90代の繰言

後期高齢者の戯言

くじゅう花公園ーチューリップ祭り

2013-04-27 12:00:26 | インポート

 「くじゅう花公園」に行ってきました。くじゅうの春は別府に比べると、標高の高い分10日は遅いようです。東北の春と同じくらいなのでしょうか?
 「花公園」は現在「チューリップ祭り」の最中です。
 郷里の「チューリップ公園」に思いをはせていました。
 どうぞ、目の保養をなさってください。

 










































































































↓ 入り口前の駐車場から見た久住(くじゅう)連山

↓ 入り口前の柘植の木。

↓ 樹下からみあげると……





↓ アッ!眩しい!  終!


(以上)




私は放射線から逃げない

2013-04-20 20:55:15 | インポート
2013/04/20

 以下の読み物に出会ったのは3.11から4か月ほどしてから。
 感激し、早速文書化して親しい方々にメールしましたから、ご記憶に残されている方々もいらっしゃることでしょう。
 ここで再掲したのは、佐々木先生がまだ南相馬で頑張っていらっしゃるからです。みんなで応援したいと思います。
 初めての方は、事故後の「第一声」からご覧になってください。

**   **   **

私は放射線から逃げない  
異常な国、愚かな国
(週刊現代2011/07/02Pp.46~49)
 

 福島一原発で事故が起こった後、私が住む南相馬市の原町地区からはどんどん人が消えていきました。
 水素爆発が起きた、放射性物質が大気中に放出された……といったニュースが流れるたびに、「危ない」という情報が広まって、みんな恐怖に駆られ、避難していった。町中から8割5分くらいの人がいなくなつたと思います。

 私の家は福島第一原発から約25kmのところにあります。20~30km圏の「緊急時避難準備区域」(最初は「屋内退避区域」) とされたので、周辺の人が放射線の被曝を恐れるのも不思議はないかもしれません。でも私は避難しませんでした。逃げようと思ったことは一瞬もありません。
 私は震災前から、福島第一原発から大量の放射性物質が漏れたら、逃げても無意味だと思っていました。
 ロシアや中国など広い大陸なら、どこかに逃げ場所があるでしょう。しかし、島国の日本にそんな余裕はない。狭い国土にこんなに多くの原発を建設するのがいかに異常で愚かなことか、逃げ場所一つとっても明らかです。とにかく私は、事故直後から、
「最悪の場合、東日本すべてが深刻な事態になるかもしれない。だつたら、まずは落ち着こう」
 と決心したんです。

 もう一つ、認知症の妻の問題がありました。震災当時、私たち夫婦は、息子夫婦と3歳の孫と暮らしていました。98歳の母は近くのグループホームに入っていましたが、引き取りました。
 不幸中の幸いで、震災に遭っても家は倒壊せず、水道も電気も使え、食料の心配もなかったので、6人でそのまま住むことにしたんです。やがて3月末に、母と息子一家は青森の兄のところに移り、私と妻が南相馬に残りました。
認知症が進んだ妻は、会話ができません。自分の名前も私の名前もわからない。動きもままならず、日常生活にはすべて私の介護が必要です。そんな妻はとても避難生活に耐えられないだろうと考えて、無人の町の、一時は奈落の底のように思えた自宅に居続けることにしたのです。

とんでもない行政への怒りと妻への愛ゆえに、元教授は無人の町に残ることを決意した。
有害無益な20km圏の線引き、被害者のふりをした加害者たち……。
揺るがぬ決意と原発の真の問題点を語る。
 
 
 こう語るのは、スペイン思想研究家の佐々木孝さん(71歳)。上智大卒業後、清泉女子大や常葉学園大、東京純心女子大で教授を務めた佐々木さんは、定年前の02年に退職して南相馬市に転居した。以後、日々の思いを綴ったプログ「モノディアロゴス」 (スペインの哲学者ウナムーノが自らのエッセイを呼んだ造語)は、震災後に特に注目され、多い日には5000以上のアクセスがあったという。
 放射性物質による大気や土地の汚染が指摘される中、あえて避難を拒み、原発近くの家に住む佐々木さんだが、実は以前から原発には一貫して反対している。
 ホームページを開設した直後の02年9月には、福島第一原発について
「もしチエルノブナリ級の事故が起これば、もちろん私の住む町は立派に危険地帯に含まれてしまう」
 と、今の悲劇を予見したかのような危惧を記しているのだ。


 原発は全廃すべきです。人類が原発を作ったのは、パンドラの箱を開けて世界に災いを撒き散らしたようなもの。困難でも早く箱を閉じ、以後は絶対に開かないよう封印しなければなりません。私は以前からそう考え、語ってきました。今回の事故より前の、原発推進一辺倒の世の中では、非国民のような発言でしたが……。
 存在自体が「反自然」で、絶対に安全ということがなく、しかも出る有害物質が数万年も消えない。そんなものを作って、地球にアバタを残すようなことは許されません。
「核廃棄物は地下300mに埋めれば安全」
 などと平気で言う人の頭が信じられませんでした。すべて再生可能エネルギーに切り替えるべきです。
 そういう危険な原発を国策として推進してきたのはあまりにも異常なことですが、今回の事故後の行政の対応にも、とんでもない問題がありました。

避難させられて死んだ人たち
 原発を中心に、同心円で土地を機械的に輪切りにし、まず20km以内の警戒区域からは住民を追い出した。私が住む緊急時避難準備区域は、
「自主的避哉」や「子供、妊婦、要介護者、入院患者の方などは、この区域に入らないようにすること」
 が求められる――とされた。
 ふざけるな、と思いますよ。
 だって要介護者、つまり私の妻が、根拠のない線引きで家に住むなと言われているわけですから。
 実際、老人や病人が避難を強いられて、ひどい目に遭っています。ある病院からは、患者たちがカルテも付けずに搬送され、十数人が亡くなっている。こうなると医師法違反どころじゃない。もっと重い犯罪ではないか。老人でも、無理やり避難させられて亡くなった人が多いのです。
 震災の2日後、母をグループホームから連れて帰ったとき、ホームにはまだ引き取り手のない老人が4人残っていて、本当に不安そうにしていました。彼らは結局、原発から30km以上離れた伊達市霊山(りょうざん)町というところに避難したのですが、今度はその霊山の放射線量が飯舘村と同じくらい高いということが判明した。何のための避難かさっぱりわかりません。
 福島市に避難した人たちもいますが、福島市や郡山市の放射線量は、ここ南相馬原町地区の3~4倍です。知人が南相馬市役所の職員に
「福島や郡山はここより放射線量が高いのに、なぜ南相馬の方が緊急時避難準備区域に指定されているのか」
 と聞いたところ、
「向こうを(同区域に)指定すると、ここの何十倍の住民を動かさねばならず、大混乱に陥るからです。わからないんですか!」
 と逆ギレされたそうです。
 こうして老人や病人が強引に避難させられているのは本当に有害無益です。確かに現在のレベルでも、放射線を浴び続ければ、ごく一部の人ががんを発症するかもしれません。しかしそれは十数年後のことで、老人は平均年齢を大きく超えている。生存していても、他の症状や病気に悩まされているでしょう。であれば、動かさず、今まで通りの生活を続けさせるべく手を尽くせばいいのです。
 なのに、老人や病人を無理に遭難させて彼らの生命を脅かし、実際に死者も出しています。あまりにも大きな政治のミスリードであり、その責任は重い。加えて一般の自主避難者も続出し、店は休業、図書館は閉まり、郵便配達や宅配便も私の家の近辺には来なくなって、町の機能はほぼ壊滅。一時、周辺はゴーストタウンと化しました。

首長たちは被害者なのか
 そうやって、あたかも動物の鼻面を引きずり回すように国民に
「あつちへ行け」
「こつちへ行け」
 と命じる政治家や役人は腹立たしい限りです。彼らがやっているのは、民主主義でも何でもない。人間の自由というものを認めていない。それへの怒りもあって、私は避難を拒否しているんです。
 日本政府も南相馬市も、私たちにあれこれ命令する理由は「国民の命を守るため」だという。しかし彼らは、もっと大切なものがあることを知りません。命を英語で「ライフ」というでしょう。この「ライフ」なる言葉の意味には、生物学的な「生命」と、「人生」の二つがある。大切なのは、前者より後者です。それは、すべての生物が「生命」を持つのに対し、「人生」を持つのは人問だけだから。
 避難を余儀なくされた人も、飯館村など高い放射線量を記録している土地の人も、「生命」を維持できていますが、「人生」は奪われている。そこが彼らの悲劇なんです。単に仕事や家庭生活だけでなく、その地に生きていた先祖たちの記憶から、毎日人と交わす一つ一つの会話や笑顔まで、すべてをひっくるめた人生を突然失ってしまった。
周囲がそういう事態になっているとき、テレビを見ると怒りが込み上げますよ。専門家と称する人たちが出てきて、原発のことをしたり顔で喋っている。そんな時問があったら、しかるべき立場にいる人に会いに行って、行政を正しくリードするよう強く申し入れてほしいと思います。
 テレビで流している「福島応援ソング」もたまらないですね。多くの人が人生を奪われている中で、「アイ・ウォンチユー・ベイビー、福島」一「日本中で応援してるよ」なんて歌われても、うんざりするばかり。最近では、ぁの歌が流れたらすぐにテレビを消します。

 震災後は「みんなで一つになろう」の大合唱だが、少し前まで世の中は「原発はバラ色の未来を作るエネルギー」の声ばかりだった。原発推進論者の中には、福島第一原発の事故を横に、あっさりと主張を変えた人も少なくない。そういう変わり身の早さに、佐々木さんは苦言を呈する。

 東京に住んでいた頃、南相馬に帰省すると、開拓時代のアメリカ西部のように、町が騒がしかった時期があります。当時は福島第一原発の建設が進み、その景気で町が潤っていました。25km離れた現場から、毎晩のように工事関係者たちがタクシーで飲みにきたため、飲食店がたくさんできていた。東電の金で立派な施設も造られ、住民にはよくお小遣いが配られました。
 その中で地元の有力者、特に原発が立地された町村の首長たちは、概ね推進派の先頭に立った。ところが今回、原発が大事故を起こすと、その首長たちは一転して被害者のような顔をし、「東電に裏切られた」などと言っている。「おいおい、その前にあなたたちはどれだけ潤ってきたのか」と怒りを感じます。

誰も責任を取らない
 彼らはまず、自分たちの不明を詫びるべきです。しかし、みんな被害者になり、誰も責任を取らない。日本人の悪いところです。こんなことをやっているから、政治がまったく国民と向かい合わないのです。
 私は02年に南相馬、当時の原町市に戻ってきましたが、やがて同市に、小高町と鹿島町との合併話が持ち上がります。このとき小高町は、すでにその隣の浪江町と一緒に、東北電力と新しい原発建設の契約を結んでいました。私は、
「合併相手がそのような重大な契約を抱えているのであれば、合併前に3自治体で、それを継続するか、白紙撤回するかを協議すべきではないか」
 と役所に問い合わせましたが、まったく相手にされませんでした。
 結局、東北電力の原発計画の話は再検討されないまま、3自治体が合併して、06年に南相馬市が誕生しました。たぶんこの計画はまもなく白紙になると思いますが……。

 こちらに越してきた02年頃から、妻の認知症も少しずつ進んでいきました。今は食事もトイレも風呂も、あるいは階投の上り下りも、靴やスリッパを履くのも、すべて私が世話をしないとできません。震災の少し前から動作が鈍くなり、身体がいくらか左に傾くようになって、歩くときはいつも手を引いてあげなければいけない。でも、介護はそんなに大変ではありませんよ。
 妻の認知症については、そんなに詳しく調べているわけではないんです。前にCTスキャンを撮って、
「前頭葉や海馬に隙間ができたせいで認知症が進行している」
 と診断されたことはありますが、それ以上は診察も検査も受けていません。効果的な治療方法や薬があるのなら、すぐに病院や専門医を訪ねますが、ないのであれば行っても意味がない。私はそう思います。
 要するに、覚悟を決めたんです。妻が認知症になった以上、ジタバタしてもしょうがない、と。ちょうど原発事故の後、
「みんなが避難しても、自分は逃げずに自宅に留まろう」
 と決心したのと同じですね。
 同時に、
「妻とはいつも一緒にいよう」
 とも決めました。家の中はもちろん、散歩や会合で外出するときも必ず一緒です。そうすると不思議ですね。人間、言葉や記憶を失ってもどうってことはない、と思えてきます。
「認識できるかどうかなんてたいしたことではない。人間は存在するだけで意味があるんだ」
 と妻に教えられるんですね。

 震災を経て、
「孫のためにも、このままおめおめと死ねるものか」
 と強く思いました。エネルギーや政治の姿を理想に近づける手伝いをしたいし、少なくとも、福島県の原発を全廃して、浜通りの美しい海岸を取り戻すために尽力したい。同時に、自分が動ける間は妻の面倒をすべて見ながら、今後の人生を二人で生きていきたいと思います。

**   **   **







湯布院金鱗湖めぐり

2013-04-14 19:20:52 | インポート
2013/04/14(日)

    [注]写真をダブルクリックすると拡大表示されます。
早朝起床!
湯布院金鱗湖に出かけてきました。
お目当ては、例によって「ランプ舎(らんぷしゃ)の朝食。

↓ 7:30、到着。食堂にはまだ誰もいません。
金鱗湖も静まり返っています。

↓ 例の朝食です。プレインで気に入っています。
左隅から時計回りで、コーンポタージュ、
珈琲、焼き立てのパン、苺デザート
オムレツ・ソーセージ・ベーコンのメイン

↓ 窓から見える金鱗湖は大雨被害も修復されきれいになりました

↓ 8:00近く朝食を終えて「ランプ舎」の対岸から……
赤い矢印の窓際で食事をしていました。

↓ こちら側の北端はそば処「泉」とギャラリ喫茶「シャガール」です。

↓ 表に回って喫茶「シャガール」正面

↓ その右隣がそば処「泉」

↓ もう、そば打ちが始まっていました

↓ 八重桜が満開です

↓ 側溝も完全に修復されました

↓ 駐車場わきの側道も修復され、舗装されています

↓ 側道が金鱗湖周回道路に連結しています

↓ 周回道路が続きます

↓ 新しい案内板です

↓ 高級旅館「亀の井別荘」の案内板です
油屋熊八氏が創始したこの旅館は、
玉の湯」「無量塔」(むらた)と並んで湯布院の御三家旅館です。
泊まったことはありませんが、喫茶「天井桟敷」、
レストラン「湯の岳庵」、小物雑貨「鍵屋」など、
それにトイレット、時々お世話になります
金鱗湖の周辺で無料駐車場はここだけです

↓ 亀の井別荘の正面

↓ 門の外 左手奥、付属設備への案内板

↓ その手前に「亀の井別荘案内所」

↓ 喫茶「天井桟敷」入口

↓ 旅館の外側をまわって行く
    
↓ 旅館は塀に囲まれて……

↓ 径は林に続く

↓ 空を見上げると、高い梢に鶯がいました

↓ 奥には小さな池が、観光客の訪れない静かな場所です

↓ 野草が自生しています
    
↓ 

↓ 

↓ 

↓ 奥には別荘でしょう、静かな佇まい

↓ 林の奥、苔むした橋の奥に土蔵が見えます
   
↓ 向こうには「亀の井別荘」の塀がつながっています。

↓ 振り返ると……

↓ しばらくして金鱗湖から流れ出る源流付近へ戻りました
    
↓ 流れ出た小川はやがて大分川(おおいたがわ)となって別府湾へ

↓ 雑貨小物「鍵屋」の入り口にある手水鉢、
苔むした様は由布院そのもの

↓ この店では「おはぎ」も製造販売しています
小豆あん、胡麻、黄粉の三種類

↓ 架け替えられた橋

↓ 源流付近から
  
↓ こんな看板がたくさん立っています

↓ 無料駐車場に止まっている車、その多くは他県ナンバーです


 ご苦労様でした。
 金鱗湖巡りはこれでおしまいです。
 ごきげんよう!