平和記念展望台から、春菊の咲く道を進むと、枕崎市街が見えます。
残念ながら開聞岳はかすんで見えません。
道を戻って、火の神公園へ。 ここから観た立神岩です。 右手は山立神。
立神岩は高さ42m。 漁業の守り神として、地元の人々から大切にされている。 またこの火の神公園は、枕崎の人々も昔から遠足などに訪れる場所。 92歳の母もこの写真を見て、「懐かしいのでほしい」
翌日、泊まったホテルから「立神」を観た。
開聞岳の見え具合。
平和記念展望台から、春菊の咲く道を進むと、枕崎市街が見えます。
残念ながら開聞岳はかすんで見えません。
道を戻って、火の神公園へ。 ここから観た立神岩です。 右手は山立神。
立神岩は高さ42m。 漁業の守り神として、地元の人々から大切にされている。 またこの火の神公園は、枕崎の人々も昔から遠足などに訪れる場所。 92歳の母もこの写真を見て、「懐かしいのでほしい」
翌日、泊まったホテルから「立神」を観た。
開聞岳の見え具合。
鹿児島 枕崎に行ってきました。 特別養護老人ホームに入所している叔母との面会などを行い、2日目には大阪へ移動して介護を受けている両親や兄弟との面会でした。
時間の合間を見て、枕崎市の観光スポットである立神(たてがみ)という岩礁に行ってきました。
立神に向かい合う山立神にある平和記念展望台へ(戦艦大和などの殉難鎮魂の碑が建っている)
映画ロケ地も近くだったようだ。
大和を旗艦とする第二艦隊の乗組員への慰霊碑です。
平和記念の像と慰霊碑
沖合いに東シナ海が広がる。
沈没地点を示す石碑。 ここから約200km先の東シナ海がその地点。
遺族の方々が多く来ているのだろう。 新しい花が活けられていた。 そういえば、父の兄や母の兄も戦争、それも船で亡くなったと、小さい頃に聞いたことがある。 海に向かい胸に手をあてた。
3月27日から30日まで、九州へ行ってきました。 介護のため、大阪に両親を移したあとの、住宅明け渡しのためです。
作業はスムースに進んだので、姉達と桜が満開の添田公園に行ってきました。
この公園は、福岡県田川郡添田町の岩石山(がんじゃくさん)の麓にあります。 写真は、公園の中腹から撮ったものです。
写真では、よくわかりませんが、桜のむこうには、私が通った中学校があります。
もう少し、上って行ったところの山肌に、彩りよく咲く桜など
古いコンパクトカメラで撮りましたが、露出の失敗があり、ハイキーになったお花見風景です。
修験道で名高い英彦山(ひこさん)の中腹のホテルに宿をとりました。 部屋から撮った、日の出前の山並み
美術館や博物館の記事の途中でしたが、故郷の用事で帰省した記事を挟みました。
もう、行くことはないかもしれない故郷、少しセンチメンタルな気分になりました。
枕崎市のシンボル立神岩(たてがみいわ)が右端に、開聞岳が左手に見える耳取峠からのショット。
絶景ポイントとの看板があるのですが、無粋なゴミ焼却場がど真ん中に。 残念
立神岩は高さ40mで岬側は山立神と呼びます。
このあと、坊津の双剣岩に。 9月3日16:30頃
長崎鼻の近くのフラワーパークから、海岸に降りて、山川、指宿方面を見たもの。
名所ではないのですが、いい感じでした。 スモッグのようなものが見えますが、桜島の噴煙だと思います。
この日、小爆発があって、この写真を撮った2時間後に桜島の見えるところを通ったら、噴煙が上がるのではなくて横に流されるように南に向かっていました。
上の写真を撮ったところから、南方向を見たもの。 赤水鼻という小さな岬になります。
写真を撮ったところは小さな港になっていて、カツオ漁の船だろうか数隻が停泊していました。、
瀬平橋から枕崎方向。 白い塔が遠くに見えますが、風力発電の塔です。
この場所を訪れた与謝野鉄幹と昌子の歌が欄干に彫られています。
長崎鼻から見た開門岳。 長崎鼻はいまいちでした。
昨日の写真と同じ位置から。 長崎鼻
九州への帰省から戻ってきました。 用事が多く、写真を撮ったのは僅かでした。
鹿児島から帰る9月4日に撮った瀬平橋からの開聞岳。 海の碧さが素晴らしい。
橋から南方向を。
瀬平橋は頴娃町(えいちょう)にある橋で開聞岳を見る絶景ポイントの一つです。
橋のたもとから枕崎方向(西方向)。
老人保健施設に入っている父を連れて、英彦山(ひこさん)の中腹にある花園へ。
スロープカーの軌道沿いに石楠花や大手毬の花々。
英彦山は修験道の霊場として名高い。正面の山がそうで、左から北岳、中岳、南岳。
スロープカーというモノレールのようなものがあり、中間の花駅に花園がある。
ツツジとシャクナゲの競演。
爽やかな山の空気のなか、ウグイスが鳴いていた。 小鳥好きの父で、メジロの鳴き声を聞くのが趣味だったが、父の耳は遠くなり、聞こえないという悲しい答えが返ってきた。
実家の前庭に咲くツツジ。 年老いた母が水やりなどをしている。
花はもう終わりに近いが最後の美しさを見せている。
夕刻前の陽と、茂みの裏側という条件だろうか、温かい色味に。
小学校のグランドで。
(写真が傾いていて見づらいのはご容赦を)
昔はグランド右手に平屋の校舎があったが、生徒数の減少だろうか跡形もない。
当時は3千人近くいた。
小学校から10分ほど歩いた彦山川の小さな支流、畑川で。 日暮れ前。
踏切近くにある床屋さん。 ここに出来て50年以上になると思うが、続いているんだ。
屋根瓦の頂は漏水防止のブルーシートだろうか
御旅所と呼ぶこの場所に楠の大木がある。
石碑が建っており、「猿田彦大神」天保13年と書かれていることから、1842年作の石碑。楠も相当、年代物である。
この場所は小学校の門の前にあり、小学生の頃、幹の根元で遊んだりしたものだ。
そういえば、小学4年生のときのクラスの文集のタイトルが「くすのき」だった。
ガリ版刷りの文集の表紙が目に浮かぶ。
樹はまだまだ元気だ。 これから数百年は生きていくのだろう。
楠を遠景に小学校の校庭を。 私が通った頃は木造校舎だったが・・・
思い出だけになってしまった。
介護の用事で両親の住む九州・福岡の添田町に帰省したおりの写真です。
小さい頃よく遊んだ彦山川。 川の中で石積みをしたり、泳いだりしました。
あまり変わっていないので嬉しかったですね。
もう少し、下流に行く途中で猫クンのお出迎え。猫クンにとっていい場所のようです。
その先は、草ぼうぼうなこともあり、猫クンに敬意を表して引き返しました。
迂回して川にある堰堤に行ってみました。相変わらずの水しぶきだ。
この場所から10mほど下流に昔、眼鏡橋と呼んでいた煉瓦づくりのアーチ橋
(石炭の積み出し用だと思う、川の半分までしかかかっていなかった)があった
のだが、なくなっていた。
彦山川にそそぐ小さな支流に畑川があり、その脇に建つ廃屋と思しき家です。
新緑と不思議に合っていました。
ローカル線の駅。 東京からは飛行機とレンタカーで帰るので、とんと利用しなくなってしまった。 車両も2両のみ。 中央に見える楠は小学校横にある大木で、この木だけは、ますます隆盛になっている。