山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

慶長の仮東海道(1)

2024-08-14 11:04:46 | エッセイ

 本年1月の「おはようハイキング」で中央公園から矢倉山の道を歩いた。報告(『やまびこ』№274)で、江戸初期慶長9(1604)年の大井川氾濫により壊滅的な被害を受けた島田宿が、大津野田前(元島田)に移転し、同時に東海道も洪水後11年間、北側の山沿いを通る仮街道が設けられたことを記した。この「慶長の仮東海道」について、島田宿・金谷宿史跡保存会刊行の『東海道 島田宿の歴史』(2016年・大塚淑夫)を拠り処として、もう少し詳しく紹介したい。

「慶長九年秋七月大井川は未曾有の大洪水で沿岸の村落被害絶大と云う状態であった。先ず神座村の如き平地を流亡し、室谷、笹ヶ窪などこの水害に依って山裾まで流し浚われて終わった。向谷の堤防は根底から決潰されたので、本流は伊太口から旗指、野田の南端を浸し、又一筋は水神山鼻から分離して現在の宿並を濁流の裡に没した。之が為に島田宿の駅家は悉く流亡し、難を駅北元島田へ避けたのである。白巖寺(白岩寺)山鼻に激した濁流は阿知ヶ谷村の山添を残したのみで道悦島・岸・細島・御請方面の地域は悉く濁中に没し惨状は古今絶した。斯くて慶長の晩年から修堤開始されたので、島田宿は元和元年から現地へ復帰し、河原へ掘立小屋を建てて駅次の御役を勤めることとなった……(後略)(『島田・六合・大津・大長 郷土史講』1936年・紅林時次郎)

慶長9(1604)年の氾濫でA流路が復活した

 この洪水により東海道は日坂宿から藤枝宿まで、北の山際を越える仮の街道が切り開かれた。遠州側の横岡から大井川を渡り、大鳥から元島田までは、北側の丘陵地を上り下りして仮の島田宿駅施設が設けられていた元島田の長谷川代官所(現島田北幼稚園付近)へ。その先は大谷の峠を越え東光寺村に下る「東光寺道」と、白岩寺山の鞍部(切通)を越えて金谷沢を阿知ヶ谷村に下る「金谷沢道」の二つのルートがあったという。これらのルートは、仮設の街道とはいえ急遽造られたものではなく、中世以来使われていた古い東海道を利用したものだったと思われる。

「或云。河西横岡村より大堰川(おおいがわ・大井川)を越て、大鳥(おおとり)に上り得川(とくがわ)・居守(いもり)・二の澤等の山路を経て、道人沢(どうにんさわ)より三社の上乾沢口(からさわぐち)に下り、それより初指原(はっさしばら)(是までことごとく伊太村の小地名なり)をすぎて山路にかかり、七兵衛原(しちべえばら)に到る。旧(ふるくは)ここに茶店あり。(いま西茶屋窪、東茶屋窪の小地名存せり。これこの遺跡なり云々)
 これより東に下り、また河原に出る。ここを片瀬(かたせ)という(大井川ここに流れるなり)。この所を渉りて西野田方薬師前(鵜田寺前)より北に入り、友形(ともかた・供方)の渡しを越し、神明山(しんめいやま)の麓を廻り、大谷(おおや)に入る(このところに焼餅窪(やきもちくぼ)の小地名あり。これは昔ここに茶屋ありし遺跡なり)。行くこと三、四町ばかりにして坂を越し、東光寺村(とうこうじむら)に至り、村中を南に過ぎて東の方登々理沢(ととりさわ)の谷に下り、また坂路(東光寺村、御林ある地を云うなり)を過ぎて峠に至り東に下る。このところ稲葉村南の谷と云へり。ここより南に向かいて堀の内村に出て獅子ヶ鼻を過ぎ、瀬戸川を渡り藤枝驛の本町に出るなり。」
 又云。「金谷より河原に出て大堰川(大井川)を渉り、島田に上りて、東の方二俣と都智山(とちやま)、白厳寺(黄檗・おうばく)山の際の山(ここを切通しという、これは大井河当山に添て渉り難し、故に開発(ひら)く処なり)を越えて阿知ヶ谷村に到り、金谷沢(かなやさわ・一名稲荷ヶ谷)を通り、薬師前に出、岸村の山根をすぎ内瀬戸村神明(社領三石五斗・神主岩本氏)前より、田の谷口(殿海道・上町屋・下町屋などの小地名この際にあり)の山路を経て、今の往還六地蔵の前に出て藤枝に到る。」(金谷沢より上海道を経て東光寺の登々沢に至るも順路なり)(『駿国雑誌』1843年)

仮東海道の島田内のルート

 上記のルートを現在の地形図に落としたものが掲示した地図となる。島田宿が東海道宿駅として指定された(1601年)当時の大井川渡し場は、現在川越遺跡がある河原町先ではなく、向谷水神山下付近であった(そこから島田宿へは、現向谷街道の元となる道が使われた)と推定されているが、慶長9年の大洪水により「天正の瀬替え」(1590年)以前の流路となった大井川は、向谷の堤防を決壊させ、流れの北側は伊太口から旗指、野田の南端(現元島田)を浸していた。このため仮東海道の渡渉地点は、水神山北側の大鳥を中心とした地点となった。ここから天神原の丘陵を越え伊太に入り、現斎場入口辺りから再び山路を越え静居寺谷へと下る。当時、静居寺の谷口は沢が大井川の堆積土砂で塞がれ、大きな澱みとなって平地の通行は不可能だったため、東の尾根の山裾を南端の初指原(現敬信寺、法幢寺の辺り)へとトラバースし、さらに金子沢(かねこざわ・現法幢寺東側)を上り七兵衛原へと至っていた。七兵衛原は現島田第二中の裏山で、1月のおはようハイクで中央公園から上がった尾根の南端に当たり、また2015年の忘年山行ではここを通っている。現在は茶畑となっているが、仮東海道の通った頃には原の東西に茶屋もできていたのだという。2016年には「島田宿・金谷宿史跡保存会」の大塚淑夫氏らの現地調査で、一里塚の存在が確認されている。
 七兵衛原から二中体育館の裏手(茶畑に上る急傾斜の農道が付いている)に出た仮東海道は、附属島田中、島田第四小の北側(片瀬)を通り、島田宿駅となった南野田の長谷川代官所前に至った。因みに洪水によって移ったのは島田宿だけでなく、大井神社も遷座している。洪水当時、下島(現御仮屋)に鎮座していた「大井大明神」は流失を免れたが、祠を野田山山頂の「大井の段」に一時避難させた。この登り口に沿った沢は、現在も御手水ヶ谷(おちょうずがや)と呼ばれている。五代に亘って島田代官を勤めた長谷川家の屋敷は、当初は大津大草にあったが、初代代官となった長谷川藤兵衛(とうべえ)長盛(ながもり)の時に、屋敷兼役所を野田と元島田の境に移した。長盛の子・長谷川藤兵衛長親(ながちか)によって元和2(1616)年、島田宿四丁目北裏(現柳町)に島田代官所(御陣屋・ごじんや)が建てられるまで約27年間、野田に代官屋敷が置かれていた。これは天正の瀬替え以前の中世東海道が、北部の山間を越えていたことを示すと共に、島田宿の前身として元島田が在ったことが分かる。
 仮東海道は長谷川代官屋敷前で二手に分かれる。北順路となる東光寺道は、代官所から大津道を北上し友形の渡し(現供方橋)で大津谷川を渡り、上野田の神明山裾を回り込みながら東進し、大谷の峠を越えて東光寺谷へ抜ける。登取沢(ととりさわ)から尾根に上がり峠を越えれば谷稲葉へ、さらに瀬戸川沿いに下って藤枝宿へと繋がっていた。この登取沢の登り口には一里塚が残っていて、先に上げた七兵衛原の一里塚との距離は、ほぼ一里となっている。谷稲葉との峠は清水(きよみず)峠とも呼ばれ、大津や東光寺の住民が藤枝の清水寺に参詣する際にも利用されたようで、当時はここにも茶屋が出ていた。この峠にもまた、かつての忘年山行(市境尾根、~双子山)の折に立っている。峠の標高は195メートルで、東光寺道はアップダウンが大きいように思われるが、島田宿に比べ北にある藤枝宿との位置関係を見れば理があるルートと思える。現在の国一・藤枝バイパスと同じようなルート取りといえる。
 もう一つの仮東海道となる南順路・金谷沢道は、都智山(白岩寺山)を越えるルートとなる。代官屋敷前を東進し、山裾を大津谷川に沿って下り現在の法信寺裏手から地蔵山、金谷沢山の鞍部(切通)に向かって上り、金谷沢を阿知ヶ谷に下る。東光寺谷川を渡って岸の丘陵部に上がり大日堂、龍江院の裏山を抜け、市境の尾根を下って瀬戸新屋付近で旧街道に繋がっていた。白岩寺山の切通は、この峠越えのために人工的に切り下げたといわれている。切通の標高は131メートル、岸の丘陵部越え最高地点が138メートルであるから、東光寺道と比べ標高差の少なさが利点としてある。また、東の焼津方面との繋がりの良さもあったかも知れない。この南ルートの岸丘陵部の尾根も、かつてのおはようハイクで歩いたことのある場所である。幾多の災害によって遮断されたかに見える道は、都度形を変えながらそれを越える地点を見つけるのである。

(2020年5月記)