フジツカ村

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「おそ松くん」例の件から1年

2024-03-29 20:50:00 | 赤塚不二夫
当ブログでも過去に取り上げた(1回目2回目)、赤塚不二夫公認サイトでの問題が発生してから、そろそろ1年が経ちます。

今一度、この件について語ってみたいと思い、このブログを書きました。

新情報・新展開などはなく、あらためてこの問題について見つめ直し今現在の私の感情を書き綴るのみになります。そして今回はかなりナーバスというか感傷的になってしまっている可能性があります。まずその点、ご注意ください。

また、「ここは違うんじゃない?」「ここは良くないんじゃない?」というようなことがあれば全然言ってもらって構いません。
以上、よろしくお願いします。


問題及び、現在の感情について

この問題は、未だ解決はしていない。
既に私は2度、形を変えてサイト宛に意見を送っているにもかかわらず、である。

件の紹介文を読むのは心が痛むので、できることなら読みたくないのだが、「対応してくれたのに、いつまでも問題提起を続ける」というのは良くないというか意味のないことなので、変化がないか時々サイトに確認しに行ってはいる。
そして結局のところ依然として状況は変わっておらず、件の紹介文を読んでしまって心を痛める…そんなことが続いている。


詳細をご存知ない方には上記リンクの過去記事を参照してもらうことにして、
改めて、この件は何が問題なのか、
かいつまんでまとめてみよう。

「赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ‼︎」にて、六つ子(おそ松、一松、カラ松、チョロ松、十四松、トド松)の紹介文が改訂された。

①その改訂後の内容は、設定や作中描写と照らし合わせても的確なものとは言えない。原作者の意向にも反することである。

②その内容にキャラクターへの愛が感じられず、心が痛む。

③そしてその内容を、「赤塚不二夫がそう言った」ということにしている。赤塚不二夫の存在を盾にしながら、赤塚不二夫に対する背信行為をしている。
「赤塚不二夫の言ったことを守ってます!」と言いながら、その実、赤塚不二夫の言ったことに背いている。

…といったところだ。

ぶっちゃけ言うと、①と②だけであれば、私もここまでこの問題に拘っていない。これだけでも問題提起自体はしただろうし残念だとも感じただろうが、「あってはいけないこと」「許せないこと」とまでは捉えていなかったんじゃないかと思う。

ここまで問題視しているのは、やはり③があるからだ。

「六つ子に違いなどない」というのは、厳密に言えば正しい情報とは言えないものの、作中描写においても赤塚先生の発言においても、常に明確にされてきたわけでもない。だからあくまでも一解釈としてであれば、①のような内容も全く許容できないわけではない。事実、「六つ子には性格的な違いが見られない」とする公式的な解説自体は、今回が初めてではない。

②についても、「感じ方は人それぞれ」と言ってしまえばそれまでだろうと思う。

しかし、③のように「赤塚不二夫がそう言った」という体で語られるなら「それは違うだろう」となって当然だろう。

赤塚先生が過去に似たようなことは言っていて、その要約と受け取れる内容がサイト上に載せられているのならまだしも、実際には赤塚先生はそれと真逆の発言をしているのだ。
「一解釈」として許容できたことも「間違った内容」になるし、「感じ方は人それぞれ」と考えることができたものも「タチの悪い内容」となるのだ。

きちんとした根拠に基づくのなら、「六つ子に違いなどない」というのは誤解、悪く言えば思い込みのようなものだ。
思い込みの内容を"公認サイト"上に記載すること自体問題だし、そんな投げやりとも言える文章の中で

六つ子に特徴なんてないから書くこともないし、赤塚不二夫がそう言ってた、ってことにしよう

くらいの意識で"赤塚センセイ"の名前を出しているのなら大問題なのだ。

原作者・故人軽視も甚だしいし、実際の赤塚先生の発言と相反するのだから、それは背信行為と言って差し支えない。

些細なものであったとしても、根拠は根拠である。無視するべきではない。
そうでなくても、故人の存在を利用し事実を捏造すること自体、褒められるようなことではない。

これは何も、この件に限った話ではない。
今回はたまたま、六つ子のキャラクター設定に関しての話題でこういったことが起こっているが、場所や場合を問わず、こんなことは起きるべきではない。

改訂そのものについてだが、元々あった紹介文も、作中では読み取れないような情報が含まれていたりもしたので、その意図が100%汲み取れないわけでもない。しかし、それらの情報を「誤情報」として削除しても、それを補うために別の「誤情報」を記載してしまえば、それは本末転倒ではないか。

というか、赤塚先生は実際には設定をきちんと考えていたのに、「いい加減に考えていた"ことにする"」というその精神自体が、赤塚先生に対して失礼にあたらないだろうか。


とはいえやはり、「あの内容への改訂には正当な根拠がない」と言い切ってしまうことができないのはわかっている。
要するに、サイトに書いてある通りのことを赤塚不二夫がどこかで実際に言ったという可能性を完全には否定できない、ということだ(悪魔の証明)。
だから私は、サイト宛に意見を送る中で、「正当な根拠があるならそれを示してほしい」ということも併記した。
しかしそれさえも全く反応がないので、こちら側としては「根拠を出さないということは、出せない、それが無いということですね」という風に判断するしかない。
状況から言っても、可能性は低いと言うしかない。
そして、仮に赤塚不二夫がサイトに記載された通りのことを実際に言っていたのだとしても、それとは真逆のことを言ったこともまた紛れもない事実として確認しているので、私の主張が完全に的外れになることはないと考えている。


結局のところ、「赤塚不二夫公認サイトでは故人の遺志に反する形での内容改訂が行われ、かつその責任が故人に転嫁されている。説明責任を求められても、だんまりを決め込んでいる」というのが、現在こちらから観測できるありのままの状況なのである。


また、本質的な問題はそこにはなく憶測の域を出ないとも言えるため先程は挙げなかったものの、「無個性」「順番不明」をやたらと強調した文章が、
六つ子に明確な個性がつき順番も設定として固定された「おそ松さん」(以下「さん」)を意識してのものとしか思えないのも大きな問題として捉えている。

「さん」に対してはこれまで否定的な感情を抱くことも多かったが、今にして思えば、それらは概ね「不満」(あくまでも個人的な感情)止まりなものが殆どだったように思う。
しかしこの件では、「さん」が原作サイドに与えた影響が、実害レベルに及んでしまっているように感じる。そこも辛い。
「さん」は「さん」で自由にやるだけにとどまらず、「さん」によって「おそ松くん」そのものの歴史や設定が歪められつつあるのだ。
本格的に、「おそ松くん」という作品の尊厳に関わる事態になってはいないだろうか。

尤も、この場合おそ松さんが悪いというより、やはりおそ松さん側に合わせてしまうサイト側に問題があるのだが…。


実際にあの内容改訂そのものが与える影響というのはそう大きくはないかもしれない。私の知る限り、ファンの多くはあの内容に対してちゃんと違和感や否定的な感情を抱いているし、今からあの内容を参考にして鵜呑みにする人が一体どれほどいるか、という話だ。
しかし、それはそうとしてこの件は、サイト運営者(=フジオプロスタッフ)が、こういうことをしてしまうような人たちなのだということが露呈してしまったのが辛い。

(作品についてきちんと理解していない、キャラクターへの愛も感じられない、第三者による派生作品の設定に合わせてしまう、故人の存在をも利用してしまう、ファンからの問い合わせにも応じない…)

私自身、ファンとして、赤塚作品に対して「あれのリメイクアニメが観たい」「あれとコラボしてほしい」というように様々な希望や展望がある。しかし、今となってはそうしたものについても、「この人たちに任せていて大丈夫だろうか」という感情が拭えず、期待が消えたわけではないが不安がかなり大きくなってしまっている。現に「おそ松くん」がこんなことになってしまっているんだから。

これまでも赤塚作品絡みであまり良いとは言えないことは度々あったが、概ねはあまり重視せず見逃してきていた。しかし、そんなアレやコレやについても「フジオプロがこんな体制だから起こってしまったことなのでは」と感じ、一気に気になるようになってしまった。

実を言うと、この件がわかって以降、それ以前と比べて赤塚作品を気兼ねなく楽しむということができなくなってしまっている(あくまで"それ以前と比べて"ではあるが)。
作品や赤塚先生本人には何の罪もないのに…。
赤塚作品を見ていると、どうしてもこの件のことが頭をよぎってしまうし、「今」赤塚作品を推すということは必然的に「今」のフジオプロを支援することにも繋がる、と考えてしまう。
他の往年の人気作品と比較しても、「どうして赤塚作品だけ、こんなことになってしまったんだろう…」という風に感じることが増えた。

あえてこういう言い方をするが、「好きなのに、好きだからこそ、好きなように好きでいられない」というような、矛盾した状況が今ある。
赤塚ファンになってからもう15年以上経つが、ここまでのことは初めてだ。
私だって、「赤塚作品なんか好きになるんじゃなかった」とだけは絶対に思いたくない。

長くなったが、これが問題についてと、今のありのままの感情だ。
私はそれほど、重く、辛くこの件を受け止めているのだ。

フジオプロさん。
ここに書いてあることが違うのなら、何か言ってくださいよ。


結局のところ…

ここまでざっと書き綴ってきたが、やはりどんな言葉を使うのが正解かわかっているわけではないので、問題についても感情についても、ちゃんと適切に的確に閲覧者の皆さんに伝わっているかどうか、正直言うと自信がない。ちゃんと伝わっているだろうか。

私はこれまで、この件について、ずっと思い悩んできた。状況が変わらないから、ずっとそのままなのだ。

そんな風に、変わらない状況の中で、変わらない状況の中だからこそ、考えることがある。

結局のところ、こんなに重大視しているのは、自分だけなのではないか、と。

この件に対して否定的な見解を持っている方が自分以外にも大勢いること自体は存じ上げている。サイト側が動いてくれない状況の中で、それは私にとっては心の支えでもある。しかし、ここまでこの件にこだわり、大きく問題視しているのは自分だけなのではないかと、思ってしまうことがある。

私は一応、サイト宛に二度意見を送った。かつ、当ブログ内やTwitterでは、「この件を良くないと思った方は、サイト宛に意見を送ってほしい」という旨の呼びかけも行った。
結局、自分以外に意見を送った方というのは、いらっしゃったのだろうか。
そういった話を聞かないので、おそらくいないのではと思う。

そりゃ、問い合わせの数が多くなれば変化が表れるという保証もないし、人によって事情などもあるだろう。私も、無理強いをしたいわけではない。
しかし、本当に意見を送ったのが私だけであれば、その事実はどうあっても残る。
私は一人で騒いでいるだけだったのだろうか。

そうなると、サイト側からしても、あくまでも一ファンの意見、極端な言い方をすれば"わがまま"のようなものとしてしか見られていなかったのだろうか。
まぁ、一人の発言や行動にいちいち一喜一憂するのも"公式"にあたるポジションとしては問題ありなのかもしれないし、ファンからの意見や問い合わせには全て応えろというのも傲慢なのかもしれない。

それでも、やっぱり、数は別として、内容としてこれは「ファン一人のわがまま」として片付けて然るべきことなのだろうか?という疑念は残る。



もう率直に言おう。

皆さん、

私の言っていることと、
フジオプロのやっていること

正しいのはどちらだと思いますか?



いや、ほんとに。

私がもし何か間違ったことを言っているのなら、教えていただきたいのだ。





…ふりだしに戻るようなことを言うようだが、
この件の何が良くないか最も根本的なことを言えば、
「公認サイト上の六つ子の紹介文が書き換えられた」ということしか、事実として確実なものがないということだろう。

どのような意図・経緯・根拠のもとああいった改訂が行われたのか。
誰の意思が主導となって行われたことなのか。
全くわからない。

公認サイト内やフジオプロの運営する別サイト等各所を見るに、六つ子各人を均一なものとして区別しない扱いが徹底されているわけではないので、余計にどういうつもりなのかがわからない。
(単に放置されているだけなのかもしれないが…)

ファンの声を求めるようなフリースペースを設けておきながら、その内容には無反応なので、ファンの声に耳を傾ける気があるんだかないんだかも、さっぱりわからない。

フジオプロが何を考えているのかが、私にはさっぱりわからない。
わからないから、ひたすら思いを巡らせては空回りするだけ。




"公認"ってなんだ。


"公式"ってなんだ。


何が正しいんだ。


誰が赤塚作品を守るんだ。


俺はどうすればいいんだ。




俺にはわからない。













(参考:サイト宛に送った意見全文)













「天才バカボン」おまわりさんは偽警官?

2024-01-18 20:18:00 | 赤塚不二夫
赤塚作品の名脇役No.1といえば?と聞かれたら、おそらく僕は「目ン玉つながりのおまわりさん」と答える。

一般的には「本官さん」の名前でも知られる、「日本一ピストルの弾を消費するおまわりさん」とも言われる、あの人だ。

ところで、皆さんは彼について、こんな話を聞いたことはないだろうか?

言い回し自体は様々にあるが、ざっくり言えば、
「あの人は私設交番のおまわりさんで、民間人が警官のふりをしているだけ」
…というような話だ。

これは結構いろんなところで語られており、意外と有名な話であるようだ。
赤塚ファンとして気になるところもある件なので、今回はこの話題について取り上げてみたい。
一応は一ファンによる解釈に過ぎないので、そこは注意されたし。


さて、目ン玉つながりのおまわりさんは偽警官であるという件についてだが、結論から述べると、
「誤情報やデマなどではないが、誤解が含まれている」
と言いたい。

最初に、僕は赤塚作品名脇役No.1を挙げるなら目ン玉つながりのおまわりさんを選ぶ、ということを述べた。
これは、そのキャラクターに個性が濃縮されているから、というのもあるが、「おそらく赤塚キャラの中でレギュラー出演作品数最多」というポイントが大きい。
「天才バカボン」への登場が最も知られており初出もそこでほぼ間違いないわけだが、それ以外にも彼は数多くの赤塚作品に登場しており、これが今回の偽警官の件においても重要になってくる。

まず、赤塚不二夫先生本人による正規作品にて、目ン玉つながりのおまわりさんを偽警官として描いた作品がある、これは間違いなく事実である。
しかしそれは「天才バカボン」ではなく、赤塚先生の別の代表作「もーれつア太郎」での話である。

現在は「警官の生活らくじゃない」というタイトルで単行本にも収録されており比較的容易に読めるエピソードにそれは描かれている。
(週刊少年サンデー1970年6月21日26号、竹書房文庫第7巻、ebookjapan第10巻)

ある日交番に10万円の落とし物が届けられ、おまわりさんは大喜び。交番を臨時休業にし、妻と息子を連れてその10万円で外食に出かける。実はあのおまわりさんの交番は個人経営であり、民間人が警官になりすまして落とし物で生計を立てていたのだ!という衝撃の事実が明かされる…といった内容だ。

間違いなくこのようなエピソードは存在しており、内容が衝撃的な上にしっかり証拠画像もあるため、どんどん独り歩きして広まっていったんだろうと思う。

だが先に述べた通りこれはあくまで「もーれつア太郎」での話であり、「天才バカボン」には同様のエピソードはない。
また、「天才バカボン」の方では、目ン玉つながりのおまわりさんの交番に新任の警官が赴任してきたり(「おまわりさんのシンマイなのだ」)、警官としての彼をクローズアップし一時的に警官をやめた彼の苦労なども描いたエピソードがあったり(「拳銃をすてた目ン玉警官なのだ」)と、本物の警察官であるとみられる描写が散見される。

そして当の「もーれつア太郎」においても微妙なところなのだ。
「警官の生活らくじゃない」が掲載されたのは、週刊少年サンデー1970年6月21日26号。これは「もーれつア太郎」サンデー連載分最終回の一つ前にあたる。次週に掲載された最終回「キョーレツかわい子ちゃん」にはおまわりさんは一切登場せず、"偽警官"設定が掘り下げられたこともない。
それ以前のエピソードでも伏線のようなものや偽警官であることを裏付けるような描写も特にないのだ。
かつ、こちらもこちらで、本物の警察官でないと不自然な描写がいくつかある(「ニャロメのいかりとド根性」「ニャロメがうばった警官のピストル」など)。

赤塚漫画は基本的にギャグ漫画であり、その場限りの設定や描写というのは多くある。
イヤミがおまわりさんになったり、デカパンがギャングのボスになったり、チビ太が教師になったり…など、主に「おそ松くん」で見られる"スターシステム"もそうだが、「天才バカボン」ではパパでさえ一度明確に死んだことがある、と言えばわかりやすいだろう(「実物大のバカボンなのだ」)。当然、次の回ではまたピンピンで現れる。食べられても別の回では復活するウナギイヌも同様だ。
そして「もーれつア太郎」でも、レギュラーキャラであるココロのボスが突然とある会社の社長として登場し、ニャロメがそこの副社長になるというオチがつく話がある(「ニャロメを消せ」)が、勿論そんな設定は後にも先にもこの回でしか出てこない…なんて例がある。

おまわりさんが偽警官だという設定も、これらと似たようなものと考えていいのだ。

以上をまとめると、

・目ン玉つながりのおまわりさんが偽警官であるという設定が登場したことは確かにある。
・しかしそれが描かれたのは「天才バカボン」ではなく、「もーれつア太郎」である。
・いずれにしても、その回限りの設定と考えた方が良い。

といった感じになる。
あくまでギャグとしてそういう話があったというだけで深く考えるものではない…と、そう思う。

知ってる人からすれば「何を今更」というような話題だったかもしれないが、ぼんやりとこの噂を把握していた方にこの記事がある種の"気づき"となれば幸いである。


これは補足になるが、アニメは例外である。
「警官の生活らくじゃない」は、「もーれつア太郎」アニメ第1作の第87回放送分にて「ニャッポン一のへんな交番」としてアニメ化されており、原作同様、おまわりさんが偽警官であるという事実が明かされる内容になっている。それ以前の話に伏線や裏付ける描写がないというのは原作と同じだが、明かされるのみでそれっきりであった原作とは異なり、アニメではそれ以降の話数では一貫して"偽警官"という設定で登場するようになっている。


赤塚ファン歴、15年

2023-10-08 19:05:00 | 赤塚不二夫
僕が赤塚不二夫先生のファンになって、そろそろ15年になる。


具体的に「この日」というのはさすがに覚えていない(というか、そんな日が実際にあるわけでもないだろう)が、だいたいこのくらいの時期だったことは間違いない。

もう、15年なのだ。既に、人生において赤塚ファンとして過ごした期間の方が、ずっと長くなっているのだ。

リアルでもネットでも、僕の代名詞として認知されているコンテンツが、赤塚不二夫作品だと言っていいと思う。それほどに、赤塚作品の、赤塚先生の存在は、僕の中で大きい。
今回は、赤塚ファンとしての自分について、語ってみたい。



僕が赤塚ファンになったのは、赤塚先生の死去の直後くらいにあたるが、それがきっかけになったというようなことはなく、赤塚先生の死去と僕が赤塚ファンになったことには直接の関係はない。
…と思っていたが、深層心理としては、赤塚先生の死去が、僕が赤塚不二夫という存在に意識を向ける要因になっていたのかもしれないと、今になって思う。

これは結構重要なポイントだが、僕が本格的に赤塚ファンになったのは15年前だが、突発的に好きになったわけでもなく、それ以前から素質は十分すぎるほどにあったように思う。
昔のアニメや子供番組等には興味があったし、懐かしのアニメとか声優の番組を見るのも好きだった。この辺りは、おそらく父の影響が強いのではないかと思う。
あとは「ドラえもん」は小さい頃からずっと好きだったのもある程度関係している。ドラえもんから藤子先生や藤子作品、ひいてはトキワ荘についての情報も把握するようになった。
先生の死去が新聞の一面で報じられていた時も、赤塚ファンになる前ながら「あ、この人知ってる」と思った。
ほかにも思い当たる要因は多々あるが、とにかく赤塚ファンになるポテンシャルは大いにあり、それが解放されたのが15年前と解釈できるのだ。

15年前というと、インターネットを使い始めてまもない時期だった。そこで、円谷作品だったり、「およげ!たいやきくん」だったり、昔のアニメだったりといった動画を見るようになった。
その中に、赤塚アニメの動画もあったのだ。この時点では本編はほぼ見ていないが、この時よく見ていたものとしてよく覚えているのが「おそ松くん」のOPだ。それ以前から存在については把握していた「おそ松くん」について、大まかな世界観やキャラクターについて知ることができた。

この後、赤塚ファンになるきっかけとして最も大きいと考えている本に出会うのである。それが、「赤塚不二夫のさわる絵本」(「よーいどん!」と「ニャロメをさがせ!」の2冊)である。

先に述べたように「おそ松くん」などキャラクターについては動画の影響もあって既に覚えており、そんな中で学校にそのキャラクターたちの登場する本があるという情報を得る。そして、実際にその本を手にして読んだら、もう虜になってしまったのだ。あの時、僕の人生は、大きく動いたと思う。

そしてその次に、僕の高ぶる気持ちをもう止められなくしたのが、図書館で母が見つけてくれた傑作選、「全員集合でオールスターなのだ‼︎」である。派生絵本から、本家たる漫画の世界に足を踏み入れたのだ。おそ松、ア太郎、バカボンという赤塚ギャグ主要3作品をいっぺんに楽しむことができた。

こうして、僕の「赤塚作品好き」は本物、抜け出せない域に落ち着いた。僕は小さい頃から絵を描いたりといった創作も大好きだったが、それまでの題材が「たまごっち」だったのが、赤塚キャラメインにすっかり塗り変わった(厳密にはしばらくは赤塚キャラと藤子キャラの共演した漫画を描いていたので、完全に赤塚キャラメインになるのは14年前の春頃からになる)。

そうして、僕は赤塚先生のファンとして、15年間過ごしてきた。
ここで、これまでの15年間を、大雑把に振り返ってみよう。細かい部分までいちいち語るとキリがないので(具体的な時期を覚えていない件もちらほら)、できるだけ大雑把に。

2008〜2009年:ファンなりたてホヤホヤ。図書館にあるムックや傑作選を読みあさったり、たまには買ったり、動画を見たり。2009年末には「もーれつア太郎」が竹書房文庫で揃う。
2010年:春から夏にかけて、「もーれつア太郎」の有料動画を観始める。昭和版、平成版とも、ピックアップしつつたくさん観た。
2011年:1月に「レレレの天才バカボン」DVD購入。完全に全話視聴した初の赤塚アニメとなる。秋には「平成天才バカボン」も購入。竹書房文庫の「天才バカボン」も読み進める。
2012年:再放送にて「ひみつのアッコちゃん(第3作)」「元祖天才バカボン」全話視聴。竹書房文庫「おそ松くん」を読み進める。
2013年:復刊ドットコム「レッツラゴン」を読み進める。
2014年:「天才バカボン」「元祖天才バカボン」リマスター版DVD購入。2011年から買い進めていた「ア太郎」DVDもここで4巻分揃う。
2015〜2016年:「天才バカヴォン」も観たが、なんといっても「おそ松さん」登場は大きかった。色々思うところもあるが、良いことも少なからずあったのは間違いない。また配信や電子書籍・DVD購入などで「おそ松くん」の方の世界も広がった。2016年には「ひみつのアッコちゃん」の電子書籍を購入、ここでようやく本格的に読み進める。
2017年:「B.C.アダム」を読む。赤塚オフに初参加。
2018年:「深夜!天才バカボン」や舞台「もーれつア太郎」。「ひみつのアッコちゃん(第1作)」のDVD上巻を購入。
2019年〜:2020年あたりに「ギャグゲリラ」電子書籍一括購入。まだ読み進めている。

とまあ、だいたいこんな感じだ。年が経つごとに新鮮な出来事が減っているのはご愛嬌だが、好きな気持ちはずっと変わらない。

15年も赤塚ファンをやっていれば、さすがに相当な量の作品を確認済みになっている。特に、おそ松・バカボン・ア太郎の3作品については、漫画もアニメも一般発売・公開されているものについてはほぼほぼ見ている。
しかし、やはりまだまだ未見の作品も多い。漫画、アニメ、自伝など、購入済みのまま全て見るのにかなり時間がかかってしまっているものもかなりある。年々好きな作品が増えると赤塚作品にばかり専念もできないためやむを得ないとも言えるが、気持ちとしては早く読破・視聴したい。
未見の作品がまだまだ残っているということは、未知の領域・ワクワクがまだまだあるということで、まだまだ赤塚ファンとしての楽しみが残っているということだ。これからも、楽しんでいきたい。

改めて考えても、赤塚作品は僕にとって大事な存在だ。こんなにもスピリッツが自分好みな作品というのもそうそうないと思う。もはや運命と言ってもいい。
これからも僕は赤塚ファンであり続けると思うが、現状のままでははっきり言って赤塚作品の未来は明るくないだろうとも思う。特に、フジオプロさんにはもっとしっかりしてもらいたい(フジオプロの良くない面は複数あるが、今のフジオプロがどういう人たちかがよくわかる案件があるので、気になる方はこのブログの過去記事を読んでください)。

それでも僕が赤塚作品を好きな気持ちは本物だし、この作品たちを、世界を、赤塚先生の偉業を語り継ぎたいと思っている。そのために、ファンとしてできることをしていきたい。

さて、赤塚ファン15周年の節目に記事をまとめてみたが、それらしき内容は書けただろうか。
もっと知りたいことがあったら、遠慮なくお聞きください。

それでいいのか、フジオプロ

2023-07-18 21:07:00 | 赤塚不二夫
結論から述べると、
現在、赤塚不二夫公認サイトでは

"でっち上げにより赤塚不二夫先生の存在を盾にしながら、
赤塚先生に対する背信行為をしている"

可能性が非常に高いです。



本文をお読みいただく前に。

こちらの記事では、以前の記事と同様の問題を取り扱っています。

内容自体も大まかには共通していますが、改めてこの問題についてまとめることに致しました。

未だに問題が解決していないこと、私の心情や見解に僅かながら変化があったこと、重要な問題を強調したい意図があることなどが要因です。


最初に皆様にお願いがあります。

今回の記事や、前回の記事を見て、この件に関して「良くない」と思ってくださった方は、赤塚不二夫公認サイトの問い合わせ用メールアドレス(利用規約〈このサイトについて〉のページに記載あり)宛に、意見を送っていただきたいのです。

伝われば、声が大きくなれば、変わることもあるかもしれません。
私は既に、メールを送っています。


私は解決するまで、この問題について発信を続けます。

前置きここまで。




「赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ‼︎」(以下、公認サイト)は、故・赤塚不二夫先生が立ち上げた事務所・フジオプロが運営する、赤塚先生や赤塚漫画のことを取り扱うオフィシャルサイトだ。
そこにはコンテンツとして、作品に登場するキャラクターたちの紹介もある。


今年に入ってからのことだ。
その中で、「おそ松くん」の六つ子6人分の紹介文が、それ以前まであったものから、大幅に書き換えられていたのだ。


具体的にどう変わったかは、アーカイブから比較してもらうのが手っ取り早いが、以前までは6人分にそれぞれちゃんとした説明があったのに、現在はやたらと「無個性」「違いがない」「順番不明」を強調した内容になっていることがおわかりいただけると思う。

これが、大きな問題を孕んでいるのである。
それも、単なる賛否では片付けられない、倫理的な問題までもが含まれているのだ。

私は、このままではいけないと強く考えている。
この件の問題点について、一つずつ説明していくので、長文になるがお読みいただきたい。


①赤塚先生の名前の不適切な利用

②六つ子のキャラクターに対するぞんざいな扱い

③六つ子各人はちゃんと"違う"

④「おそ松さん」に支配されゆく「おそ松くん」




①赤塚先生の名前の不適切な"利用"


順を追って説明した方がわかりやすい部分もあるが、問題の大きさを伝わりやすくするため、最も大きく問題視しているものから説明する。
後述する問題点も、最終的にはこのポイントに帰結する。

書き換えられた文章のうち、「おそ松」の紹介文に、赤塚先生の発言を引用したかのような部分がある。

"『もともと「六つ子」という設定が面白いだけでそれぞれの性格なんか知らないよー』と赤塚センセイ。"
というものだ。

これより後に説明する問題点は、(問題があることに変わりはないが)最終的には多かれ少なかれ「賛否」や「解釈違い」というポイントに行き着く部分がある。
今のフジオプロはこういう方針・解釈でいく、という表明をファン各々がどう捉えるか、ということだ。

しかし、そこに赤塚先生の名前を出されるとなると、話は大きく変わってくる。"今のフジオプロ"はそういう方針、で済ませられる話ではなくなるからだ。

大前提として、本当に赤塚先生はこんなことを言ったのか?という問題がある。これは、いつ、どこでの赤塚先生の発言なのかが、一切わからない。

後述するが、赤塚先生は作品中で六つ子のキャラクターをちゃんと書き分けていたし、六つ子の性格が設定として記された資料もあり、中には赤塚先生がはっきり「六つ子の性格は全員違う」ということを明言しているインタビュー記事もある。
私が確認できる限りでは、赤塚先生はきちんと六つ子を一人一人区別していたことが見てとれるのだ。

そんな赤塚先生が、「それぞれの性格なんか知らない」などと真逆な発言をすることは考えにくい。

よって、この発言はサイトの運営者(=現フジオプロスタッフ)によって捏造されたものである可能性が高いと言わざるを得ない。
おそらくは、実際には赤塚先生はこのようなことを言っていないのだ。

とはいえ、私も赤塚先生の発言などを全て把握しているわけではないし、実際にそういう発言があったという可能性を完全には否定できないのも事実。
時期や場合などによって発言に食い違いが生じるということも、ありえない話ではない。
しかし、どちらにしてもこの状況は褒められることではないのだ。


◆発言内容が真実だった場合
赤塚先生が本当にどこかで「六つ子の性格なんか知らない」と発言していたのだとしても、連載当時にはちゃんと設定が存在し、赤塚先生が「六つ子の性格はそれぞれに違う」と考えていたこともまた、紛れもない事実なのである。
それを尊重せずに、片方の見解に完全に偏らせて、持論の強化のため"印象操作"のように赤塚先生の名前を使うのは、やはりいいことではない。

本当にそのような発言があって、それを使うのなら、まずその発言のソースを明らかにするべきである。

その上で、赤塚先生が「六つ子の性格はそれぞれに違う」としていた事実を無視してでも、その発言を採用・使用するのに足る妥当性・正当性を示すべきなのだ。

◆発言内容が捏造だった場合
ある意味、最悪のパターン。

故人の発言を捏造することが、いいことであるはずがない。
それ以前に、意図的に堂々と嘘を書くことが良くないということなんて、小さな子供でもわかることだろう。

名目上「公認サイト」ではあるが、本質的には「公式」であり、その言葉通り信頼できる情報源として多くの人が参考にするだろう。内容が別サイト等に転載されることもあるかもしれない。その中で、「赤塚先生がそう言うんなら、そうなんだろうな」という風に、あの紹介文に納得する人も出るだろう。というか、おそらくは書き手はそれが狙いで赤塚先生の名前を出している。
しかし、発言が捏造なら前提条件が大きく間違っており、公式が積極的にデマを拡散させようとしているという構図が出来上がっていることになってしまう。

記述を正当化するために、でっち上げてでも赤塚先生の名前を錦の御旗として使っているわけで、それは非常に卑怯なことだと思う。

"今のフジオプロの方針"を強いて挙げるなら、そんな風に「故人の名前を都合のいいように利用する」ということにもなりかねない。

そして、あの発言を捏造とするなら、やはり赤塚先生の正しい見解は「六つ子の性格はそれぞれに違う」としていた方ということになる。
つまり、

事実を捏造してでも故人である赤塚先生の名前を都合のいいように利用して、
その結果として赤塚先生の本来のご見解が蔑ろにされてしまう

というのが、現在起こっているありのままの状況となるのだ。

赤塚先生のご見解と相反する見解を、あろうことか赤塚先生の名前を使って正当化させようとしているのだ。

"公認サイト"が、それでいいのだろうか。


②六つ子のキャラクターに対するぞんざいな扱い

根本的に、キャラクターへのぞんざいな扱いが残念でならない。
もっとマシな書き方はいくらでもあるだろうに。
きちんと紹介されているほかのキャラクターの文章と比較しても、異質な内容になっているのは明らかだろう。

六つ子に「六つ子であること」以外に価値を認めないような、投げやり・愛がないと思われても仕方のないような文章にしてしまうことは理解に苦しむ。
個性がない、特徴がないだなんてことは殊更に強調するようなことではないだろう。
聞いたこともないような変な"鉄則"に縛られて、アイデンティティを認められないのが六つ子なんだろうか。

うちの子って何の特徴も個性もないんです〜
とか、
うちじゃ『目立っちゃダメよ』って教えてますんで
だなんて言う親がどこにいる、というような話だ。

他のキャラにも同様の形式の紹介文を適用してみれば、よりわかりやすいかもしれない。
例えば「バカボン」だと、

これといった特徴もなく、一人では何もできないので、引き立て役としてひたすらにパパに付き添うだけ。それが宿命。

といった感じの紹介文になるだろう。
…いかがだろうか?


「性格的にも各々に違いがない」というスタンスでいくだけならまだいい。後述の設定などはともかくとして、見方次第ではそういう結論に至っても致し方ない部分はある。
しかし、それでも、例えば「6人揃ってワンパク」だとか、「ケンカもするけど、いざとなると結束は強い」だとか、六つ子の魅力や特徴はいくらでもあると思うし、いくらでも書きようはあると思うのだ。
どうしてあんな風な、徹底して魅力を感じさせないような文章にしてしまうのか。

私は赤塚作品や赤塚キャラ全体に愛着があり、勿論「おそ松くん」も大好きな作品であり、その主役たる六つ子たちも当然ながら大事なキャラクターたちだと思っている。
そんな六つ子が、公式な資料でこんな風にぞんざいな扱いを受けるようになってしまったことに、はっきり言って心を痛めている。


③六つ子各人はちゃんと"違う"

「おそ松くん」の六つ子は、本当に何の特徴も個性もなく、それぞれに違いなんてないようなキャラクターたちだったのだろうか。
これについてははっきり「ノー」と言わせていただく。

漫画を読めば、強弱はあれどそれぞれにキャラ付け・書き分けがされていることがわかるはずだ。
全員同じに見えて、実はちょっとずつ違うというのが六つ子の魅力のひとつ、というのがファンとしての見解だ。

そうした「六つ子の性格面での違い」は、ファン側が勝手に解釈しているものではなく、設定として正式に存在する。
(以下、文字数削減のため根拠として大きいもののみ掲載する。より詳細に知りたい方は、前回の記事をご覧ください。)

1964年、少年サンデー誌上で始まった『おそ松くんニュース』というコーナーでは、第1回目にてまさに「六つ子の性格は?」という読者の質問があり、それに対して「それぞれの性格なんか知らないよー」などと投げ出されることなくきちんと一人一人説明されている。

一松 いちばん、まじめ。
チョロ松 調子がよく、すばしっこい。
十四松 おとなしい。
カラ松 のんきもの。
トド松 あわてん坊。
おそ松 あばれん坊だが、人にすかれる。

これは作中描写と照らし合わせてもほぼギャップのないもので、この回答のために適当に考え出されたものではないと見ていい。
この記事は、竹書房文庫「おそ松くん」第1巻の巻末『ハッスル通信』にも再録があったし、「CRおそ松くん」での紹介文もこれを参考に書かれていた。埋もれているようなことはないはずだし、間違いなく明確な設定である。これを使っても何の問題もないのに。

そして、赤塚先生が直接六つ子の性格について語っているインタビュー記事もあるのだ。
「週刊平凡」1966年2月17日号から、抜粋の上引用する。
尚、「芥川」とはインタビュアーの「芥川隆行」氏である。

芥川 赤塚さんはそれぞれちがった性格を、つかんでるんでしょう?六人の。
赤塚 ぼくのなかでは、六人の性格もぜんぶちがうし、それぞれイメージ持ってるわけです。ですから、それぞれの事件にあったひとりを登場させるわけです。
たとえば、動物をやっつけようってことになると、乱暴なカラ松にやらせますし、かわいそうだからやめようよ、というのは十四松、自然に性格がでますね。








ご覧の通り、赤塚先生は6人の性格が違うと明言しているのだ。


設定などはともかくとして、実際の作品中では六つ子のキャラ付けは曖昧な部分も多いのは否めないため、解釈や見方次第では「違いがない」と捉えられても致し方なくはあるが、徹底してそういう扱いにしてしまうことは早合点だ。

そして、性格に関して正式に設定や言及が存在している以上、正反対の扱いにすることは正しい情報を発信しているとは言えないし、赤塚先生に対してもキャラクターに対しても敬意が足りていないと言うしかない。


④「おそ松さん」に支配されゆく「おそ松くん」

書き換えられた文章が、どう見ても明らかに、「おそ松さん」を意識したものになっているのも、非常に鼻につく。

やたらと個性がないことを強調し、順番が不明だとか書かなくてもいいようなことをわざわざ書き…。
そしてそれが、上記の問題点に繋がってしまったとも言えるわけだ。

僕は基本的には「おそ松さん」は好きだ。
しかし同時に、快く思わない気持ちも、開始以降ずっと抱いてきている。
自分に縁もゆかりもない作品なら完全に「好きにやってくれ」と思うが、おそ松さんは思い入れも敬意もある「おそ松くん」、そして赤塚不二夫先生が関わった作品だから。どうしても、色々気になる面が出てきてしまう。
でもやはり、「おそ松くん」と「おそ松さん」が別の作品であることも間違いなかったし、おそ松さんはおそ松さんで好きにやってくれれば、という気持ちもなくはなかった。
しかし、「おそ松さん」がこんな風に「おそ松くん」に影響を及ぼしてくるのなら、さすがにどうなんだと思ってしまう。

「おそ松さん」は「おそ松くん」とは別物だとして割り切ろう、という気持ちも、この一件を前に打ち砕かれるのである。
この一件があるうちは、おそ松くんとおそ松さんをいい意味で切り離して考えることもできない。

そもそもとして、おそ松さんが始まる前は、六つ子について「見た目が同じ」と言われることはあっても、「性格まで同じ」と言われることは、まずなかったはずだ。

「おそ松くん」では、六つ子は同じに見えて1人ずつ少しずつ違う、というスタンスだったのに、「おそ松さん」でオリジナルかつ明確なキャラ付けがされたために、「おそ松くん」の六つ子が性格面まで同じに"見えるようになってしまった"ということだと思うのだ。

本来ならアニメ側を従わせる立場にあるはずの原作サイドが、一派生作品に過ぎないはずの「おそ松さん」側に合わせられていくような、どんどん支配されていくような感じがして、いい気持ちがしない。



以上、今回の問題点について、改めてまとめた。
私は自分の文章力・表現力に絶対の自信があるわけでもないので、ちゃんとわかりやすく伝えられているかもちょっと自信がない。ちゃんと、伝わっただろうか。

はっきり言うと、この件に関しては、私は怒っていると言っていい。改めてこの記事を纏めるにあたっても、所々感情的になってしまった。推敲も行なって極力ソフトにすることを心がけたが、それでも一部過激に感じる部分があったら、そこは申し訳ないと思う。

書き換え前の文章も全く問題がなかったわけでもなく、作品中で読み取れないような違和感のある内容が含まれていたりもしたので、書き換えの意図自体は理解できないわけではないのだ。しかし、すべての内容に違和感があったわけではないし、あくまでも「公認サイトでの解釈」として納得がいったし、愛を感じないというようなことはなかったし、なんであれ「6人はそれぞれ違う」という確実に確認できる赤塚先生の意向に沿ってもいた。どちらの方が良いかは、言うまでもない。
ただ、書き換え前の文章でも、そこに現在と同じように赤塚先生の名前が出されていたら、それはそれで裏付けを求めることはしただろう。そういうことだ。

赤塚先生の遺した作品や資料は膨大であり、その全てを把握するのは困難を極める…というか不可能に近いと言っていいだろう。今回紹介した資料でも、「おそ松くんニュース」はともかく、「週刊平凡」の方は目に触れなくても無理はない。
公認サイト上の利用規約でも、内容の正確さを保証はしない旨が書かれているし、ある程度の間違いや誤解はやむを得ないと思う。
しかし、赤塚先生の名前を持ち出して意図的に嘘をついているのだとしたら、「知らなかった」などやむを得ないような話ではなくなる。
だからこそ、この件ははっきりしてもらいたいし、なんとかすべきだと思っている。

この問題が解消されない限りは、少なくともこの件に関しての「おそ松さん」やフジオプロさんに対しての不信感が消えない。
公認サイトで何か動きがあっても、(でもこの人たち、ああいうことしちゃうような人たちだからなぁ…)というような感情が頭をよぎってしまう。




閲覧者の皆様
今一度申し上げます。
この件について良くないと思ってくださった方は、公認サイト宛にメールで意見を送ってください。ご協力をお願いします。




フジオプロさん。
赤塚先生に、赤塚先生の作品に、赤塚先生のキャラクターに愛があるなら、何かしら動いてください…。




(2024/2/11 加筆)
(2024/6/7)

「おそ松くん」六つ子"無個性"問題

2023-04-22 20:01:00 | 赤塚不二夫
とても良くないことが起きているかもしれない。




少し前のことだ。
いつものように「赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ‼︎」(以下、公認サイト)を見ていたのだが、「え?」と思ってしまったのだ。

公認サイトでは、「キャラ検索」のコーナーと、作品ごとの個別ページにて、作品に登場するキャラクターの紹介がある。

そこの、「おそ松くん」の六つ子の紹介文が、大幅に変わっていたのだ。
以前までは一人一人にちゃんとした説明があったのに、ひたすら「無個性」「順番不明」な内容になっていた。


内容が変わることなんてよくあることじゃないの?と思われるかもしれない。
しかし、僕はこれに対して、大変よろしくないものを感じた。
しかも、単なる好き嫌いなどにとどまらない、由々しき問題を含んでいる可能性すら浮上してきた。


先にかいつまんで簡潔に述べておくと、
故人である赤塚先生の言葉が捏造されている可能性があり、しかもその上で赤塚先生のご意向が蔑ろにされている可能性さえあるのだ。


今回は問題提起として、それらについて語り、説明していきたいと思う。

できるだけ知ってもらいたい内容ではあるが、フジオプロさんや「おそ松さん」に対して厳しい言葉が並ぶことになる。そういったものを見たくない方は、決して無理はなさらないでいただきたい。


また、より理解を深めてもらうためにも、今回知り得た情報などは極力省略せずに書くので、結構な長文になる。全ての情報が重要なわけではないので、飛ばし飛ばしに読んでもらっても問題はない。重要なのは証拠よりも結論である。



1.六つ子は本当に無個性なのか
2.赤塚先生は本当にこんなことを言ったのか
3.「おそ松さん」に支配されゆく「おそ松くん」
4.純粋に、紹介文として




1.六つ子は本当に無個性なのか

そもそも何故このような書き換えが行われたのか?なんとなく想像はできる。
元々の紹介文は、1人ずつ個別にちゃんとあったものの、中には実際の作品では読み取れないような、名前からその場で考え出したかのような内容が含まれていたのも確かだった。自分もその一部に違和感がなかったと言えば嘘になる。それを見つめ直して、より実際の作品に合わせた内容にしようとしたんだろう。

しかし、それにしたってこれは極端ではないだろうか。
六つ子に対して「六つ子であること」以外に価値を認めないような、投げやり・愛がないと思われても仕方のないような文章にしてしまうのは、理解に苦しむ。


「おそ松くん」の六つ子は本当に無個性だったのか?各々に差異はなかったのか?
これについてははっきり「ノー」と言いたい。

主に連載前半の頃は結構書き分けられていた。全員同じに見えて、一人一人に少しずつ違いがあるのが六つ子の魅力のひとつだと思っていたのに、それを否定するような声明が公式に出されてしまうのは残念と言うしかない。我々が六つ子に感じていたそれぞれの魅力は何だったんだ?

そうした六つ子の性格の違いは、読者側が勝手に感じているものではない。当時、正式に回答されているのだ。

1964年、少年サンデー誌上で始まった「おそ松くんニュース」というコーナーでは、まさに「六つ子の性格は?」という読者の質問があり、それに対して「性格設定なんてないよ」などと投げ出されることなくきちんと一人一人説明されている。

一松 いちばん、まじめ。
チョロ松 調子がよく、すばしっこい。
十四松 おとなしい。
カラ松 のんきもの。
トド松 あわてん坊。
おそ松 あばれん坊だが、人にすかれる。


これは作中描写と照らし合わせてもほぼギャップのないもので、この回答のために適当に考え出されたものではないと見ていい。
この記事は、竹書房文庫の巻末「ハッスル通信」にも再録があったし、「CRおそ松くん」での紹介文も一部これを参考に書かれていた。埋もれているようなことはないはずだし、間違いなく明確な設定である。これを使っても何の問題もないのに。

そして僕は、赤塚先生が直接六つ子の性格について語っているインタビュー記事を昔フォロワーさんに見せていただいたのを覚えていた。
これを機に確認をとったところ、「週刊平凡」1966年2月17日号とのこと。
以下、抜粋の上引用する。
尚、「芥川」とはインタビュアーの「芥川隆行」氏である。

芥川 赤塚さんはそれぞれちがった性格を、つかんでるんでしょう?六人の。
赤塚 ぼくのなかでは、六人の性格もぜんぶちがうし、それぞれイメージもってるわけです。ですから、それぞれの事件にあったひとりを登場させるわけです。
たとえば、動物をやっつけようってことになると、乱暴なカラ松にやらせますし、かわいそうだからやめようよ、というのは十四松、自然に性格がでますね。
おそ松 六人のなかで、ぼくがいちばん好かれるんだね。
イヤミ ミーざんす‼︎(胸をはって…)


そう。赤塚先生は6人の性格が違うと明言しているのだ。


連載後半、イヤミやチビ太らの活躍に押されるようになるとそれぞれの書き分けが少なくなるのは事実。しかしこれは違いが消えたわけではなく、区別する隙が少なくなっただけだと思う。現に引用した記事が出た1966年というと、もうイヤミやチビ太たちも目立つようになっている頃である。

連載が終わってかなり経ってから出た「ニャロメの血液型大研究」(1984)でも、六つ子たち自らによる「六つ子はみんなA型だけど、性格はみーんな違う」という旨の台詞がある。

まだちゃんと読んだことのない身で語るのもなんだが、赤塚作品としてはかなり末期の作品にあたる「シェー教の崩壊」(『ビッグゴールド』1996年1月号)では、一部で有名なとあるシーンにおいて、「チョロ松」がピックアップされている。ここで「チョロ松」が選ばれているのは偶然ではないと思う。妙に暴走しやすい傾向のあったチョロ松がこういったシーンをやるのは六つ子の中だと個人的にもしっくりくる。かつて赤塚先生も語った、「それぞれの事件にあったひとりを登場させる」というのは晩年まで健在で、随分経ってからも赤塚先生は六つ子をきちんと区別していた、と考えていいように思う。


1997年に開催された「まんがバカなのだ 赤塚不二夫展」、現在は図録で出展作品を確認できるが、これの「キャラクター名鑑」ではイラストと文章で赤塚キャラたちが紹介されている。こちらでも六つ子は、各々一言ずつではあるもののそれぞれの特徴とともにきちんと区別されて紹介されている。文章自体は赤塚先生ではなく監修などを担当した綿引勝美氏によるものとみられるため、その内容がどこまで赤塚先生のご意向に沿ったものかは不明瞭だが、「赤塚先生の晩年まで、六つ子はきちんと区別されていた」という裏付けにはなるだろう。
そしてこちらの内容だが、実は公認サイト上で元々あった六つ子それぞれの紹介文と、結構合致する部分があるのだ。先程僕は「名前からその場で考え出したかのような内容」と評したが、あれは実際には公認サイト上で本当にその場で考えられたようなものではなく、赤塚先生の生前からある程度合意のあった内容で、あながちいい加減なわけでもない…と考えることもできるのだ。



サイト上の紹介文を改訂すること自体が、悪いことだとは思わない。
しかし、だからといって「ハイ‼︎無個性無個性‼︎」で片付けてしまうのは、断じて違うと言わざるを得ない。
赤塚先生に対しても、キャラクターに対しても、敬意が感じられない。
「設定上」に過ぎないのだとしても、一人一人の違いを認めていた方が、ずっと良かった。

というか、赤塚先生ご存命時からある「公認」サイト上で、赤塚先生の没後にこう言った書き換えを行うこと自体、いかがなものかと感じるのは僕だけだろうか。
キャラクターの紹介文がサイト上でいつからあるものなのか、というのは今となっては確かめることができないことではあるが…。

…余談的に追加で言わせてもらえば、サイト内で改訂を行うなら、「もーれつア太郎」のページでなぜか一度きりしか当時していないブタ松の妹がいて
レギュラーである×五郎がいないこととか、そういう明らかにおかしい部分をなんとかするのが先ではないだろうか…。




2.赤塚先生は本当にこんなことを言ったのか


僕が一番重く受け止めているのがこれだ。

書き換えられた紹介文のうち、「おそ松」の項目において、"赤塚センセイ"の言葉として「それぞれの性格なんか知らない」と書かれているのが非常に気になっていた。

これは、いつ、どこでの発言だろうか。
赤塚先生は、本当にこのような発言をしたのだろうか。

前項で述べたように、赤塚先生はちゃんと6人を区別して描いていたし、はっきり「六人の性格もぜんぶちがう」と明言していた。
そんな赤塚先生が、「それぞれの性格なんか知らない」なんて真逆の発言をするとは、とても思えないのだが。
鬼籍に入られて10年以上経って、突然こういった発言が発掘されるというのも不自然である。


こうなると疑わしくなるのが、この発言が捏造されたものであるという可能性だ。

つまり、赤塚先生はこんなこと言っていないのに、さも言ったかのように書いてあると。


故人の言葉を捏造することそれ自体が良いことではないのは言うまでもなかろう。

もし本当にそうだとしたら、記述を正当化するために、でっち上げてでも赤塚先生の名前を錦の御旗として使っているわけで、それは非常に卑怯なことだと思う。
そんな風に故人の名前を都合のいいように利用するのが今のフジオプロということにもなりかねない。

そして、そうして齎される結果が、実質的に赤塚先生のご意向に背くことにもなるのだ。

断言ができないのも事実ではあるが、発言のソースが不明な上捏造だと考えられる根拠がいくつも存在する以上、その体で語るしかない。

もし仮に、本当にどこかで赤塚先生がそういった発言をしていたのだとしても、それは「後年になって忘れていた」というだけのことである。
少なくとも連載当時には赤塚先生は「六つ子はそれぞれ性格が違う」としていたのが紛れもない事実である以上、それを尊重せずに一部のみを切り取って印象操作のように赤塚先生の名前を使っていることにかわりはなく、どちらにしたって褒められることではない。
そして先に述べたように、後年になって忘れていたということさえ考えにくいというのが実情である。


3.「おそ松さん」に支配されゆく「おそ松くん」


書き換えられた文章が、どう見てもあきらかに「おそ松さん」を意識したものになっているのも、非常に鼻につく。

やたらと「無個性」を強調し、順番が不明だとか書かなくてもいいようなことをわざわざ書き…。
そしてそれが、上記2項目の問題にも繋がってしまったわけだ。

僕は基本的には、「おそ松さん」は好きだ。
しかし同時に、快く思わない気持ちも、開始以降ずっと抱いてきている(この辺りも、いずれこのブログでまとめたいと思っている)。
自分に縁もゆかりもない作品なら、完全に「好きにやってくれ」と思うけど、おそ松さんは思い入れも敬意もある「おそ松くん」、そして赤塚不二夫先生が関わった作品だから。どうしても、色々気になる面が出てしまう。
でもやはり、「おそ松くん」と「おそ松さん」が別の作品であることも間違いなかったし、おそ松さんはおそ松さんで好きにやってくれれば、という気持ちもなくはなかった。
しかし、こんな風に「おそ松さん」が「おそ松くん」に影響を及ぼしてくるのなら、さすがにどうなんだと思ってしまう。


そもそもとして、おそ松さんが始まる前は、六つ子について「見た目が同じ」と言われることはあっても、「性格まで同じ」という風に言われることは、まずなかったはずだ。


六つ子の性格はそれぞれに違う、という描写や説明が多々あったことは前述の通りである。


1988年から放送されたリメイク版アニメ「おそ松くん」の本編中で、六つ子が「無個性集団」と揶揄されることがあったのは例外として挙げられるかもしれない。
具体的にどう「無個性」なのかは一切言われていないので憶測の域を出ないが、まずルックス面は間違いなく無個性であるし、キャラクター面についてもこれはイヤミら強烈な個性のあるキャラに押されて主役としての地位が危うくなっている六つ子の、あくまでイヤミたちと対比しての「キャラの薄さ」を言ったもので、「一人一人に差異がない」という意味合いはないと考えている。
平成版おそ松くんの六つ子は、原作の連載後期に近いイメージとなっているため、性格面のことを言っているのだとしてもやむを得ないし、あくまで"揶揄"したものである。



これがわかりやすく表れた例がある。
おそ松さんの情報公開の直前あたりの時期に出たムック「赤塚不二夫80年ぴあ」では、六つ子について「兄弟を見分けることは出来ないが、個々にキャラクターが違う」とし、各々の説明がある(ただしその内容は当時の公認サイト上のものに基づいている)。
対して、おそ松さん放送翌年に出た「Pen + いまだから、赤塚不二夫」では、「性格的な違いは、ほとんどみられない」と、急に性格が同じという面に触れるようになっている。見た目が同じであることについては触れさえせず、なぜか性格のみに着目している。


「おそ松くん」では、六つ子は同じに見えて1人ずつ少しずつ違う、というスタンスだったのに、「おそ松さん」でオリジナルかつ明確なキャラ付けがされたために、「おそ松くん」の六つ子が性格面まで同じに"見えるようになってしまった"ということだと思うのだ。


本来ならアニメ側を従わせる立場にあるはずの原作サイドが、一派生作品に過ぎないはずの「おそ松さん」側に合わせられていくような、どんどん支配されていくような感じがして、いい気持ちがしない。


4.純粋に、紹介文として


理屈抜きにして、純粋にキャラクターの紹介文として味気ないし、変な文章になってはいないだろうか?

鉄則だのなんだのと言って、変なものに縛られてアイデンティティが認められないのが六つ子なのだろうか。
そんな「鉄則」こそ、作品中では見受けられないものだが…




以上、ざっと今回の問題点についてまとめた。一部、感情に基づくものも含まれてはいるが、ご理解いただけたらありがたいのだが…。

今のところ、公認サイトには意見や問い合わせなどを送る専用のフォームのようなものがないようだ。その分、ブログ上にてこうして自分の意見・感情を書かせていただいた次第である。もっと他にできることすべきことがあるかもしれないが、ひとまずはブログを選んだ。


やはり、恩恵も計り知れないほど受けているフジオプロさんに対して、こういった言葉を並べるのに心苦しさがないと言えば嘘になる。
しかし、お世話になっているからこそ、好きだからこそ、駄目だと思うことにはちゃんと駄目だと言うことも重要だと考えて、こうして書くことを決めた。
今後の動向次第では、自分もそれなりの対応はしたいと考えている。


「公認」としつつも本質的には「公式」であり、影響力も大きいのだから、こういった問題点はなんとかしてもらいたいものだ。



この件以外にも、赤塚作品の未来は明るいだろうか…と感じてしまう件は、複数ある。
本当に、良い方向に向かってほしいものだが…。