(↑ WDWのAnimal Kingdom@米国フロリダにて2024年9月5日撮影
※記事内容とは関係ありません。)
少し前まで猛暑日があったので、もう10月に入ったとは思えません。しかも、今日はまた真夏日...(^^; 複数の台風の動きも気になるところです。
今回は、2024年9月26日付東京新聞朝刊の「論壇・時評」欄に記載された中島 岳志氏(東京科学大学*教授・政治学者)の寄稿文「異なる見解に互いに耳傾ける」(サブタイトル「星野智幸のリベラル批判」)を紹介します。
(*旧東京工業大学と旧医科歯科大学を統合し、2024年10月1日に設置されたばかりの国立大学法人。)
因みに、当欄は8月末までは夕刊に掲載されていたコラムですが、東京新聞が夕刊の配達を廃止した(東京23区を除く)ことに伴い、9月から朝刊に掲載されるようになりました。
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8月27日の「朝日新聞デジタル」に、作家の星野智幸による「言葉を消費されてー『正義』に依存し個を捨てるリベラル」と題した文章が掲載された。この文章をめぐってSNSを中心に賛否が湧き起こり、大きな話題になった。
星野は、政治や社会を語る言葉が「敵か味方かを判断する材料でしかなくなっている」と言う。本来、政治の言葉は、異なる価値観を持つ者が、社会を何とかやっていくための橋渡しをするものである。なのに、「共感する者同士の居場所」を構成する存在になっており、むしろ社会の分断を加速させていると指摘する。
星野は、日本の右傾化に懸念を表明し続けてきた。経済が低迷し、承認のリソース不足が深刻になる日本社会で、「普通の人」だと思ってきた人たちが、生まれによって自己の尊厳を保証するナショナリズムに寄りかかる。その先に外国人への排他的な言説が生まれてくる。
一方で、リベラルを自任する人たちは、絶対的な「正義」に依存し、自分たちこそが「正しさ」を担っているという自意識を強く持っている。両者は、イデオロギー的には対立するが、態度としては同根の存在である。
「日本人」依存者と「正義」依存者。両者はそれぞれ「自分たちが断罪されることのないコミュニティーを作り、排外主義的な暴力によって負った傷を癒している」。このような状況が「居場所」の「無謬(むびゅう)化」を生み出し、対話を阻害している。
これは本来の民主制ではない。民主制の重要なポイントは、考えの異なる人間が、社会を維持するために互いに耳を傾け、意見を調整しながら秩序を構成していくことにある。「政治とは、自分たちの正しさ競争ではなく、話し合いで合意するための手段である」
以上のような星野の見解を、私は強く支持する。それは、私が「リベラル保守」という立場をとることと、強くつながっている。
保守思想の根本には、懐疑的人間観がある。どれほど頭のいい人でも、世界全体を正しく認識することはできず、たびたび判断ミスをする。どれほど性格がいい人がいたとしても、心の中から一切のエゴイズムや嫉妬心を取り去ることはできない。人間は決定的な限界を抱え込んだ不完全な存在である。
そんな人間は、どうしても完成された社会を作り上げることができない。理想社会の設計図を描き、その実現のために極端な社会改造や革命を遂行しようとする人間に対して、保守は「理性への過信」を見いだし、冷水をかけてきた。それよりも歴史の風雪に耐えて残ってきた庶民の英知(良識や経験知)に依拠しながら、漸進的な改革を進める。無名の死者たちが伝えてきた暗黙知を大切にしながら、永遠の微調整をやっていくしかない。これが保守の社会認識である。
保守の懐疑的人間観は、当然のことながら、自分自身にも向けられる。自分が主張していることの中にも、誤謬が含まれているのではと疑う。そして、自分とは異なる見解に耳を傾け、そこに一定の理があると考えれば、合意形成を行う。これが保守政治のダイナミズムである。
だから保守はリベラルでなければならない。不完全な人間が無謬のコミュニティーなど構成できるわけがない。自己の能力の限界を常に反省的に見つめ、繊細な微調整を続ける。そんな日々の積み重ねの上に、個々人が幸福を追求する社会基盤が形成される。
しかし、星野が指摘するように、近年では、自称「保守」も、自称「リベラル」も、無謬の正しさを所有していると考え、異論を攻撃する。異なる見解の者による議論や合意形成が成り立たない。これは保守でもリベラルでもない。
星野は、そんな言語空間に呑(の)み込まれたくないと言う。そして、「他人に通じるかどうかも定かでない、究極の個人語」による「文学」に未来を託すしかないと言う。
文学の力を信じる私も、その通りだと思う。しかし、まだ政治の言葉をあきらめたくない。何とかねばり強く、社会の安定と合意形成を追求してみたいと思う。社会が決壊しないために。
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(※文中の段落分け・太字化・紫色の着色化はブログ管理人によります。)
なお、星野氏のくだんの記事(中島氏の文章内↑で紫色に着色した部分に相当)は、2024年8月27日付の「朝日デジタル」の記事「言葉を消費されて 『正義』に依存し個を捨てるリベラル 星野智幸」で読めます。(※有料記事なので、無料で読めるのは前半だけです(^^ゞ)
中島氏のまとめによる星野氏の主張と、それに関する中島氏の見解と、私は両方に頷きながらとても興味深く読みました。ここ10年ほど、特にコロナ禍以降、世界中で加速するグローバリズムと全体主義の浸透を感じるにつけ、右とか左とかの従来のイデオロギーの定義やそれに基づく概念では社会的事象を説明できなくなってきたことを、痛感するようになったからです。ネオコンとは? 保守と右翼の違いは? ナショナリズムと愛国主義の違いは? そもそも保守とは?リベラルとは? さらに、コロナ禍で得るようになった情報がきっかけとなり、自分の世界観や歴史観などがひっくり返ってしまったため、自分自身の思想的立ち位置もわからなくなってきていたのです。でも、この文章を読んで、モヤモヤしていたイデオロギーの定義への疑問や自分の立ち位置を整理してもらえたような気持ちになり、また、中島氏には勇気と希望を与えてもらいました。
一方で、この「異なる見解を排他し、合意形成ができない」というのは、政治的イデオロギーの「保守」vs.「リベラル」の構造だけのことではないとも思います。新型コロナの感染がピークだった頃の「マスク必要派」vs.「マスク不要派」や、現在も続く[mRNA]ワクチンを巡っての「ワクチン肯定・推進派」vs.「ワクチン懐疑・反対派」などの構造にも当てはまると思うのです。わかりやすいように、下記の星野氏のくだりを書き換えてみますね。
「日本人」依存者と「正義」依存者。両者はそれぞれ「自分たちが断罪されることのないコミュニティーを作り、排外主義的な暴力によって負った傷を癒している」。このような状況が「居場所」の「無謬(むびゅう)化」を生み出し、対話を阻害している。 ↓
「マスク/ワクチン」依存者と「反マスク/反ワクチン」依存者。両者はそれぞれ「自分たちが断罪されることのないコミュニティーを作り、排外主義的な暴力によって負った傷を癒している」。このような状況が「居場所」の「無謬(むびゅう)化」を生み出し、対話を阻害している。
少なくともワクチンを巡っては、現在もまさしくこうなってはいませんか? 本来なら、どちらが正しいとか望ましいとかの問題ではなく、個々の自由な意思選択や個々同士の意見交換に開放されてしかるべき問題が、同志同士で(特に少数派では)肩を寄せ合うことを余儀なくされ、相(あい)対する立場や意見の間では耳を傾け合わないだけではなく、対立し合い、交わることができないばかりか分断が進んでしまった...。問題が健康や安全、ひいては命に関わる問題なので、双方の立場ともに考え方に余裕がないというか、切迫しているというか...。前例やエビデンスが少ない問題に直面したため、自分の主張の明確な根拠を示すのが困難で仮説に基づいて推測するしかないので、考え得る手段でとりあえず自分の立場や威信を守ろうとしているかのようにも見えます。具体的には、同じ意見の総量で相手を圧倒しようとしたり、総量を補うために強い言葉やときには暴言で相手を威圧したり、自ら思考する代わりに専門家と称する人の意見を借りたり、「医学的」とか「科学的」という言葉を振りかざすことで非専門家の言動を蔑視・排除したりと...。あるいは、自分の見解や選択が正しいと思い込んでしがみつくことでしか、不安や恐怖から逃れられない状態なのかもしれません。それほど、どちらのサイドも追い込まれているのかも...。いずれにしても、どちらか一方に非があるということではなく、双方に見えるそういう状態が分断を加速化してしまった気がするのです。
そして、この分断する状態は、双方が重要なことを見落としている or 忘れている or 無視していることから起こっていると私は思います。敵は「意見の異なる相手」ではなく、ある問題について国民が敵対し分断することを望み喜んでいる「権力者」であり「受益者」であること...。双方の意見は反対でも、状態の要因の本質は共通しています。星野氏が「両者は、イデオロギー的には対立するが、態度としては同根の存在である」と言っているくだりと構造は同じですよね。でも、分断が進むと、中島氏の言うところの「社会の決壊」が起こってしまいますよね。そして、日本社会の決壊を歓迎するのは、それを虎視眈々と狙っているグローバリストや全体主義者ではないでしょうか。ワクチンは、権力者や受益者にとっては統治の手段の一つでしかないとも考えられないでしょうか...。
こう考えてくると、政治的イデオロギーやら社会的問題やら、おしなべて大きな国民的問題に直面したときに国民が向くべき方向は、同志コミュニティーへの内在化や内面化でもなく、対立するコミュニティーへの排他化でもないことがわかりますよね。その問題について、国民が分断することを喜ぶのは誰かを考える...その誰かの術中にはまることなく、自分や社会を守るためにはどうしたらよいかを考える...。それが社会の未来のための思考の方向ではないかと私は思います。
若干悲観的で自棄的な星野氏の見解と、少し前向きな中島氏の見解とを読んで、私はそんなことを考えました。みなさんはいかがですか? ようやく秋の夜長になりつつある今日この頃、モヤモヤしながらも考えるのを先送りにしている問題などを、じっくり考えてみてもいいかもしれませんね。それには、読書、そう、星野氏が言うところの文学に勤しむのもいいかもしれません。中島氏の方向ならば、政治的、社会派の文献に取り組むのもよいかもしれません。哲学書などを紐解くのでも...。決して読書に逃げ込むのではなく、思考のヒントを得るために...そして、できればその先に、読後感などを交換し合える場があることを願いつつ...(^^)v
...っと、記事の締めまで書き上げ、いよいよアップしようとしていたとき、本日10月2日付東京新聞朝刊の「本音のコラム」欄に載った斎藤 美奈子氏のコラムに目が留まりました。”時の人”である石破 茂新首相についての投稿ですが、「保守」についての言及やくだんの中島 岳志氏の名も出てくるので、一緒に載せておきます。長くなって申し訳ありませんが、もう少しご辛抱を......m(__)m
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外様首相の前途多難 斎藤 美奈子(文芸評論家)
意外な結果の総裁選を経て石破茂新政権が発足した。と思ったら何よ、もう解散総選挙!?
8月に出版された石破氏の著書『保守政治家 わが政策、わが天命』(倉重篤郎編)はなかなか興味深い本だ。この本には「保守とはリベラルのことである」という一章が設けられている。
保守の本質は<相手の主張に対して寛容性をもって聞く、受け入れる度量を持つ、という態度>で、<いわゆる右寄りの主張を声高にする立場の人々は、本来は「保守」ではなく「右翼」と呼ばれるべきものだと思います>と述べる石破氏は、保守リベラリストとして短命に終わった政権の首相・石橋湛山とアフガニスタンで銃弾に倒れた医師・中村哲氏の名前をあげ、政治学者の中島岳志氏や音楽プロデューサーの松尾潔氏や経済思想家の斎藤幸平氏らの言葉に真摯(しんし)に耳を傾ける。
強力な9条改憲論者である点はどうしても相容(あいい)れないものの、総選挙中に公言した日米地位協定の見直しや防災省の創設や選択的夫婦別姓の推進などは単なる思いつきではなく、主張はむしろ野党支持者に近い。
代表選で野田佳彦氏を選んだ立民は相当厳しいぞ。とは思ったが、石破新首相の当面の敵はいまや「右翼」の巣窟と化した党内だろう。前言を翻しての早期解散は前途多難の証拠。新政権は脱アベ政治に舵(かじ)を切れるだろうか。
(※段落のブロック分けと文章中の文字の太字化、及び、貼ったリンクは、ブログ管理人によります。)
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実のところ私は、日米地位協定とその協議機関である日米合同委員会によって米国に首根っこを押えられている限り、誰が首相になっても日本は変わらない、変われないと思ってきました。政権を変えてもだめなら、国民自身が変わるしかない、そう思ってきました。だからこそ、ブログでこんなことを長々と書いたりしているのですが...(^^;
それはさておき、ですので、石破さんに期待はしていないというのが本音ですが、この斎藤さんの見方が的を射ているとしたら、石破さんのお手並み拝見!といきたいところです。リベラル保守の政治家として右翼とは一線を画し、日本の政治中枢の右傾化に歯止めをかけることができるのか...少しだけ楽しみになってきました(^^)v 「聞く、聞く」と言いながら実際は全然そうではなかった前首相とも一線を画し、ぜひ異なる意見も聞いて受け容れていただきたいものですね。
最後まで愚考におつき合いくださり、誠にありがとうございましたm(__)m
石破さんとは同世代、結婚した年も同じなんだw(☆o◎)wのtakuetsu@管理人でした。
やはりそうですか...自国のトップに対し、相対的に「マシ」としか評価できないのが残念なことではありますけれどもねぇ。
見守るしかないですよね(^^;
外様であることがどれほど不利であるのかよくわかりませんが、外様だからこそできる動きもありそうです。暴れぶりを見せてもらいたいですね。
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で、文章が長かったんで読むのに1週間もかかりましたよ。
って、投稿してまだ2日でしたね。
すいません、嘘つきやした f(^^;;;
どんな考えにしろリトマス試験紙的、
赤か青かで紫のような中間値が無いんですよね。
しかも重さと長さのように比べられない物同士を比べようとして
ああでもないこうでもない。
コロナ騒ぎだと、
やらないよりやった方が良い、
でもやって良かったかどうかは検証せず押し付ける。
集団免疫にしてもワクチン打たない人達をタダ乗りだのなんだのと非国民扱い。
ワクチンだけが集団免疫貢献するわけではないのに。
打て派の大半も海外渡航可能回数の3回で終わってるみたいだし。
※
それにしても『だらし内閣』とは良く言ったもんだなと感心。
>で、文章が長かったんで読むのに1週間もかかりましたよ。
>って、投稿してまだ2日でしたね。
>すいません、嘘つきやした f(^^;;;
いいですね~、ブラックジョーク! 可愛い嘘も許しちゃいます(^^)v
いやいや、まずはお礼を申し上げなくては...よくぞお読みくださいました👏
『だらし内閣』にも👏ですね(^^)v
それにしても、私はいまだに文章の「引き算」が下手くそ。逆にどんどん「足し算」しちゃう。ダメだな~(^^ゞ
ボッケニャンドリさんのように、簡潔な文章で、しかも8割くらいを語って、残りの2割をヒントとして敢えて残し、読者が考えられるように誘導する(ご本人にその自覚があるかどうかはわかりませんけどね(^^;)ような文章が書けたらいいのになぁ。
私はこらえ性がないので、10割、いえ、不必要部分も含めてもっと語っちゃうんですね(^^; とほほ。
>どんな考えにしろリトマス試験紙的
ほんと、中間値がなく両極端ですよね。論点のずれた変な比べっこも。だから相容れない。
うちの娘(愚息に対応する娘版がないのはなぜ?)に言わせると、ドイツではほとんどの人が3回で終わりだったみたいです。
日本でも途中で止めた人が多そうですが、逆にしっかり7回打ってる人も結構周りにいます。高齢者ですけどね(^^ゞ
愚夫は無いけど愚妻ってのがありますけど(^^;;;
ほ、ほんとだ~w(☆o◎)w
愚息、愚妻の共通項は、「男中心」だということ?!
我が子について語るときは、女である娘は眼中にないから。たぶん、男社会だから(^^;
男が奥さんについて語る言葉はあっても、逆はない。たぶん、男社会だから(^^;;
つまり、これらの言葉が作られた頃の社会が、今よりもっと男社会だったことに起因する?!
な~んて、これこそ、私の邪推による愚考でしたね(^^;;;