山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

アカクボ沢のトチノキ

2024-06-22 11:48:51 | 山行

山住古道とアカクボ沢の栃巨木

○期 日:2003年12月10日(快晴)
○コース:浜松市天竜区水窪町・山住河内浦(8:20〜40)…鳥居橋…〈山住古道〉…二合目(9:08)…六合目(9:50)…山住峠(10:25〜30)…常光神…1108三等三角点「山住峠」(10:42)…山住峠(10:56〜11:22)…山住神社(11:25〜40)…鳥居橋(12:37)…河内浦・山住家(12:42)…駐車地(12:52)=〈車移動〉=アカクボ沢下降点(13:05)…アカクボ沢栃巨木(13:17〜27)…アカクボ沢下降点(13:40)
○メンバー:6名

山住古道(山住神社旧参道)入口

 山住(やまずみ)古道は県道・水窪森線開通以前に歩かれていた参道で、河内浦(こうちうれ)と山住神社を結ぶ距離約2キロ・標高差約550メートルの山道が、水窪のNPO「山に生きる会」によってハイキングコースとして整備された。山住アカクボ沢のトチは、河内浦からアカクボ沢を800メートル程溯った上流部に在って、目通り8.7メートル、樹高35メートル、樹齢600年で静岡県下一のトチの巨木だろうと言われている。

徳川家康の腰掛岩

 河内浦に車を置き、鳥居の掛かる山住古道入口から登り始める。九十九折の急斜面に付けられた道でザラザラとして歩きづらい。一旦県道に出るがすぐに再び山道となる。穏やかな天気であるが北斜面の谷沿いの道は陽が射さず、相変らずザラザラの急斜面で、お世辞にも快適とは言い難い。途中には「落ちない橋」と命名される微妙なバランスの桟橋があって、下りでは少しスリルを感じた。標高900メートルの六合目で尾根に出ると道幅も広くなって、やっと歩き易く、参道らしくなった。「家康の腰掛石」は山住神社と徳川家の関係を窺わせるが、他に参道を感じさせるような遺物はなかった。2時間程で山住峠へ出た。太陽の光を全面に浴びる常光寺山(じょうこうじさん)は、水窪河内川の谷を隔てて大きい。

山住峠から望む常光寺山

 今回の目的のひとつは、今までの山歩きで山住周辺を訪れて気になっていた箇所を訪れること。峠からスーパー林道を家老平(かろうだいら)方向に進むと「常光神」と書かれた標識を目にする。尾根に上がってみると祠があって、樹林の合間からその先を望むと常光寺山頂を向いている。ここは常光寺山の遥拝所だったのだろう。実際、山住神社の宮司は「常光寺山が山住神社の奥の院である」と語っているのだった。常光寺山→山住神社→竜頭山→秋葉山と尾根沿いに南下していった元々の古い信仰の痕跡が見てとれる。

 常光寺山の「光」の信仰が、焼畑農業や冶金の火と結びついて、平地に近い秋葉山の方へ集約され、長野市北方の飯綱山からもたらされた秋葉信仰(秋葉三尺坊)とが加わり、根付いたことになる。(「秋葉古道の成立過程と果たしてきた役割の研究」中根洋治ほか)

 祠から平らな尾根を少し北に行った1108m三等三角点の点名は「山住峠」、「水窪百山」の標識が掲げられていた。

1108三角点手前の常光神祠

 昼食と山住神社に参拝の後、一時間程で河内浦に下り、これも目的であった山住家に立ち寄った。城のような大きく堅牢な石垣の上に建つ山住家は、800年に亘って山住神社の神事を司ってきた名家であったが既にこの地を下りている。とは言え屋敷や庭が荒れた様子は無いのは、過日の塩の道ウォークで訪れた水窪川右岸の集落と同様に、定期的に通ってくる一族の者があってのことだろう。山住家に限らず周りに生活の気配は感じられず、もはや河内浦自体は無住の集落となっているようだ。屋敷地内には「山住大権現」を祀った社があって、修験道との関連も窺われる。また山住家は青崩峠下に鎮座する足神神社の社家・守屋氏の分家であったと言われるから、山住の信仰と遠山谷を通ってきた諏訪信仰との関係も窺われる。

山住家屋敷地内に祀られる「山住大権現」

 一旦車に戻り県道を上ってアカクボ沢のトチノキ入口に向かう。細い山道を谷底に向かって十数分ほど下ると沢の岸辺に堂々と巨木が立っていた。トチノキは日本の山村地域の暮らしを支えた重要な樹種で、実は縄文時代より食用され、材からは臼や捏ね鉢などが作られる。水窪地域にはアカクボ沢以外にもトチの巨木が何本か残り、またトチ餅も地場の名物である。「里近い栃の木は人びとに守り育てられてきたのであり、そこには栃と人の共生関係があった」(「神と自然の景観論」野本寛一)

水窪河内浦・アカクボ沢のトチノキ

 今回の番外篇では、山住・河内浦周辺の山行で気になっていたが省略してきた事象をいくつか拾うことができて、自分なりに満足した山歩きだった。

(2003年12月記)



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