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祈りの長崎

2020年05月06日 | 平和
怒りの広島 祈りの長崎(いかりのひろしま いのりのながさき)は、日本の広島・長崎市民らの、原子爆弾による被爆や反核運動・核廃絶運動・原水爆禁止運動などに対する態度をあらわすフレーズですが、それはまた、極めてキリスト教的、カトリック的なこの町の性質でもあると思われます。

大浦天主堂やいくつかの集落、天草の集落など2018年に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産に登録されましたが、同名のサイトがあり、それによりますと2016年度において、長崎教区の教会の数は133で全国の教会の数が971で13.7%を占めていて、長崎教区の信徒数は60,989人と全国16教区の中で東京教区の94,977人に次ぐ2番目となっていますが、人口に占める割合は4.408%と圧倒しています。

ですから、長崎の街を歩き、ふと気がつくと視界のなかにカトリック教会の尖塔が飛び込んでくる、大げさでもなくそんな感じです。

「祈りの長崎」、背景には長いキリスト教の祈りの歴史があります。

長崎駅そばの日本二十六聖人殉教地(西坂公園)モニュメント。西坂公園は二十六聖人二十六聖人とは1597年2月5日豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された26人のカトリック信者の事です。キリスト教の信仰を理由に最高権力者(当時は豊臣秀吉)の指令による処刑が行われた最初の出来事です。



ルドビコ茨木は12歳、二十六聖人のうち、パウロ茨木、レオ烏丸は彼の叔父


聖ルドビコ茨木
最年少者。京都のフランシスコ会修道院
で従者として仕える。司祭が逮捕の時、
彼は除外されたが、捕えるよう願い出た。
「私の十字架はどこ」と刑場で尋ねた話は
今でも語り継がれる。12歳。尾張生まれ。


トマス小崎は14歳、二十六聖人のうち、ミカエル小崎は彼の父。


母に宛てたトマス小崎(14歳)の手紙

神の御助けによって、この数行をしたためます。長崎で処刑されるためそこへ向かう神父と私達は、
先頭に掲げた宣告文の通り、二十四人です。私と父上ミゲルのことについては御安心下さいますように。
天国で近いうちにお会いできると思います。神父様達がいなくとも、もし臨終の時、犯した罪の深い痛悔
があれば、またもし主イエス・キリストから受けた数多くの御恵みを考えそれを認めれば救われます。
現世ははかないものですから、パライソの永遠の幸せを失わぬように努めて下さいますように。
人々からのどのような事に対しても忍耐し、大きな愛徳をもつようにして下さい。私の弟達マンショと
フェリペを未信者の手に渡さぬように御尽力下さい。私は我が主に母上達のためにお祈り致します。
私の知人の皆様に宜しくお伝え下さい。重ねて申し上げます。貴女が犯した罪について深い痛悔を
もつようにして下さい。これだけが大切なことです。アダムは神に背いて罪を犯しましたが、痛悔と償い
によって救われました。
安芸国三原の城より
十二番目の月の二日 (1597年1月19日)


パウロ三木はイエズス会の会員、当時33歳。護送中の囚人の精神的支柱であったようである。


十字架に付けられたパウロ三木の説教

ここにおいでになる全ての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。私はルソンの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会の
イルマンである。私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。私はこの理由で死ぬこ
とを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵だと思う。
今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。キリ
シタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を放すように教えている故、私は国王(秀吉)とこの私の死刑に拘わった全ての人々を赦す。
王に対して憎しみはなく、むしろ彼と全ての日本人がキリスト信者になることを切望する。

(フロイス、1597年の「殉教記録」より) (フロイス・ルイス「日本二十六聖人殉教記』フロイス・ルイス著 結城悟訳聖母の騎士社209頁に掲載)


映画「沈黙-サイレンス‐」でリアム・ニーソン扮するフェレイラ司祭が「何か違う、彼らは天国と極楽浄土をごっちゃにしている」と独白し棄教しますが、その彼の遺体の手にはそっとマリア像が握らさている。人はそう簡単に自分を犠牲に出来る者ではありません。そういった現実逃避的なものではなく、もっと受動的な信念だと思います。私、専門ではないのでこれ以上の論評は避けますが、それが信仰なんでしょうね。


グラバー亭そばの大浦天主堂。正式名は日本二十六聖殉教者天主堂で、日本二十六聖人に捧げられた教会堂、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられているそうです。日本に現存するキリスト教建築物としては最古で、国宝に指定されています。1864年末に竣工し、翌年2月に祝別されました。



(以降の記事、碑文マニア被爆地広島と長崎を訪れてと重複する部分があります)この祝別の直後、3月に、浦上の潜伏キリシタンが訪れ、信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となりました。言うところの「潜伏キリシタン」。





記念碑文
紀元一八六五年(慶応元年)二月
九日、松人宣教師プチジャン神父(
後の初代長崎司教)により大浦天主
堂が建立されたが、同年二月十日
天主堂参観の浦上の住民等十数名が
同神父に近づき「私達もあなた様と、
同じ心の者でございます。
サンタマリヤの御像はどこ
と云った彼等は三百年に亘る厳しい
迫害を堪え忍び、ひそかに守り伝え
たカーリックの信仰を表明した
日本キリスト信者のこの信仰宣言は、
史上に例のない事実して全世界を
驚嘆させた。その感動的な場面をこ
の碑に再現し、信者を見百周年記念
としてこれを建立するものである。
一九六五年三月十七日、
信者発見百周年行事委員会

ブラタモリで取り上げていたように、「宗門心得違い」として迫害せず、お寺の信徒代表が実はキリシタンであったといった話しに事欠かないおおらかさにも守られ、彼らは267年の長い間、静かに、祈りをささげることによって、信仰を継続してきました。

これが「祈りの長崎」の原点です。声高らかに叫ぶのではなく、静かに祈ることにより被爆体験を後世に伝えていく。国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の満々と水が蓄えられた水盤がそれを静かに語っています。


              銘 文
 昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、長崎市に投下された原子爆弾は、
   一瞬にして都市を壊滅させ、幾多の尊い生命を奪った。
  たとえ一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない
    心と体の傷跡や放射線に起因する健康障害を残した。
  これらの犠牲と苦痛を垂く受け止め、心から追悼の誠を捧げる。
原子爆弾による被害の実相を広く国の内外に伝え、永く後代まで語り継ぐとともに、
   歴史に学んで、核兵器のない恒久平和の世界を築くことを誓う


独自の発達を遂げ、土着宗教化した「かくれキリシタン」は「潜伏キリシタン」とはまた違うものですが、教皇フランシスコは「彼らをカトリックと認めない理由は何もない」としております。