2019年11月10日付東京新聞朝刊の「時代を読む」欄に掲載された記事を紹介します。関西学院大学准教授の貴戸 理恵氏のコラムです。
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いじめは「みんな」の問題
神戸市・東須磨小学校の教員間いじめが世間に衝撃を与えている。「激辛カレーの強要」「被害者の車の屋根に土足で上がる」など明らかになった加害行為の俗悪さに、教師としての資質を問う声が大きい。被害者の受けた損害や当該小学校の子どもたちへの影響を思えば、一市民としての怒りはある意味で当然である。
一方で、制度としていじめの改善に取り組むならば、「高潔な人格であるべき先生が」と教師の聖性を強調したり「絶対にあってはならない」と加害者を悪魔のように見なしたりする態度は、かえって現実を見る目を曇らせかねない。
残念ながら教師もただの人間であり、暴力的になることがある。「どこでも起こりうる」ことを念頭に置くと、構造的な問題が見えてくる。
社会学のいじめ研究では「なぜ暴力が起こるのか」ではなく「なぜ多くの場合、暴力は問題にならずに済んでいるのか」と問う。人間は不完全だから、暴力はいたる所で起きる。だが、通常なら周囲の人たちが止めに入るのですぐに収まる。レストランで嫌がる客に無理やり食べさせたら、店員や他の客が「何をするのか」と飛んでくるだろう。道ばたで他人の車の屋根を踏む者があれば、誰かが通報するだろう。逆に言えば、暴力が継続し、エスカレートするのは、誰も止めに入らない・入れない場合である。
つまり「個々の悪質な加害者」に焦点を当てるのではなく、それに適切に介入し、制裁を加えることができない「場の機能不全」を問題化するのだ。いじめを「教室の病」だと喝破した社会学者の森田洋司氏は、いじめを「被害者」「加害者」「観衆」「傍観者」の四層で捉え、中でも「傍観者」の役割を重視した。多数派でありながら何もしないことで、結果的に加害行為を後押ししてしまうためだ(『いじめ 教室の病い』)。
被害者が「いじめ」を言葉にするには、いくつものハードルがある。周囲への不信感や加害者に対する恐怖、「自分はいじめられるような存在ではない」というプライドなどにより、嫌だと思っていても言えないことは多い。指導と暴力、親密さと悪質さが併存しているようなケースでは「嫌と感じてよいのか」がそもそも曖昧である場合もある。
だから、いじめを継続させないためには、多数派である周囲の反応が重要になる。「自分には関係ない」「被害者が何も言っていないし」と見過ごしていると、「この程度はOKなのだ」と加害者は後押しされる。結果的にいじめはエスカレートし、人権感覚に極めて乏しい「場」がつくられる。被害者にとっては、加害者はもとより、周囲がいじめを容認しているように見えることも、深い絶望と人間不信の源泉になる。
今回の事例に戻ろう。なぜこれほどの加害行為が、被害者の教員が体調を崩して授業ができなくなるまで、野放しにされたのか。被害者や助けようとする同僚の声は、いかに黙殺されたのか。その経緯が丁寧に明らかにされなければならない。加害者を罰して済む問題ではない。
たとえ暴力をゼロにすることが難しくても、「暴力を許さない環境」はつくっていける。それをつくるのは、被害者ではなく社会に生きるすべての人びとの務めである。
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(※文中の段落のブロック分けと太字化は、ブログ管理人によります。)
ご清聴?ありがとうございましたm(__)m