー役のレベッカ・ホール、女たらしの芸術家フアン・アントニオ役のバビエル・バルデムもとてもハマっていて素晴らしいのだけど、やっぱりぶっ飛んだ元嫁=ペネロペ・クルスが最高。美しく儚く、恐い。女性の狂気を体現した演技は鬼気迫るもの(スペイン語での喧嘩のシーンなどめっちゃ怖い)があった。

Million Dollar Baby

2010-03-06 | movie


クリント・イーストウッド監督『ミリオンダラー・ベイビー』を観る。その題材と結末で賛否両論巻き起こしながらもアカデミー賞で4部門を受賞した作品。
ボクシングのみを信じそれに縋って生きていく堅い決意を秘めた、地方上がりの女性ボクサー。同じくボクシングに取りつかれ、頑固な哲学で時には弟子に裏切られながらもジムを続ける老トレーナー。彼らは移民系、貧民層のアイルランド系アメリカンだ。
彼ら2人を静かな眼差しで見つめながら、自身も同じくボクシングから離れられない片目の元ボクサー。彼は黒人だ。

映画は彼らの心の交流を軸に前半は女性ボクサーのサクセスストーリーを爽快なまでに描く。そして、急転直下、暗闇へと落とされる後半。

片目の元ボクサーの語りによってストーリーは展開する。つまりそこから見える世界はまさしく「光」と「闇」であり、クリント・イーストウッドはそれを巧みに使って(アメリカ人として)人間やその世界のどうしようもない部分をあぶり出す。
アメリカンドリームというお気楽な光のすぐ隣には、どん底へと繋がる陰がある。
それでもまだ呼吸をしているのだから希望を忘れずに生きるべきだという楽観論には、どうしたってそう発言した自身の心の奥底に「それは自分ではない」という安堵の暗闇が潜む。

結末に救いがない、とかいう問題ではないのだ。イーストウッドはどうしても消せない絶対的な「光」と絶対的な「闇」を描き出し、それを直視させ、問いかける。人間に、神に。
映画の中でイーストウッド演じる老トレーナーが無下にされながらも何度も神父にカトリックの定義を問いかけ、モーガン・フリーマン演じる元ボクサーに労わりながらも心ない言葉を発するのは、そういうことなのだ。彼は問いかけている。
神とは。愛とは。尊厳とは。生きることとは。死ぬこととは。

イーストウッドが提示したあくまで一つの結末に、悲しみ涙するばかりではいけない。
賛同するにしても異議を唱えるにしても、まずは自身の生の「光」と「闇」をしっかりと見据えて心に力を込めなければならない。少なくとも僕はまだ転落していないし、全身麻痺ではないのだ。

ディア・ドクター

2010-02-28 | movie


西川美和監督『ディア・ドクター』を観た。『ゆれる』もそうだったけれど、この監督は人間や社会のあらゆる相反する物事の狭間を描き出すのがとても巧い。その眼差しは奥深い本質にまで届き、ただ、作品では緻密な脚本と繊細な演出でさらりとそれを表現する。描き出したいことを丸ごと提示するのではなく、あくまでも社会の一部を切り取ってきたかのような作品に仕上げるので、観る方の心にはその前後を含めて複雑な余韻が残り、観賞後改めて考えることを強いられる。それがつまり西川美和の作家性なのだ。

かつて無医村だった山間の村で神様や仏様よりも祀り上げられる「先生」は医師免許のない「偽医者」だった。映画はその「先生」が突然失踪し、その後の刑事の捜査によって「先生」が実は「偽医者」であったことが暴かれていく過程が描かれる。「先生」が「先生」であったときの場面と、刑事による村人への聞き込みの場面が交互に配置され、観ている者は人間の持つ心の裏表と社会が抱えるあらゆる狭間を垣間見ることになる。

嘘と本当、罪と罰、正義と悪。あらゆる相反する物事は繋がっている。ただ、グレーに彩られた狭間があるだけだ。

「偽医者」が(最初は金目当てだったとしても)多くの高齢者にとってなくてはならない「先生」であったことは間違いない。自分の思っていた以上に崇められ神様以上の存在となってしまったことにより、自身の嘘の重さに押しつぶされそうになっていたことも。でも、「だから嘘だとしてもやったこと自体は良いことだったんですよ」という映画ではないことは、「先生」を笑福亭鶴瓶(笑顔でつぶれた目の奥に潜むナニかを秘める男)が演じていることからも窺える。

村長が生まれながらにして村長ではないのと同じく、医者も生まれながらにして医者なのではない。医者である証明は免許や資格で示されるのが本来だが、僻地では医者として診療所にやってきた先生は(初めて出会った何者かも分からない人物であったとしても)縋りつきたいほど大切な存在となり、一瞬にして全幅の信頼が置かれる。
人間は多かれ少なかれ何かの役割を演じて生きている。つまり、全てを「自分の人生」として生きているわけではない。だから、社会で生きることは苦しいのだ。
また、作中の香川照之の台詞「それは、愛じゃないですよね」によって、人間が思い合って社会を形成する原因は「愛」ばかりではないことも示され、孟子の言う性善説の存在もほのめかされる。ただ、監督はそれも断定はしないが。

巨大で複雑な共同体を作り上げた人間同士の関係性には様々な狭間が曖昧に存在し、善と悪は融合し、嘘と本当は垣根を失う。
だからこそ、自分にとっての本当を見つけなければならない。
ラストシーンで見せる八千草薫と笑福亭鶴瓶の笑顔がそれを象徴し、自問自答を繰り返し観てきた者にある程度の救いは差し伸べられる。
「先生」は偽物だったけれど、「先生」の中にある何かは本物だったのだ。
自身の「嘘」の重さに耐えかねて逃げ出したけれど、心通い合った者との約束からだけは逃げられなかったのだ。
グレーゾーンを突きつけられて恐れるばかりではなく、自分の人生における本当を僕たちは見つめなければならない。

余貴美子を初め出演陣すべての演技が素晴らしい。揺れる稲穂、もがく虫、シンクに捨てられたアイスクリーム、投げ出された白衣といった繊細で暗喩的な演出も見事。『ゆれる』からさらに進んだ、西川美和の傑作だと思う。

しんぼる

2010-02-25 | movie


大日本人』に続く松本人志監督第2作『しんぼる』を観賞。
初監督作でいきなり映画に挑戦状を突きつけ、従来の映画という認識そのものを壊しにかかって賛否両論巻き起こした松本人志だけれど、根っこにあるその姿勢は今作でも貫かれている。『しんぼる』はとても映画的な映像で綴られるメキシコのプロレスラー一家の話と、およそ10メートル四方を白い壁で囲まれた部屋に理由も経緯も分からず閉じ込められた名前のない男の脱出劇という2つの筋が交互に提示される。その手法自体映画的だし、メキシコのパートは至極真っ当な演出で(多少冗長なカット割りも含めて)とても良く出来ている。
そして、当たり前のように2つの筋書きは交差するのだけれど、その接触はおそらくこれまでの映画にはない、ただとても松本人志的な交差の仕方で描かれる。と同時に、とても映画的なメキシカンレスラーのパートはあっけなく壊される。
映画を壊すという姿勢は前作と変わらないが、この作品の最大の見せ場となるのが脱出劇を図る男を通じて松本人志自身の苦悩があられもない裸の姿で描かれているところだと思う。
ちんこ型の突起物を押すと現れる様々な使途不明のオブジェ。それらをなんとか工夫して脱出に使おうとするその姿で笑いを誘うのだが、その試みは脱出以上に容易ではないことが示される。
テレビ的な演出や構成もなく、笑ってくれる後輩もいなければ浜田雅功もいない世界。つまり、何もかもを全てゼロから産み出さなければならない部屋で、お笑いの世界を制した天才はもがき苦しみ、そしてマゾヒスティックにその姿を曝け出す。
ここで映し出されるのは映画に限らず既存の物事に潜む装飾が剥ぎ取られた実体だ。そして、そこを突破することの孤独と困難さだ。自らが裸になることによって松本人志は監督第2作でそこまで描いてしまった。
北野武が自身の内面の混沌を描いたのが第12作『TAKESHIS'』であり自分が映画などを作っている行為自体を自虐的に著したのが第13作『監督・ばんざい!』だったことを考えると、松本人志の映画監督としての歩みは焦りすぎているように見える。何かに急きたてられ、強迫観念に駆られ、結果的にじっくりと映画に向き合えていないように感じる。もちろん、映画に向き合わなければ映画を壊すことなど出来ない。
自らに課した使命、松本人志が映画を撮ることによる周囲からの憧憬や羨望や嫉妬が入り混じったプレッシャー。北野武は達観した。その前に、松本人志は一度立ち止まるべきだと思う。自らも置かれているはずの(テレビやお笑い世界の)装飾的常識を自身もろとも毟り取った今作が、娘が生まれて父親となったことが、そのきっかけになればと思う。

レディ・キラーズ

2010-02-21 | movie


イーサン・コーエン&ジョエル・コーエン監督『レディ・キラーズ』を観た。主演はコーエン兄弟作品初登場のトム・ハンクス。
1955年制作のイギリスのブラックコメディ映画『マダムと泥棒』のリメイクらしいけれど、残念ながらそちらは観ていない。舞台はイギリスからアメリカ南部へと変更され、マダムは敬虔なクリスチャンである迫力満点の黒人おばちゃんに置き換えられている。
つまり、(たぶん)オリジナルが持つブラックでありながらも瀟洒な笑いは、コーエン兄弟によってもっと黒くてお下劣なものへと変えられている(のだと思う)。
あらすじ自体はそれほどの捻りもない。ただ、役に立たなくなった亡骸が次々と橋の上からゴミ運搬船に落とされていくシーンはとても象徴的に心に残る。
もちろんコーエン兄弟だからゲラゲラと笑えるコメディではないけれど、10年以上振りにコメディ映画への復帰となったトム・ハンクスはさすがに上手いし、『オー・ブラザー』でカントリー音楽をとても印象的に使ったのと同じようにここではゴスペルが映画の味わいと深みをグッと増すのに巧みに利用されている。その辺はやっぱり彼ららしく上手いなぁと感じるし、シリアスな作品でもコメディ映画でも同じように作家性を漂わせられるところが彼らの特徴。だから、好き嫌い分かれるんだろうけど。

レスラー

2010-02-11 | movie
少しゆっくりめに起きて、ブランチを食べる。
ryuuは今夜の便で松山に帰る。その前にカットに行くというので最寄駅まで彼を送っていき、僕たちはそのままベビザラスなどをブラブラ。
ryuuが駅で車を降りたあと、annがずっと「ryuuくん、ひとりでかえっちゃったねぇ。これからふらふらしにいくのにねぇ」と言っていた。
ryuuとはたまにしか会わないので覚えているのか覚えていないのか分からないけれど、彼に会えば必ず懐くannだから、1人で行ってしまったのが寂しかったのかも知れない。

ベビザラスをふらふらして帰宅。
annとパートナーが昼寝をしている間、ダーレン・アロノフスキー監督『レスラー』を観る。



かつてはマジソン・スクウェア・ガーデンを満員にしていたスターレスラーも、20年後の今は週末に小さな会場で催される興行に細々と出演している。もちろんギャラで食べていけるはずもなく、収入の大半は平日のスーパーマーケットでのアルバイトによる。
薬に頼る身体はボロボロで、心臓発作で倒れた直後には引退を決意する。けれど、やっぱり彼の居場所はリングの上にしかない。

こんなあらすじだけ聞くと『ロッキー』のプロレス版みたいだけど、この映画はむしろその対極の位置にあるのではないか。
年老いたプロレスラーは病に倒れたあとようやく自分と向き合い、愛する女性や娘に向き合おうとする。でも、結局彼はそういった自分の数少ない大切なものさえ全て失ってしまうのだ。
スターレスラーはやっぱりスターレスラーだったという映画ではない。時間と怠慢に食いつくされた人生は、やっぱり取り返しはつかない。現実は思っているよりもよほど厳しい。
でも、それでも、レスラーはリングに上がるのだ。リングの上では、輝き、飛べるのだ。

ボロボロになったレスラーを演じるのがミッキー・ローク。
その生き様は俳優自身の人生とオーバーラップし、その演技は鬼気迫るものとなる。演技はあくまでも演技に過ぎない。でも、役を演じるのに、俳優のこれまでの人生全てを懸けられ、作中の人物がそれを演じる俳優に重なり合うとき、それこそが彼が全身全霊で表現する究極の仕事になる。
だから、ミッキー・ロークは、やっぱりスクリーン上で輝き、飛ぶ。