歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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いっしょに動かしていく

2012-05-31 03:44:50 | 日常
ここ二十年、旧かな使用で、幅広い層に受け入れられた短歌のご本が、存在しないという事実をもってして、「いっしょにお茶を」から、新かな遣いにしようとおもっています。

自分の発案です。

なぜ、旧かなを選んできたかというと、古い言葉をなるべく守りたいとおもってきたからです。
「セイレーン」のとき、新かなに変えようかなって、迷いを口にし、版元の牙城さんと、話し合ったの、覚えています。

そして、一つ一つを意義深いものにしてゆくためには、変化もまた、必要なのだと、思い至りました。

もし、「いっしょにお茶を」が、動けば、「セイレーン」やDVD「聖夜」や、現在入手可能な著作物もまた、必ず動きます。

そうなりますと、「セイレーン」「辰巳泰子集」が、辰巳泰子の単行本では、旧かな使用の最後のものとなります。

でも、「セイレーン」までの単行本所収の作品は、これからも、許される限り、旧かなで、通したい……。
表記もまた思想、価値観を表すと、とらえています。
そのとき愛したものが、形を損なわれず、そこにあるように。
それが、文字に残す意味、記録ということ。

「セイレーン」は、牙城さん装丁の、かっこいい本。
カバーを外しても、美麗です。



巻頭歌。



いまのうち、こちら(邑書林さんの注文コーナー)で、お買い求めください。
よろしければ、他の新刊本も。

younohon.shop26.makeshop.jp/shopdetail/006000000002/order/

皆様が、ご本を出される場合も、すごく、親切に、丁寧に、相談に乗ってくださいます。
営業も本気です。

じゃ、なんで次のも、お世話にならないんだって、それは、わたしの買取可能の部数が、少ないので、かえってご迷惑だからですよ。
こちらから、持っていけた話ではありません。

ですから、お声をかけてくださった版元さんには、著者なりに、版元さんからのご注文を、真剣に考えます。
(「いっしょにお茶を」については、売れる本を、というご注文です)

皆様、どうぞよろしくお願いします。

追記……。

絶版本については、575ブックスへ、お問い合わせを。
知り合いの古書店。
お客の目線で、お勧めします。
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6 コメント

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詠む人も詠まない人も (泰子)
2012-05-31 06:24:39
新かな原稿を、起こそうとして、致命的なこと発見。新かなにすると、命令形にしたときの、やわらかさがなくなる。皆さんは、ご自身、仮名遣いについて、どのようにお感じですか。歌を詠む人も、詠まない人も、おしゃべりしましょう。個人の趣味でけっこうです。
返信する
私は新かな (松村由利子)
2012-06-02 01:02:09
「辰巳さんが新かな」というのは、すごいニュースです!
まだ決め兼ねていらっしゃるようですが、そう考えられたこと自体、素晴らしい柔軟性だな、と思います。

私自身は、戦後の国語改革というものを引き受ける1人でありたいと考え、新かなにしています。
そして、当用漢字(今は常用漢字)と字体の簡略化は、本当は新かなとセットで考えてもよいのではないかと思います。両方、国語改革で無理やり押しつけられたものなのですから。

正しい言葉、なんてないのですから、結局、表記の問題は好みなのかな、とも思います。
けれども、文語・旧かなにこだわりつつ、戦後つくられた妙な漢字は平気で使っている、というのは、あまりにも歴史に無頓着かな、と感じるのです。
いずれにせよ、現代短歌における文語文法も、康熙字典の字体あり無理やり簡略化した字体ありの漢字も、キメラのような不自然なつぎはぎでしかありません。
それを考えると、仮名遣いなんて、どっちでもいいようにも思えてしまうのでした!
返信する
ともに生きる道具 (泰子)
2012-06-02 04:33:44
お書き込み、感謝。

文字も言葉も道具。

文明の産物ですけど、いまの仮名遣いだって、漢字だって、その時代の当事者には、ともに生きる道具ですよ。

ともに生きてきた道具と、個々人で実感されるものを、本当に使えなくなるまで大事にしたいとおもうのは、当然ではないでしょうか。

それは、歴史を知る知らないの、問題ではないですよ。

教養の問題ではないですよ。

生まれたとき、使える状態でそこにあるから使う。
それが、道具の道具たる、ゆえん。

成立過程まで知って、誰がパソコンを使っているでしょうか。と同時に、パソコンがあるから、手書きとどっちでもいいと、これも、ほとんど誰も、おもってないでしょう。

生まれたときに、まだあって、死に掛けていた道具のそれぞれに、愛を感じる人も、感じない人も、あって、愛を感じていない人が、愛を感じている人に、どっちだっていいといったら、怒らせるとおもうんです。

それを言ってしまうところが、可愛い人と思うけれども。
返信する
補足 (泰子)
2012-06-02 06:07:03
あともう一つ。

由利子さんがお書きのことは、「どっちでもいい」という結論は別として、三十年以上前、多くの人が言説としていたところです。

由利子さんは、特殊なことを書いているのではなく、歌壇的には、塚本邦雄よりやや後の世代の、一般論です。

そのうえで。

わたしが書いた内容は、これも一般論で、文化人類学の教養分野のようなこと、個人の感想というより、そっち系の受け売りです。

ウェブ上は、本当に何も知らないで、個人の趣味しかないという人が、たくさん通りかかるから、気をつけてくださいという意味で、書きました。

本当にさまざまな分野のことを知っている人が、このやり取りを読めば、二人とも、受け売りね~って、とこでしょう。
返信する
多謝! (松村由利子)
2012-06-02 07:30:57
泰子さま、
ご丁寧なお返事、ありがとうございます。

「どっちでもいいように思えてしまう」と書いたのは、私の「逃げ」でもありました。
本当のところ、旧かなで書かれた詩歌や文章も大好きだし、新かなのものにも親しんでいるし、どちらの道具も同じように大事--というのが、一番正直な思いでしょうか。

一首の中に、二つの仮名遣いが混在するのはよくないと思いますが、一人の歌人が時々使い分けてはいけないのかしら。
「ああ、この歌、旧かなで表記したいよ~」と思うことは、私だってあるのです。

もっとたくさんの方が、ここに書き込んでくださるといいですね!
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ありがとうございます。 (泰子)
2012-06-02 12:04:48
遣い分けたら、媒体で共有されるまでのプロセスで、手数が増えて、経費もかかる。
読むほうにも知識がいる。
手数も経費も知識もいらないほうが、便利です。

いまの時代、便利という名の全体主義ですから。

かな遣いに限らず、個々人で、譲れるとこと、譲れないとこが、しっかりあるのがいいとおもいます。

みんなといっしょでいいとこと、みんなといっしょでダメなとこが、自分でわかってないと、あらゆる便利なものの波の押し寄せに、結果、何していいか分からなくなって、不自由になるとおもう。
返信する

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