歌人・辰巳泰子の公式ブログ

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鬼さんノートその17

2024-01-01 02:32:50 | 月鞠の会
挿話です。『三宝絵』(平凡社 校注:出雲路修)には仏法を説く行為にふさわしからざる者として、「鬼」と「狐」が並べられます。この説話は仏教説話で、鬼が説こうと狐が説こうと、法施が第一であり、ましてや僧侶が法を説くのは財施よりも価値があると説いています。本文を挙げます。

「雪山は鬼にしたがひて偈をこひ、帝釈はきつねをゐやまひて法をうけき。いはむや。さかしき僧のつたへむは。」(法宝の一四)

私はここで「狐」が気になりました。まず、神の使いとしての霊獣には、神社の狛犬やシーサーがよく知られます。狐も狛犬ですが、稲荷信仰の一部に白狐社のような、狐に神格を与えた社があります。なぜ、狛犬でありながら、狐は神格化もされるのでしょうか。狐の神格化は輸入の思想です。インドで神獣として名高い牛は日本では天神社に配置されますが、神格化まではしていませんから、輸入の思想をそのまま受け入れるということでもありません。日本で神格を与えられた動物は、他にニホンオオカミ、蛇、八咫烏が有名ですが、深山に潜むオオカミには自然界の神秘が、巨大な烏には強さや生命力が感じられて、超獣の貫禄があります。蛇は降雨の象徴であり、その奇しい姿とあいまって、農耕になくてはならない水の神として祀られることに合点がいきます。しかし狐はどうでしょう。昔話には、人を化かすずる賢い動物としてしきりに出現し、神格化するほどの迫力が感じられず、超常的ではなく、むしろ日常的です。

引用部分は、猛獣に追われて井戸に落ち、死にかかった狐のなにげない言葉に真理を感じとった帝釈天が、狐にその言葉の意味を乞うと、「なぜ上から乞うのか。教えるからにはこちらが上だ」と反論され、なるほどと思った帝釈天が、井戸から狐を救い出し、狐から教えを受けるという話をもとにしています。

そして、並べられた「鬼」のほうを見てみると、同じ『三宝絵』のなかで、このようにあります。

鬼の云はく、「我れは牛の肉ねがひくふ。それをもとめてくはせよ。世間に牛とる鬼は我れなり。(中略)『金剛般若経』百巻をよませたてまつれ。」(僧宝の一〇)

この鬼は死神でした。とり憑くことになっていた対象者に気づかれ、命乞いをされて交渉に応じることにしますが、引き換えに、飢えているので牛を食わせろ、上司から罰を受けないよう経をあげろと要求します。

鬼も狐も、それぞれの生きるなかでのイレギュラーから、もとのルーティンに戻っていくために、ささやかに、したたかに抵抗しています。私はこの両者のありざまに、「まつろはぬ民」を想起しました。埓外の世界にも生活の循環がある。このように、古典のなかの「鬼」にあたっていくことで、いくぶんニュアンスを添えられそうです。












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