ネタばれせずにCINEるか

かなり悪いオヤジの超独断映画批評。ネタばれごめんの毒舌映画評論ですのでお取扱いにはご注意願います。

グリーン・ナイト

2023年04月09日 | ネタバレ批評篇

何をいいたいのかよくわからない。映画のストーリーだけ追ってもほとんど無意味なのは、あのとっつぁん坊やウェス・アンダーソン監督作品と双璧である。14~5世紀頃に書かれたとされる韻頭詩『サー・ガヴェインと緑の騎士』をほぼ原型のまま映像化している本作を監督したデヴィッド・ロウリーは、私が最も苦手としている映画監督の中の一人。争いごと無しに何かを勝ち取る成長物語だとか、過干渉だったロウリー自身の母親との関係を描いた自己投影作品だとか、最後にきっと勝つ自然と人間との対立を描いているなどなど、本作に関する解釈は様々だが、そのどれもが本作のある一部をとらえているだけで、映画全体の統一的解釈にはいたっていない気がする。

ロウリーは語る。「私が撮った映画はすべて最後にホームに帰る人のお話なんです」緑の騎士との約束通り、1年後に首を切られに緑の礼拝所にやってきたアーサー王の甥っ子ガヴェイン(テーブ・パテル)もまた、(原作では)騎士に相応しい礼節を守ったご褒美に首つき?で家に帰ることを許される。『セインツ/約束の果て』の主人公二人も最後までこだわっていたのは“家”のこと。『ア・ゴースト・ストーリー』の幽霊もまた“家”にとりついた地縛霊だ。奥様も同じ映画監督という事情もありーので、アメリカのダラスにあるロウリー宅に2人してなかなか帰れてないらしいのである。

なーんだ単にホームシックにかかっている自分を投影しているだけじゃん、などとけっして早とちりしてはいけない。溝口健二監督『雨月物語』に登場する円環長回しショットが本作にも使われていたことを思い出せるだろうか。気味悪小僧バリー・コーガン扮するスカベンジヤーに身ぐるみ剥がされ、木の根もとに縛り付けられた状態で見た自分の悲惨な“未来”とそこから“現在”へと戻ってくるシーンに登場するのである。ロウリーが本作のハイライトと太鼓判を押す、森の礼拝堂のラストシーンでも、王位を継いだ自分の未来の姿に絶望し斬首される決意を固めるのである。

ガヴェインの魔女でもある母親とオーバーラップさせたというロウリーの実母が幼い自分にしたことも、当時は嫌で嫌でたまらなかったらしいのだが、今にして思えば我が子のために何をしていいか分からなかった母親の気持ちがとてもよくわかると語っていたロウリー。本作に限らずデヴィッド・ロウリー作品に一貫して描かれているテーマは、巡りめぐって結局は元の場所に戻ってくる人間の“円環性”、仏教でいうところの業としての“輪廻”ではないのだろうか。アーサー王が被っていた“円形”の王冠のごとく、あるいは朽ちはてた石畳がやがて苔むし自然に返るごとく、あるいは蓮實重彦絶賛のカメラショットが“円環”するごとく、結局はその“輪廻”から逃げられない人間の業について述べているような気がするのである。

その“輪廻”から逃れるべく、もがき苦しみ運命と戦いラストに勝利するような(ハリウッドお得意の)物語には全く興味がないとも語っていたデヴィッド・ロウリー。故に事実をベースにした『さらば愛しきアウトロー』なんかは、まったくロウリーの作風には合っていなかった作品だったらしい。『ア・ゴースト・ストーリー』の幽霊のように本作は、その業としての“輪廻”に決して逆らわず素直に自らの内に受け入れた、騎士になる以前の怠惰な凡人ガヴェインがある“悟り”を開いた映画だったのではないだろうか。

グリーン・ナイト
監督 デヴィッド・ロウリー(2021年)
オススメ度[]


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