光と影のつづれ織り

写真で綴る雑記帳

大阪城から藤田美術館へ、心中天の網島など

2023年11月27日 | ぶらり探訪

大阪城から、網島の藤田美術館に向かいます。  2023年10月21日(土)

藤田美術館は初めてで、大阪に勤めていた時も、この方面には行ったことがありません。

グレーのマーカーが歩いた経路です。

 

 

第二寝屋川の新鴫野橋から、上流側を撮ったもの。

 

上の写真の中央部を拡大。川を周遊する、水上バス”アクアライナー”が見えます。

調べると大阪城港がすぐ近くにある。

 

 

 

さて、寝屋川をわたり、網島へ。 ここの歴史を調べてみました。

網島は、江戸時代の地図でみると、中州(島)だった。

図で、古大和川と書かれているように、昔の大和川は、1704年に付け替え工事で、堺市の

北に流路を変えるまで、河内平野を流れ、網島で大川(淀川)と合流していました。 

両河川が膨大な土砂を運んで、中州ができたのでしょう。

当時、備前島と呼ばれていました。 備前島の名前の由来は、秀吉の時代に、備前の国、宇喜多秀家

屋敷があったことにちなんでいる。

 

江戸時代は、風光明媚な場所でもあった。

「摂津名所図会」は寛政8年から10年(1796~98)に刊行された摂津国の観光案内書

網島(あみじま)  京橋の北にあり。
この所は澱川の堤にして、漁家列なり鮮魚を多く市に出だす。また貸食家ありて、風流の第を設け、
前には難波律の通船・釣船・網船の逍遥に夏の暑きを忘る。

夕暮の河風に螢飄瑤として吹けども消えず、星の流るるに似たり。また中秋の月は、銀色三千界の
けしきありて、流光に棹の音蕭条としてさらなり。

東は志貴・生駒・掠が嶺峠・かづらき・二子山の雪げしきも一興にして、難波最上の名境なるペし。

 

そしてここは、近松の傑作「心中天の網島」の舞台でもある。

1720年(享保5年)10月14日夜に、網島の大長寺で、大阪天満の紙屋治兵衛と、

曾根崎新地の遊女小春とが、情死を遂げた場所なのです。

今の、藤田美術館のあたりが、ちょうど、大長寺のあったところ。

曽根崎から、大長寺まで、6kmほどあるのですが、深夜に幾つもの橋を渡る道行でした。

太宰治の情死にも関りがあるのですが、それはまた、別記事で述べることにします。

 

そんな網島に大災害が起こります。

明治18年の淀川洪水・・・ウィキペディアより要約。

 6月の洪水 
1885年(明治18年)6月は、上旬から雨が降り続き、17日夜に、枚方市の伊加賀で淀川本流の堤防が
決壊、淀川南側にあふれ出した。

淀川左岸の堤防は各所で決壊し、加えて淀川支流の河川や用水路の水もあふれ出し、大阪市北部や河内
平野の北側一帯が浸水。 水は寝屋川の堤防までで
、寝屋川以南に被害はなかった。

洪水の勢いが止まった後、大阪府知事は大川の堤防をわざと決壊させ、膨大な水を流してしまおうと
「わざと切れ」を実施。(江戸時代から行われてきた方法)
洪水地域の南西
の角にあたり、網島町にあった大長寺裏の大川左岸堤防を20日から23日にかけて切り
排水を行った。

25日からは枚方市伊加賀で堤防の修復が開始された。

7月の洪水
浸水地域の排水が終わっていない27日の夜から雷雨が始まり、28日は台風の影響で大雨、29日は風が
まり、7月1日は暴風雨となって、2日には修復中だった伊加賀の堤防が再び決壊。
さらに、多くの堤防も決壊し、「わざと切れ」を行った大長寺裏の堤防からも大川の水が入ってきた。
洪水は寝屋川以南にまで拡大し、7月上旬には江戸時代の干拓で消滅したはずの深野池と新開池以上の
大きな湖、かつての河内湖が地上に現れ出す始末であった。

さらに高潮まで加わって大阪湾の水が安治川を遡って現在の北区、西区一帯も浸水してしまった。

最大で約4mも浸水、死者・行方不明者81名被災者30万4,199人という甚大な被害が発生した。

浪華三大橋と呼ばれた天満橋・天神橋、八百八橋とうたわれた大阪の橋は主な橋だけで30余りが次々に
流失し、市内の交通のほぼ全てが寸断された。
暴風雨がやむと、ようやく洪水も動きを止め、各所の堤防の修理の甲斐もあり、長い時間はかかったが
大長寺裏の堤防から排水されていった。

この洪水後、1896年(明治29年)に淀川改修を加えた公共河川法案が成立し、淀川の改修工事が始めら
れることとなった。

なお、御堂を流され、境内も荒れ果ててしまった大長寺は、1887年(明治20年)頃に藤田伝三郎にその
土地を売却し、寺は
再興を果たした。
大長寺があったその地に伝三郎は網島御殿
と呼ばれる邸宅を建てた。

 

藤田邸

下図は、大正13年1月(1924年)に発行された「大阪市パノラマ地図」の部分図。
藤田邸が描かれています。

建設経緯・・・ウィキペディアより要約
後に藤田財閥となる藤田組の総帥、藤田伝三郎が大川の左岸、網島の地にあった日本郵船大阪支店長屋敷を
1886年(明治19年)に買い取って移り住み、前年の淀川洪水で荒廃していた大長寺の敷地を明治20年頃に
取得。1893年(明治26年)から1896年(明治29年)にかけて旧本邸を完成させる。

1910年(明治43年)から1916年(大正5年)にかけて、約53,000平方メートルの敷地内に新本館、西邸、東邸
を完成させ、「網島御殿」や「あかがね御殿」などと称される。
この時、珍しかった鉄筋コンクリート造りの蔵の他、本邸、西邸、東邸にそれぞれ十数もの茶室を設けた。
1916年(大正5年)には,
和歌山県高野山から,檜皮葺の多宝塔を移築し、それを銅板葺に改めた他、豪華な日本
庭園を完成させた。

その間の1912年(明治45年)男爵となった伝三郎が死去し、家長・男爵・財閥総帥の座と敷地の大半、本邸は
長男の平太郎が相続し、東邸は次男の徳次郎、西邸は三男の彦三郎がそれぞれ貰い受けた。

大正13年の発行であれば、東邸もあるはずですが、描かれてないようです。(図の左上部分)

1943年(昭和18年)には西邸は大阪市の所有に。 
1945年(昭和20年)6月7日の第3回大阪大空襲により、残ったものは表門・東邸
・鉄筋コンクリート造りの蔵・
多宝塔などで、他はほとんどが焼失。
戦後、その敷地は分割。
本邸跡を中心とする中央部は1954年(昭和29年)に鉄筋コンクリート造りの蔵を本館とし、藤田美術館として
藤田家の至宝を一般公開。 令和22年、本館であった蔵が取り壊され、新たな美術館が建設された。

東邸を中心とする東部は1959年(昭和34年)に、藤田観光が東邸を「淀川邸」と称し、多数の建物をも新たに
建築し結婚式等を行うことができる太閤園として開業、しかし、コロナ下の2021年6月、営業を終了し、太閤園
の土地や建物は宗教法人の創価学会へ売却。

西邸を中心とする南部は、1959年(昭和34年)に大阪市が迎賓館を建築し、大阪市長公館をへて大阪市公館と
なった。2014年(平成26年)からはレストラン・ブライダル施設「ザ・ガーデンオリエンタル大阪」として営業中。

表門を含めて長らく放置されていた日本庭園を中心とする北西部だが、やがて大阪市が入手。この真下の地下を
走ることとなるJR東西線とその駅となる大阪城北詰駅の新設工事の際に資材置き場等に使用され、その後きれいに
整備。JR東西線開通後となる2003年(平成15年)12月19日に「旧藤田邸庭園」として、名勝の指定を受けた。

 

そんな、歴史のある藤田美術館一帯の、現地を撮った写真を。

表門です。

 

 

美術館近くの庭園。

 

 

藤田美術館の外観。  ネットから

 

 

 

建替え前の美術館  ネットから

蔵が横に並び、周囲は高い塀に囲まれています。

 

当時の展示室  ネットから

 

当時の藏   ネットから

 

 

藤田美術館の中、展示室の入口です。 当時の藏の出入り口を使っています。

壁は大津塗、床は三和土(たたき・・・「敲き土(たたきつち)」の略で、赤土・砂利などに消石灰とにがりを
混ぜて練り、塗って敲き固めた素材、昔の土間のつくり)

美術館に入館時は、壁や床のことは知らなかった。 ただ、何か・・・柔らかい雰囲気の空間を感じました。

なお、撮影は、スマホのみOKという、へんな規制。

 

入口からすぐのところで、マーク・ロスコの絵画のようなものが

 

 

やがて、文字が浮かび上がり・・・デジタルディスプレーでした。

 

 

薬師三尊天人像
南北朝~室町時代 14~16世紀

 

 

四天王像

左に、現代アートのような人物が写っていますが、窓越しの鑑賞者です。

 

多聞天
鎌倉時代 13世紀

 

 

 

 

茶道具は、さすが。

 

 

 

 

手桶形水指
本阿弥光甫 江戸時代 17世紀

 

 

 

紅葉呉器茶碗 銘 唐錦
朝鮮時代 16世紀

 

 

 

 

 

 

臨済徳山図
室町時代 13~15世紀

 

右の掛軸の顔部分。

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

重文 雪舟自画像(模本)
室町時代 16世紀

 

 

歌仙切
後醍醐天皇宸翰 室町時代 15~16世紀

 

 

 

 

古代裂帖  天人幡残闕
飛鳥時代 7世紀

 

 

展示室をでたところの窓、昔の藏の窓を使って、いい雰囲気。

コンクリート打ちっ放しですが、スギの型枠模様が渋い。

 

 

 

 

 

縁側の先には、多宝塔や茶室が建っています。

 

 

展示室を出たところにあった、藤田伝三郎の説明パネル。

長州閥の政商ではあるのですが、商才もあった。

 

 

航空写真で見た藤田美術館。

右上部分が、旧太閤園、今は多くの建物が、解体されてありません。

 

 

旧太閤園は、現在、工事用の壁で囲まれていました。

 

ネットから、旧太閤園の俯瞰図と、

 

関西池田記念大講堂 完成イメージ図
料亭の建物や日本庭園は取り壊すことなく、保存されるようだ。

大阪勤務時代、結婚式場・太閤園の名前をCMで散々、聴いたものでした。

時代はどんどん変わっていく。


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