フジツカ村

好きな時に好きなことを語るブログ

【重要】なりすましアカウント大量発生について

2024-06-01 19:14:00 | 日記
馴染みの方も、通りすがりの方も、お読みいただければ幸いです。


現在、Twitter(X)において、私タヌえもん(@tanu_emon)のユーザー名及びプロフィール文を丸パクリしたアカウントが大量発生しております。

私がプロフィール文に記載している当ブログのリンクもそっくりそのままコピペされているため、念のためこちらでも情報共有・注意喚起・対応協力要請をさせていただきます。

ざっと確認したところ、当該アカウント群には、以下のような特徴があります

・今年3〜5月にかけて乱立されている。
・名前及びプロフィール文は私のアカウントのものと一字一句変わらない。
・IDはtanuemonの後に6文字の数字の羅列
・アイコンなどのそれ以外のプロフィール情報はどのアカウントもバラバラ。
・ツイート(ポスト)もフォロー・フォロワーもかなり少ない。
・わずかなツイートの内容は、「葬送のフラーレン」やマリオの映画に関するものが多く、言葉遣いや内容が不可解なものも散見される。
以上のようなアカウントが40件近くある。

といった具合になります。
百聞は一見にしかず、「タヌえもん」でユーザー検索すれば出てくるのでそちらを見ていただければおわかりいただけると思います。

特定の人間によるスパム的なアカウント群であることはほぼ間違いないかと思います。
コピーされた側からすれば迷惑でしかないし、今後何かしら具体的なトラブルが起こらないとも限りません。
撲滅されて然るべきアカウント群であるとみて良いと考えています。

現状、既に「なりすまし」として報告及びブロックに何人かご協力いただいております。ありがとうございます。
私はですが、詳細はTwitter上に載せていますが、「スパム」からの報告及びブロックをしています。
一部アカウントに制限がかけられていることもあったので、一定の効果自体はあるとみられますが、今のところ解決には至っておらず、40件以上ある当該アカウントは残ったままです。
この記事をご覧いただいている方々にも、報告及びブロックの協力をお願いしたいのですが、それと同時に、こういった場合どいった風に対応すれば良いのか、対応策案があればそちらもご提供いただきたいです。よろしくお願いします。

そして…私個人の感情として、現在起こっている状況がただただ純粋に気味が悪いです。

・誰がこんなことをしているのか
・なぜ丸パクリをしているのか
・なぜその対象が自分なのか
・なぜこんなに大量にあるのか

等々、わからないことだらけというかもはやわからないことしかないです。

自分にはスパムアカウントを作る人の考えていることなんてわからないし、そういった知恵もないというのが正直なところです。はっきり言えば、そんなことは当事者にしかわからないでしょう。
しかし、傾向として「多分こうなんじゃない?」といったことをご存じの方、考えのある方がいらっしゃれば、どんなことでも良いのでお聞きしたいです。よろしくお願いします。


とにかくもう起こっていることが前代未聞かつ理解不能で、なんでこんなことになったのか、どうすればいいのか、説明等が十分にできているかも「わからない」としか言いようがないのですが、一刻も早く解決されることを願うばかりです。

認知及びご協力のほど、どうかよろしくお願いします…。

シマリスちゃま、ありがとう

2024-04-29 19:00:00 | けものフレンズ
僕はまた、別れを経験した。

けものフレンズVぷろじぇくとでは二度目だった。


けものフレンズVぷろじぇくと、通称「けもV」。
このブログでも複数回記事を書いている。
この記事を読みに来てくださっている方々なら、大半の方は既にご存知だろう。
「けものフレンズ」の、公式VTuberプロジェクトだ。

10人のメンバーが日々配信をするけもV。
既にその歴史も、それなりに長くなっている。
最近の動向としては、3D未実装だった5人のうち3人の3D化が実現し、2回目のライブも開催、さらに2024年はオンラインライブではなく我々の住む"ヒトの国"でのライブも決定。さらにオリジナル曲「けもののこどう」も登場しリリースされる…などなど、まさに絶好調といったところだ。
そんな中で、この別れは訪れた。

シマリス。
ここではあえて、愛称の中から「ちゃま」という呼び方を使おう。
ちゃまはけもVメンバーのうち、2022年9月に続々とデビューした5人、「けもレン」のひとり。
そんな「けもレン」の中で彼女は、実力者・出世頭的なイメージが強かった。

純粋に配信頻度も高くその内容も面白く、歌などの才能もあり、またかなり登録者数の伸びが早かった。けもレンでダントツなだけでなく、先立ってデビューしていたダイアウルフやカラカルまで追い抜いていくその様子はただただ驚くばかりだった。
そして個人的には、ちゃまに対してすごくしっかりした子という印象があり、まさにあらゆる面で信頼を置いているといえる、大事なメンバーだった。

3月に入ってからのこと。
ちゃまから、「大切なお知らせ」の配信があるとの告知が…。

わかる人にはわかると思うが、「大切なお知らせ」とあると、どうしても身構えてしまうのが性というもの。
この時も、告知があってからほぼ丸1日、気が気でなかった。
まさかないだろうと思っていたかったが、ついに発表された。

シマリス、4月末でけもVを卒業。

ある程度想定してはいたが、やはりショックだった。そして、あまりにも突然だった。
寧ろちゃまは少し前に3D化があったりと、「さあこれから」という空気さえあった。

けもVでの過去の卒業者、ケープペンギンのことをどうしても思い出してしまう(それについてはこちらを参照)が、ケープはいくつか兆しを感じていた中での発表で、ショックだったのは変わらないが「やっぱりきたか」といった気持ちだった。
それに対してちゃまは突然すぎて、「そ、そんな…」という気持ちが強かった。
しかし、気が気でなかった丸1日の間に思い出したのだが、ちゃまの方も兆しが皆無なわけではなかった。
えるすりー(定期的に開催される、VTuberが集まるオンラインライブイベント)最新回の参加者に、ちゃまの名前がなかったのだ。
新たに3D化された3人のうち誰かが参加者に入るのは当然の流れとして、その中に実力者たるシマリスが選出されなかったのはどうにも不自然だと思っていた。
そのことを思い出して、ちゃまの卒業が一気に現実味を帯びたように感じ、その予感が的中した形になった。
ケープ卒業を予感した兆しのひとつにも、えるすりー未登場という点があった。奇しくも、またもえるすりーが伏線になった形だ。

僕はけもVは一人一人みんなが好き、「10人のけもV」というものに強い愛着があった。だから正直、誰が抜けてもショックだったろうが、実力者かつ強い信頼を置いていただけあってその分ちゃまの卒業は残念な気持ちは強かった。
寂しいけど、受け入れるしかない。くよくよするのは良くない。笑って送り出すのが一番だというのは過去の経験からも自分がよくわかっていた。残りの時間も、しっかり楽しく過ごそうと、そう思った。

というわけで、ちゃまとの最後の2ヶ月弱が始まったわけだが、どうしたことか、ずっとその実感が湧かなかったというのが本音だった。それが何故なのか、はっきりとはわからない。変わらない、いつも通りのちゃまだったからかもしれない。でも、それはちゃまのいいところでもあった。
なんにしても、ちゃまが卒業してしまうのは事実だ。配信で応援するのはもちろんのこと、プレゼントやお手紙も送りたかったし、イラストも描きたかった。その日までに、やりたいことはたくさんあった。

そして、実感が湧かなかったとはいっても、卒業ならではの企画は当然あり、ありがたいものだった。
ひとつずつ、その間の思い出を振り返ろう。

特に自分にとっても強く心に残っているのが、「おはなし会」。ちゃまと、オンラインで1対1でトークができるのだ。
トークポートというアプリを使ったこのような企画自体は僕自身、過去に何度もやってはいるが、けもVにおいては正真正銘初めての企画となる。
ちゃまと直接お話できたことそれ自体が何より嬉しかったし、3分間と短い時間ながら感謝の言葉や気持ちも伝えられて、卒業前の忘れられない思い出となった。

そして、22日には「シマリスお別れ会」があった。
有料配信ではなく通常枠ではあったが、全身で動き回ってわちゃわちゃするのはこれが最後だ。
ゲストにシマハイ、カラカル、ウサコを招いての、最後の思い出作り。
全員集合は叶わなかったが、2年前にケープのお別れ会があったあの場所で、楽しい時間を過ごすことができた。
ゲーム企画でひとしきり盛り上がった後は、お歌やウサコからのお手紙の時間。
お歌はシマリスソロでお別れにぴったりの「YELL」、ウサコとのデュエットで思い出の曲「なかよしマーチ」、4人揃ってけもフレといえばこの曲「ようこそジャパリパークへ」。
ウサコからのお手紙は、1年7ヶ月ちゃまやみんなと一緒に過ごしてきた一ファンとしても、とても胸に迫るものがあった。ちゃまは、本当に卒業するんだと感じた。
まさに、笑いあり感動あり。素晴らしいイベントだった。

卒業1日前には、最後の「けもレン」でのコラボ。グルルとジェネが実質入れ替わりという形になって、5人全員で揃うことはできなかったが、それでもけもレンというくくりで最後にトークの場が与えられたのはありがたい。1年7ヶ月を一緒に歩んできた5人の仲間による振り返り、そしてメンバーからちゃまへ、ちゃまからメンバーへのお別れの言葉は、やはり心に沁みた。

そして、28日、本当に最後の配信。それは21時から始まった。
3時間にわたって、初配信から現在までが振り返られた。
本当に、いろんなことがあったよねと、とても感慨深く感じた。
名残惜しくても、その時はやってくる。お別れの言葉を告げ、たくさんのリスナーちゃまに見送られながら、シマリスの配信活動は幕を閉じた。


これにて、シマリスはけもVを卒業した。
別れというものは何度経験してもやはり寂しいもの。
でも、自分なりにやるべきことはやったし、きちんと見送ることもできた。ちゃまのこれからが幸多からんことを願いつつ、引き続き変わらずけもVを応援していくのみだ。


ちゃま、今まで本当にありがとう。

けもVのみんな、これからもよろしくね。








「おそ松くん」例の件から1年

2024-03-29 20:50:00 | 赤塚不二夫
当ブログでも過去に取り上げた(1回目2回目)、赤塚不二夫公認サイトでの問題が発生してから、そろそろ1年が経ちます。

今一度、この件について語ってみたいと思い、このブログを書きました。

新情報・新展開などはなく、あらためてこの問題について見つめ直し今現在の私の感情を書き綴るのみになります。そして今回はかなりナーバスというか感傷的になってしまっている可能性があります。まずその点、ご注意ください。

また、「ここは違うんじゃない?」「ここは良くないんじゃない?」というようなことがあれば全然言ってもらって構いません。
以上、よろしくお願いします。


問題及び、現在の感情について

この問題は、未だ解決はしていない。
既に私は2度、形を変えてサイト宛に意見を送っているにもかかわらず、である。

件の紹介文を読むのは心が痛むので、できることなら読みたくないのだが、「対応してくれたのに、いつまでも問題提起を続ける」というのは良くないというか意味のないことなので、変化がないか時々サイトに確認しに行ってはいる。
そして結局のところ依然として状況は変わっておらず、件の紹介文を読んでしまって心を痛める…そんなことが続いている。


詳細をご存知ない方には上記リンクの過去記事を参照してもらうことにして、
改めて、この件は何が問題なのか、
かいつまんでまとめてみよう。

「赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ‼︎」にて、六つ子(おそ松、一松、カラ松、チョロ松、十四松、トド松)の紹介文が改訂された。

①その改訂後の内容は、設定や作中描写と照らし合わせても的確なものとは言えない。原作者の意向にも反することである。

②その内容にキャラクターへの愛が感じられず、心が痛む。

③そしてその内容を、「赤塚不二夫がそう言った」ということにしている。赤塚不二夫の存在を盾にしながら、赤塚不二夫に対する背信行為をしている。
「赤塚不二夫の言ったことを守ってます!」と言いながら、その実、赤塚不二夫の言ったことに背いている。

…といったところだ。

ぶっちゃけ言うと、①と②だけであれば、私もここまでこの問題に拘っていない。これだけでも問題提起自体はしただろうし残念だとも感じただろうが、「あってはいけないこと」「許せないこと」とまでは捉えていなかったんじゃないかと思う。

ここまで問題視しているのは、やはり③があるからだ。

「六つ子に違いなどない」というのは、厳密に言えば正しい情報とは言えないものの、作中描写においても赤塚先生の発言においても、常に明確にされてきたわけでもない。だからあくまでも一解釈としてであれば、①のような内容も全く許容できないわけではない。事実、「六つ子には性格的な違いが見られない」とする公式的な解説自体は、今回が初めてではない。

②についても、「感じ方は人それぞれ」と言ってしまえばそれまでだろうと思う。

しかし、③のように「赤塚不二夫がそう言った」という体で語られるなら「それは違うだろう」となって当然だろう。

赤塚先生が過去に似たようなことは言っていて、その要約と受け取れる内容がサイト上に載せられているのならまだしも、実際には赤塚先生はそれと真逆の発言をしているのだ。
「一解釈」として許容できたことも「間違った内容」になるし、「感じ方は人それぞれ」と考えることができたものも「タチの悪い内容」となるのだ。

きちんとした根拠に基づくのなら、「六つ子に違いなどない」というのは誤解、悪く言えば思い込みのようなものだ。
思い込みの内容を"公認サイト"上に記載すること自体問題だし、そんな投げやりとも言える文章の中で

六つ子に特徴なんてないから書くこともないし、赤塚不二夫がそう言ってた、ってことにしよう

くらいの意識で"赤塚センセイ"の名前を出しているのなら大問題なのだ。

原作者・故人軽視も甚だしいし、実際の赤塚先生の発言と相反するのだから、それは背信行為と言って差し支えない。

些細なものであったとしても、根拠は根拠である。無視するべきではない。
そうでなくても、故人の存在を利用し事実を捏造すること自体、褒められるようなことではない。

これは何も、この件に限った話ではない。
今回はたまたま、六つ子のキャラクター設定に関しての話題でこういったことが起こっているが、場所や場合を問わず、こんなことは起きるべきではない。

改訂そのものについてだが、元々あった紹介文も、作中では読み取れないような情報が含まれていたりもしたので、その意図が100%汲み取れないわけでもない。しかし、それらの情報を「誤情報」として削除しても、それを補うために別の「誤情報」を記載してしまえば、それは本末転倒ではないか。

というか、赤塚先生は実際には設定をきちんと考えていたのに、「いい加減に考えていた"ことにする"」というその精神自体が、赤塚先生に対して失礼にあたらないだろうか。


とはいえやはり、「あの内容への改訂には正当な根拠がない」と言い切ってしまうことができないのはわかっている。
要するに、サイトに書いてある通りのことを赤塚不二夫がどこかで実際に言ったという可能性を完全には否定できない、ということだ(悪魔の証明)。
だから私は、サイト宛に意見を送る中で、「正当な根拠があるならそれを示してほしい」ということも併記した。
しかしそれさえも全く反応がないので、こちら側としては「根拠を出さないということは、出せない、それが無いということですね」という風に判断するしかない。
状況から言っても、可能性は低いと言うしかない。
そして、仮に赤塚不二夫がサイトに記載された通りのことを実際に言っていたのだとしても、それとは真逆のことを言ったこともまた紛れもない事実として確認しているので、私の主張が完全に的外れになることはないと考えている。


結局のところ、「赤塚不二夫公認サイトでは故人の遺志に反する形での内容改訂が行われ、かつその責任が故人に転嫁されている。説明責任を求められても、だんまりを決め込んでいる」というのが、現在こちらから観測できるありのままの状況なのである。


また、本質的な問題はそこにはなく憶測の域を出ないとも言えるため先程は挙げなかったものの、「無個性」「順番不明」をやたらと強調した文章が、
六つ子に明確な個性がつき順番も設定として固定された「おそ松さん」(以下「さん」)を意識してのものとしか思えないのも大きな問題として捉えている。

「さん」に対してはこれまで否定的な感情を抱くことも多かったが、今にして思えば、それらは概ね「不満」(あくまでも個人的な感情)止まりなものが殆どだったように思う。
しかしこの件では、「さん」が原作サイドに与えた影響が、実害レベルに及んでしまっているように感じる。そこも辛い。
「さん」は「さん」で自由にやるだけにとどまらず、「さん」によって「おそ松くん」そのものの歴史や設定が歪められつつあるのだ。
本格的に、「おそ松くん」という作品の尊厳に関わる事態になってはいないだろうか。

尤も、この場合おそ松さんが悪いというより、やはりおそ松さん側に合わせてしまうサイト側に問題があるのだが…。


実際にあの内容改訂そのものが与える影響というのはそう大きくはないかもしれない。私の知る限り、ファンの多くはあの内容に対してちゃんと違和感や否定的な感情を抱いているし、今からあの内容を参考にして鵜呑みにする人が一体どれほどいるか、という話だ。
しかし、それはそうとしてこの件は、サイト運営者(=フジオプロスタッフ)が、こういうことをしてしまうような人たちなのだということが露呈してしまったのが辛い。

(作品についてきちんと理解していない、キャラクターへの愛も感じられない、第三者による派生作品の設定に合わせてしまう、故人の存在をも利用してしまう、ファンからの問い合わせにも応じない…)

私自身、ファンとして、赤塚作品に対して「あれのリメイクアニメが観たい」「あれとコラボしてほしい」というように様々な希望や展望がある。しかし、今となってはそうしたものについても、「この人たちに任せていて大丈夫だろうか」という感情が拭えず、期待が消えたわけではないが不安がかなり大きくなってしまっている。現に「おそ松くん」がこんなことになってしまっているんだから。

これまでも赤塚作品絡みであまり良いとは言えないことは度々あったが、概ねはあまり重視せず見逃してきていた。しかし、そんなアレやコレやについても「フジオプロがこんな体制だから起こってしまったことなのでは」と感じ、一気に気になるようになってしまった。

実を言うと、この件がわかって以降、それ以前と比べて赤塚作品を気兼ねなく楽しむということができなくなってしまっている(あくまで"それ以前と比べて"ではあるが)。
作品や赤塚先生本人には何の罪もないのに…。
赤塚作品を見ていると、どうしてもこの件のことが頭をよぎってしまうし、「今」赤塚作品を推すということは必然的に「今」のフジオプロを支援することにも繋がる、と考えてしまう。
他の往年の人気作品と比較しても、「どうして赤塚作品だけ、こんなことになってしまったんだろう…」という風に感じることが増えた。

あえてこういう言い方をするが、「好きなのに、好きだからこそ、好きなように好きでいられない」というような、矛盾した状況が今ある。
赤塚ファンになってからもう15年以上経つが、ここまでのことは初めてだ。
私だって、「赤塚作品なんか好きになるんじゃなかった」とだけは絶対に思いたくない。

長くなったが、これが問題についてと、今のありのままの感情だ。
私はそれほど、重く、辛くこの件を受け止めているのだ。

フジオプロさん。
ここに書いてあることが違うのなら、何か言ってくださいよ。


結局のところ…

ここまでざっと書き綴ってきたが、やはりどんな言葉を使うのが正解かわかっているわけではないので、問題についても感情についても、ちゃんと適切に的確に閲覧者の皆さんに伝わっているかどうか、正直言うと自信がない。ちゃんと伝わっているだろうか。

私はこれまで、この件について、ずっと思い悩んできた。状況が変わらないから、ずっとそのままなのだ。

そんな風に、変わらない状況の中で、変わらない状況の中だからこそ、考えることがある。

結局のところ、こんなに重大視しているのは、自分だけなのではないか、と。

この件に対して否定的な見解を持っている方が自分以外にも大勢いること自体は存じ上げている。サイト側が動いてくれない状況の中で、それは私にとっては心の支えでもある。しかし、ここまでこの件にこだわり、大きく問題視しているのは自分だけなのではないかと、思ってしまうことがある。

私は一応、サイト宛に二度意見を送った。かつ、当ブログ内やTwitterでは、「この件を良くないと思った方は、サイト宛に意見を送ってほしい」という旨の呼びかけも行った。
結局、自分以外に意見を送った方というのは、いらっしゃったのだろうか。
そういった話を聞かないので、おそらくいないのではと思う。

そりゃ、問い合わせの数が多くなれば変化が表れるという保証もないし、人によって事情などもあるだろう。私も、無理強いをしたいわけではない。
しかし、本当に意見を送ったのが私だけであれば、その事実はどうあっても残る。
私は一人で騒いでいるだけだったのだろうか。

そうなると、サイト側からしても、あくまでも一ファンの意見、極端な言い方をすれば"わがまま"のようなものとしてしか見られていなかったのだろうか。
まぁ、一人の発言や行動にいちいち一喜一憂するのも"公式"にあたるポジションとしては問題ありなのかもしれないし、ファンからの意見や問い合わせには全て応えろというのも傲慢なのかもしれない。

それでも、やっぱり、数は別として、内容としてこれは「ファン一人のわがまま」として片付けて然るべきことなのだろうか?という疑念は残る。



もう率直に言おう。

皆さん、

私の言っていることと、
フジオプロのやっていること

正しいのはどちらだと思いますか?



いや、ほんとに。

私がもし何か間違ったことを言っているのなら、教えていただきたいのだ。





…ふりだしに戻るようなことを言うようだが、
この件の何が良くないか最も根本的なことを言えば、
「公認サイト上の六つ子の紹介文が書き換えられた」ということしか、事実として確実なものがないということだろう。

どのような意図・経緯・根拠のもとああいった改訂が行われたのか。
誰の意思が主導となって行われたことなのか。
全くわからない。

公認サイト内やフジオプロの運営する別サイト等各所を見るに、六つ子各人を均一なものとして区別しない扱いが徹底されているわけではないので、余計にどういうつもりなのかがわからない。
(単に放置されているだけなのかもしれないが…)

ファンの声を求めるようなフリースペースを設けておきながら、その内容には無反応なので、ファンの声に耳を傾ける気があるんだかないんだかも、さっぱりわからない。

フジオプロが何を考えているのかが、私にはさっぱりわからない。
わからないから、ひたすら思いを巡らせては空回りするだけ。




"公認"ってなんだ。


"公式"ってなんだ。


何が正しいんだ。


誰が赤塚作品を守るんだ。


俺はどうすればいいんだ。




俺にはわからない。













(参考:サイト宛に送った意見全文)













「映画ドラえもん のび太の地球交響楽」感想

2024-03-13 20:54:00 | ドラえもん
例年通り、ドラえもん映画を観てきた。
少し時間がかかってしまったが、今年も、自分なりに感想を書き綴ってみる。
一応、ネタバレ注意。





今回の映画を観て思ったことといえば、「テーマに沿った『ドラえもん』の映画作品としてはほぼ完璧」だとか、「非常に"綺麗に"まとまっている」といったところだろうか。

今回のテーマは、これまでありそうでなかった「音楽」。一体どんな内容になるかと思っていたが、いざ観てみれば、「ドラえもん」で「音楽」をテーマにした映画としてはかなり理想的な形になっていて、かつ内容としても映像としてもかなり「綺麗」だったなぁ、という風に感じた。

本当に徹頭徹尾、様々な切り口から「音楽」をテーマに展開されており、その構成や独自の世界観の展開、物語性、それを「ドラえもん」の世界や設定とのリンクが巧みで、かつ純粋にその魅せ方も圧巻で、ただただ観ていて、聴いていて楽しい作品だった。
通常僕は、映画ドラえもんは(正規シリーズに限って言えば)映画館では一度しか観ず、今この記事を書いている時点でもその通りなのだが、この作品は例外的に複数回観てもいいかもしれないと思っている。物語としての作り込みが十分なのはさることながら、映像として「映画館で観る価値」が例年以上にあるように思う。

また個人的な話になるが、僕はここしばらく別の趣味でアレやコレやがあって、クラシック中心に音楽に対する知識や関心がいい感じに増えつつある最中にあり、その点でもタイムリーさを感じた。実際、観ている中でも「これは‼︎」と感じる部分がかなりあった。ここは、一昔前の自分ならおそらく感じなかった感動だった。
そうでなくても、「音楽」というのが身近かつ普遍的なものであることが強く感じられる展開はやはり見応えのあるものだった。何万年規模にも及ぶ世界観の沿革や、日常に影響が及んでいく様子は説得力のあるものだった。

「ドラえもん」を「ドラえもん」たらしめている要素の一つが「ひみつ道具」であるわけだが、今回もひみつ道具が盛りだくさんだ。お馴染みの道具や新道具、「こんなところにこんな道具が出るなんて!」というものまで…。ムードもりあげ楽団なんかは今回ぴったりな有名道具だし、「客よせチャルメラ」なんて数年前のアニオリ道具がまさかの再登場というかなり意外な選出だ。マエストロハットとなりきり指揮棒はやはり魔界大冒険の魔法ぼうしのオマージュだろうか?
そしてキーとなる道具の一つでちょっと驚いたのが「あらかじめ日記」。好きな道具ではあるが、こういった全能系の道具は文字通りなんでもできるので結構扱いが難しいだろうに、無理なく溶け込んでいて見事だった。
ラスト、地球が風呂場に…という展開は若干無理がある気もしたが、伏線自体はあったし理には適っているので、まぁいいだろう。

ゲストキャラクター陣も個性的でバランスも良く、親しみを持てたと思う。僕としてはマエストロヴェントーら実在音楽家をモデルとしたロボットたちが特に見れば見るほどより好きになれそうなスルメ的キャラのようでお気に入りだ。ミーナは特別出演枠で単に現代の音楽のシンボル的に目立つだけのキャラかと思ったらストーリー的にも深く絡んできたのは読めなかった。

他にも、相変わらずのび太のクラスメートに原作の名物キャラが何人かいたり、おかしくなったドラえもんの目が「雲の王国」の時と同じだったり、さりげなく「夢をかなえてドラえもん」が出たりと、小ネタレベルでの見所も多く、全編にわたって楽しめた。

以上、ざっと感想を書いてみた。前述の通り、この映画は2回目を観に行く可能性が高い(Dolby Atmosもあるらしいし)。その時には、改めて思ったことを書き加えるかもしれない。
今回は「ドラえもんっぽさ」とか「わさドラっぽさ」よりも、「ドラえもんを題材でテーマに沿った物語を作る」という点が優秀な作品、というのが全体の印象となる。良い作品であった。
来年だが、夢幻三剣士のリメイクの可能性も高そうだが、個人的には「宝島」の時のようにミスリードの上でのオリジナル作品になるのでは、と思う。何にしても、期待している。

「ドラえもん」の苦手な話

2024-02-14 18:02:00 | ドラえもん
今更改めて言うまでもないが、僕は「ドラえもん」という作品が大好きだ。


好きな話はもちろんたくさんあるが、同時にどうしても好きになれない、苦手な話というのもいくつかある。

いくつかある苦手な話の中で、悪い意味で際立って心に染みついてしまっている話がある。今回はそれを語ってみたい。

それは何かといえば、「チューシン倉でかたきうち」という話である。

10年以上前に初めて読んだ時から、この話はかなり苦手だ。
しばらくは本当に「大嫌い」と思っていて、ある時点からそこまでの苦手意識はなくなったものの、それでもやはりダントツくらいに苦手なのは変わりない。というか今でもこの話に限って言えば「嫌い」とはっきり言っていいんじゃないかと思う。

じゃあ何故そんな嫌いな話について語るのかといえば、気に入らないことをいっぺんちゃんと言葉で表現することでちょっと心をスッとさせるような効果はあると思うし、それを読んでくれた皆様からの共感や意見が欲しいという気持ちもあるのだ。

以下、この記事の読者の皆様は当該回を確認済みという前提であらすじなどは割愛して話を進めさせていただく。ご了承ください。
そして、今回は基本的に「俺はこの話のここが嫌いだ!」っていうのを書いていくだけになるので、あまり面白いものではないと思うし、そういうものが苦手な方などには向いていない内容になる。ご注意ください。

尚、この回はタイトルからも読み取れる通り「忠臣蔵」がモチーフになっていて、その流れを「ドラえもん」に置き換えてなぞっているからあのような筋書きになっている…ということは一応理解している。先に述べた通り、かつてほどの苦手意識がなくなったのもそれを知ったのが理由なのだが、同じく「忠臣蔵」をモチーフにしている別の作品には特にこうした不快感を覚えたことはないので「モチーフが忠臣蔵だから」というのが嫌いな原因の全てではないし、元ネタはともかくとして「ドラえもん」にこういった話があるのは間違いなく事実であるので、このまま語らせていただく。

さて、この回であるが、何が嫌かを簡潔に言えば、「非常に理不尽なことが起こっているのに、それが納得のいく形で回収されていない」と、これにつきる。

「ドラえもん」で理不尽事が起こることなんて珍しいことでもないと思われるかもしれない。しかし、大抵の場合はちゃんとその後納得のいく展開があったり、痛快な復讐劇によってカタルシスがあったり、話としての面白みがあったりするので、そこまで気にならないパターンが多いのだ。
しかし、「チューシン倉でかたきうち」は、理不尽事が起こっているのにそれに対しての「かたきうち」が納得のいくものではなく、しかも話自体もテンプレ的展開が続くだけで特別光るものがあるわけでもないため、結果的に読後の不快感のみが残る話になってしまっているのである(話としての面白み云々については人それぞれ感じ方次第なので、結局は好みの問題でしかないのかもしれないが)。

冒頭の展開は、余程のび太が嫌いとかじゃない限りは、誰もが嫌な気持ちになるだろうと思う。「ドラえもん」で度々見られる理不尽事の中でも、その刺激は随一レベルと言って良さそう。
そこから復讐に移る流れ自体は良い。最も求められる流れは「疑いを晴らす」というものであるが、そうでなくても何かしら痛快な復讐劇が期待される中でスネ夫が受けた報復は「ジャイアンに殴られる」のみ。疑いが晴らされていないから根本的解決になっていない上、実際に行われた復讐もカタルシスもなにもあったものではないのだ。

その後の流れも大いに不満ありだ。
スネ夫への復讐が終わった後のび太は、ママへの復讐をしようとする。
しかし、ここでドラえもんは「家族の間でそんなこと…」と今一つよくわからない理由で咎め、実際に復讐の実行役にさせられるとさらに怒る。
考え方にもよるが、冒頭の展開で最も問題があるのはある意味、ママだ。のび太が怒るのも、復讐したがるのも、至極当然のことだ。それなのに、ドラえもんが怒るというのが納得がいかない。
この話は、調子に乗ったのび太が最終的にしっぺ返しを受けるという「ドラえもん」の中ではお決まりのオチになっているのだが、この「ママへの復讐」が、しっぺ返しに向かう中でののび太の最初の悪事のように描かれているのが非常に気に入らない。
そしてここでもママが受けた報復はお花をメチャメチャにされただけで、こちらもこちらで全く根本的解決になっていないのだ。

それ以降の展開は、冒頭のスネ夫の展開はほぼ無関係になり、復讐の矛先がジャイアンに向かうことになる。例の展開はあくまで導入であり、話としては寧ろこちらが本題であるとも言える。ここではあまり特筆すべき点がないというか、言っちゃえばその導入部分に不満がありすぎてそれ以降の内容が頭に入らないというか。
無関係な人たちも巻き込んだのび太が調子に乗っていたのは間違いなかろうが、いかんせん導入部分の展開が可哀想すぎるせいで、オチのしっぺ返しがしっぺ返しに見えないという問題がある。

加えて、内容と直接は関係がないものの、この作品が掲載されたのが「小学六年生の3月号」であることも引っかかる部分である。
これが最終回というわけでは勿論ないが、とある一連の作品群にて、この話が最後にくるようになっているのは間違いなく、これが最後に読んだ「ドラえもん」だという読者も少なくはないはず(「学年繰り上がり収録」を採用している藤子・F・不二雄大全集の「ドラえもん」でも、7巻の最後に収録されているのがこのエピソードになっている)。
小六の3月号というのは、これから中学生になる読者が小学生で最後に読む学年誌であり、そこに掲載される「ドラえもん」もやはりそこを意識して読者へ未来に向けたメッセージがこめられたエピソードが掲載されることが多いというのはファンの間では有名だろう。「のび太もたまには考える」や「具象化鏡」など、具体例を挙げればわかりやすいと思う。そのエピソードがこの後味の悪い「チューシン倉でかたきうち」だというのが、残念感を加速させている。
個人的にも、エピソードの中に納得のいかない部分があっても、それより後のエピソードに何かしら良い描写があればある程度気持ちが浄化されることがあるのだが、「チューシン倉でかたきうち」ではそういったある種の"逃げ場"もないのだ。

以上、ざっと書いてみた。不快ポイントはほぼ前半のみに固まってはいるが、それでもやはりなんというか「ドラえもん」という作品の悪い部分を集約したような内容になっており好きになれないし多分今後も好きになることはない。
この「チューシン倉でかたきうち」が、悪い意味で話題に上がっているところは、比較的よく見かける。私の感じ方が異端だということはないはず。

長々と書いていつつ、改めて考えると、この回は少なくともてんとう虫コミックス全45巻中には収録されていない。藤子・F・不二雄先生がもう少し長生きされていれば、さらなる続刊に収録されていた可能性も否定はできないが、結果的には収録されていない。(基本的には)F先生自らが厳選したエピソードを収録しているてんコミにてこの回が外されているということは、F先生にとっても"そういう回"だったのかもしれない。
(それだけに、2014年に「ドラえもんプラス」6巻にこの回が収録された時には「なんでよりによって…」という気持ちがあったし、当時も今も「ドラえもんプラス」シリーズの6巻以降の続刊に対する怪訝な感情が消えない一因になっている)

しかしながらこの回は、内容の不快感は別として、話としてはよくまとまっていると言わざるを得ない。ドラえもんではてんコミ未収録作品を中心に、オチが弱いなど話としての完成度が今一つなエピソードもちらほらあるが、この回にはそういう弱みは感じられない。テンプレ的展開についても言い換えれば「王道」で、安定した内容とも言えるのだ。「忠臣蔵」を「ドラえもん」に置き換えてなぞった展開が秀逸だという声も聞いたことがある。だからこそ、「ドラえもんプラス」6巻に収録されたのかな、とも思う。

「ドラえもん」の漫画作品は1000話以上あるんだから、1話くらいはこういう回があったっていいのかもしれない。それはそうだが、個人的に恐れているのが(と言うのも大袈裟だが)、わさドラでアニメ化される時が来ることである。わさドラの歴史も長いが、今のところ「チューシン倉でかたきうち」はアニメ化されていない。
しかし、私の認識が間違っていなければ大山ドラでは2回アニメ化されているし(大山ドラも長い歴史の中で1回しかアニメ化されていない原作や全くアニメ化されていない原作など様々なので、複数回アニメ化される原作は優遇されている方であると言える)、プラス6巻にも収録され(てしまっ)ているので、数ある原作短編の中でも比較的目立つポジションにいると言って差し支えない。そのため、いつアニメ化されてもおかしくはない。
しかし、やはり漫画とはいえいささか刺激が強いのも確かなようだし、アニメスタッフもわざわざこの回を選んでアニメ化するというのを避けてるんじゃないかという気もしている(単なる気のせいで、そのうち普通にアニメ化されるかもしれないが)

果たしてどうなるか。