ここ二十年、旧かな使用で、幅広い層に受け入れられた短歌のご本が、存在しないという事実をもってして、「いっしょにお茶を」から、新かな遣いにしようとおもっています。
自分の発案です。
なぜ、旧かなを選んできたかというと、古い言葉をなるべく守りたいとおもってきたからです。
「セイレーン」のとき、新かなに変えようかなって、迷いを口にし、版元の牙城さんと、話し合ったの、覚えています。
そして、一つ一つを意義深いものにしてゆくためには、変化もまた、必要なのだと、思い至りました。
もし、「いっしょにお茶を」が、動けば、「セイレーン」やDVD「聖夜」や、現在入手可能な著作物もまた、必ず動きます。
そうなりますと、「セイレーン」「辰巳泰子集」が、辰巳泰子の単行本では、旧かな使用の最後のものとなります。
でも、「セイレーン」までの単行本所収の作品は、これからも、許される限り、旧かなで、通したい……。
表記もまた思想、価値観を表すと、とらえています。
そのとき愛したものが、形を損なわれず、そこにあるように。
それが、文字に残す意味、記録ということ。
「セイレーン」は、牙城さん装丁の、かっこいい本。
カバーを外しても、美麗です。
巻頭歌。
いまのうち、こちら(邑書林さんの注文コーナー)で、お買い求めください。
よろしければ、他の新刊本も。
younohon.shop26.makeshop.jp/shopdetail/006000000002/order/
皆様が、ご本を出される場合も、すごく、親切に、丁寧に、相談に乗ってくださいます。
営業も本気です。
じゃ、なんで次のも、お世話にならないんだって、それは、わたしの買取可能の部数が、少ないので、かえってご迷惑だからですよ。
こちらから、持っていけた話ではありません。
ですから、お声をかけてくださった版元さんには、著者なりに、版元さんからのご注文を、真剣に考えます。
(「いっしょにお茶を」については、売れる本を、というご注文です)
皆様、どうぞよろしくお願いします。
追記……。
絶版本については、575ブックスへ、お問い合わせを。
知り合いの古書店。
お客の目線で、お勧めします。
自分の発案です。
なぜ、旧かなを選んできたかというと、古い言葉をなるべく守りたいとおもってきたからです。
「セイレーン」のとき、新かなに変えようかなって、迷いを口にし、版元の牙城さんと、話し合ったの、覚えています。
そして、一つ一つを意義深いものにしてゆくためには、変化もまた、必要なのだと、思い至りました。
もし、「いっしょにお茶を」が、動けば、「セイレーン」やDVD「聖夜」や、現在入手可能な著作物もまた、必ず動きます。
そうなりますと、「セイレーン」「辰巳泰子集」が、辰巳泰子の単行本では、旧かな使用の最後のものとなります。
でも、「セイレーン」までの単行本所収の作品は、これからも、許される限り、旧かなで、通したい……。
表記もまた思想、価値観を表すと、とらえています。
そのとき愛したものが、形を損なわれず、そこにあるように。
それが、文字に残す意味、記録ということ。
「セイレーン」は、牙城さん装丁の、かっこいい本。
カバーを外しても、美麗です。
巻頭歌。
いまのうち、こちら(邑書林さんの注文コーナー)で、お買い求めください。
よろしければ、他の新刊本も。
younohon.shop26.makeshop.jp/shopdetail/006000000002/order/
皆様が、ご本を出される場合も、すごく、親切に、丁寧に、相談に乗ってくださいます。
営業も本気です。
じゃ、なんで次のも、お世話にならないんだって、それは、わたしの買取可能の部数が、少ないので、かえってご迷惑だからですよ。
こちらから、持っていけた話ではありません。
ですから、お声をかけてくださった版元さんには、著者なりに、版元さんからのご注文を、真剣に考えます。
(「いっしょにお茶を」については、売れる本を、というご注文です)
皆様、どうぞよろしくお願いします。
追記……。
絶版本については、575ブックスへ、お問い合わせを。
知り合いの古書店。
お客の目線で、お勧めします。
まだ決め兼ねていらっしゃるようですが、そう考えられたこと自体、素晴らしい柔軟性だな、と思います。
私自身は、戦後の国語改革というものを引き受ける1人でありたいと考え、新かなにしています。
そして、当用漢字(今は常用漢字)と字体の簡略化は、本当は新かなとセットで考えてもよいのではないかと思います。両方、国語改革で無理やり押しつけられたものなのですから。
正しい言葉、なんてないのですから、結局、表記の問題は好みなのかな、とも思います。
けれども、文語・旧かなにこだわりつつ、戦後つくられた妙な漢字は平気で使っている、というのは、あまりにも歴史に無頓着かな、と感じるのです。
いずれにせよ、現代短歌における文語文法も、康熙字典の字体あり無理やり簡略化した字体ありの漢字も、キメラのような不自然なつぎはぎでしかありません。
それを考えると、仮名遣いなんて、どっちでもいいようにも思えてしまうのでした!
文字も言葉も道具。
文明の産物ですけど、いまの仮名遣いだって、漢字だって、その時代の当事者には、ともに生きる道具ですよ。
ともに生きてきた道具と、個々人で実感されるものを、本当に使えなくなるまで大事にしたいとおもうのは、当然ではないでしょうか。
それは、歴史を知る知らないの、問題ではないですよ。
教養の問題ではないですよ。
生まれたとき、使える状態でそこにあるから使う。
それが、道具の道具たる、ゆえん。
成立過程まで知って、誰がパソコンを使っているでしょうか。と同時に、パソコンがあるから、手書きとどっちでもいいと、これも、ほとんど誰も、おもってないでしょう。
生まれたときに、まだあって、死に掛けていた道具のそれぞれに、愛を感じる人も、感じない人も、あって、愛を感じていない人が、愛を感じている人に、どっちだっていいといったら、怒らせるとおもうんです。
それを言ってしまうところが、可愛い人と思うけれども。
由利子さんがお書きのことは、「どっちでもいい」という結論は別として、三十年以上前、多くの人が言説としていたところです。
由利子さんは、特殊なことを書いているのではなく、歌壇的には、塚本邦雄よりやや後の世代の、一般論です。
そのうえで。
わたしが書いた内容は、これも一般論で、文化人類学の教養分野のようなこと、個人の感想というより、そっち系の受け売りです。
ウェブ上は、本当に何も知らないで、個人の趣味しかないという人が、たくさん通りかかるから、気をつけてくださいという意味で、書きました。
本当にさまざまな分野のことを知っている人が、このやり取りを読めば、二人とも、受け売りね~って、とこでしょう。
ご丁寧なお返事、ありがとうございます。
「どっちでもいいように思えてしまう」と書いたのは、私の「逃げ」でもありました。
本当のところ、旧かなで書かれた詩歌や文章も大好きだし、新かなのものにも親しんでいるし、どちらの道具も同じように大事--というのが、一番正直な思いでしょうか。
一首の中に、二つの仮名遣いが混在するのはよくないと思いますが、一人の歌人が時々使い分けてはいけないのかしら。
「ああ、この歌、旧かなで表記したいよ~」と思うことは、私だってあるのです。
もっとたくさんの方が、ここに書き込んでくださるといいですね!
読むほうにも知識がいる。
手数も経費も知識もいらないほうが、便利です。
いまの時代、便利という名の全体主義ですから。
かな遣いに限らず、個々人で、譲れるとこと、譲れないとこが、しっかりあるのがいいとおもいます。
みんなといっしょでいいとこと、みんなといっしょでダメなとこが、自分でわかってないと、あらゆる便利なものの波の押し寄せに、結果、何していいか分からなくなって、不自由になるとおもう。