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新聞記事より ~いじめは「みんな」の問題~

2019年11月18日 | 雑記

 2019年11月10日付東京新聞朝刊の「時代を読む」欄に掲載された記事を紹介します。関西学院大学准教授の貴戸 理恵氏のコラムです。

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いじめは「みんな」の問題 

 神戸市・東須磨小学校の教員間いじめが世間に衝撃を与えている。「激辛カレーの強要」「被害者の車の屋根に土足で上がる」など明らかになった加害行為の俗悪さに、教師としての資質を問う声が大きい。被害者の受けた損害や当該小学校の子どもたちへの影響を思えば、一市民としての怒りはある意味で当然である。

 一方で、制度としていじめの改善に取り組むならば、「高潔な人格であるべき先生が」と教師の聖性を強調したり「絶対にあってはならない」と加害者を悪魔のように見なしたりする態度は、かえって現実を見る目を曇らせかねない。
 残念ながら教師もただの人間であり、暴力的になることがある。「どこでも起こりうる」ことを念頭に置くと、構造的な問題が見えてくる。

 社会学のいじめ研究では「なぜ暴力が起こるのか」ではなく「なぜ多くの場合、暴力は問題にならずに済んでいるのか」と問う。人間は不完全だから、暴力はいたる所で起きる。だが、通常なら周囲の人たちが止めに入るのですぐに収まる。レストランで嫌がる客に無理やり食べさせたら、店員や他の客が「何をするのか」と飛んでくるだろう。道ばたで他人の車の屋根を踏む者があれば、誰かが通報するだろう。逆に言えば、暴力が継続し、エスカレートするのは、誰も止めに入らない・入れない場合である
 つまり「個々の悪質な加害者」に焦点を当てるのではなく、それに適切に介入し、制裁を加えることができない「場の機能不全」を問題化するのだ。いじめを「教室の病」だと喝破した社会学者の森田洋司氏は、いじめを「被害者」「加害者」「観衆」「傍観者」の四層で捉え、中でも「傍観者」の役割を重視した。多数派でありながら何もしないことで、結果的に加害行為を後押ししてしまうためだ(『いじめ 教室の病い』)。
 被害者が「いじめ」を言葉にするには、いくつものハードルがある。周囲への不信感や加害者に対する恐怖、「自分はいじめられるような存在ではない」というプライドなどにより、嫌だと思っていても言えないことは多い。指導と暴力、親密さと悪質さが併存しているようなケースでは「嫌と感じてよいのか」がそもそも曖昧である場合もある。
 だから、いじめを継続させないためには、多数派である周囲の反応が重要になる。「自分には関係ない」「被害者が何も言っていないし」と見過ごしていると、「この程度はOKなのだ」と加害者は後押しされる結果的にいじめはエスカレートし、人権感覚に極めて乏しい「場」がつくられる。被害者にとっては、加害者はもとより、周囲がいじめを容認しているように見えることも、深い絶望と人間不信の源泉になる。

 今回の事例に戻ろう。なぜこれほどの加害行為が、被害者の教員が体調を崩して授業ができなくなるまで、野放しにされたのか被害者や助けようとする同僚の声は、いかに黙殺されたのかその経緯が丁寧に明らかにされなければならない加害者を罰して済む問題ではない

 たとえ暴力をゼロにすることが難しくても、「暴力を許さない環境」はつくっていけるそれをつくるのは、被害者ではなく社会に生きるすべての人びとの務めである

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 (※文中の段落のブロック分けと太字化は、ブログ管理人によります。)

 

 ご清聴?ありがとうございましたm(__)m

 

 


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