江尻・三保遠望 江戸より18番目の宿
江尻は今の清水だが、静岡県の一番薄くなった部分に位置している。駿河、遠江内の東海道から北へ抜ける数少ないルートの起点の一つであり、現在では興津から国道52号線が貫かれている。この道は我々の山行においては、山梨南部の山はもちろん、南北アルプス、八ヶ岳などへ行く折に随分と利用していて、沿線の風景も馴染みのものとなった。いわば我らの山街道でもある。江尻は駿府の手前にあって、海上交通と東西ルート、南北ルートのジャンクションという、絶好のポジションにあることが分かる。湾の向うの山並は愛鷹山塊か、現代では富士の煙突群も望められるだろう。
清水とくれば今はサッカーでの知名度が高いが、それ以前は何といっても海道一の大親分次郎長だろう。次郎長一家にとっても、東海道の港湾江尻と山国甲州を結ぶこのルートは重要だったようで、ライバルの甲州・黒駒の勝蔵とは盛んに抗争を起こしている。博徒といっても一家を構えれば賭博だけで成り立つものではなく、荷役や交易など様々な利権に絡んでいたのだろう。従って彼らの活動範囲は極めて広く、現代の新聞用語でいえば「広域暴力団」の様相を示す。その広域性の故か子分達の出身地も様々である。最初の子分、桶屋の鬼吉は尾張の出で遠州秋葉山の縁日賭博で拾っているし、大政も尾張の武士くずれ、関東綱五郎は名前のとおり、法印大五郎は大阪の坊主くずれとくる。
生まれた場所と環境の中で生きざるを得ない封建社会の中で、裏街道とはいえ身軽にあらゆる道を往来する彼らアウトローたちの旅姿は、後世になってもある面で憧れであり、爽快なものとして映ったのは理解できる。秩父困民党をはじめ明治の自由民権運動に、少なからざる博徒が関わったことも故ないことではあるまい。
我らもまた道を歩く者。裏街道のさらに奥深く、獣しか通わぬ道を行くこともあるが、精神の自由さを希求することにおいては、山屋もまたアウトローたちと同じ系譜を引くのかもしれない。
(2003年7月記)
* * *
【2024年8月追記】
日本平から望む富士山
上の文で「湾の向うの山並は愛鷹山塊か」と書いたが、これがどうも引っ掛かっていた。沼津以西の駿河湾沿岸で愛鷹山が富士山の左にあることはあり得ず、そんな全くの虚構のアングルを広重が採ることは無いだろうと。もちろん、これは画の中央奥に小さくではあるが描かれた尖った峰が富士山であるという前提による。WEB上にあった幾つかの解説の中から、画の視点と背景の山に関することを拾ってみた。
○東京富士美術館
江尻は現在の清水港。中央には有名な三保の松原が見え、遠方には愛鷹山がごつごつとした山並みが見える。おそらく愛鷹山の左側には富士も見られたに違いない。
○アダチ版画研究所
江戸幕府の初代将軍・徳川家康が最初に埋葬された東照宮のある久能山から、清水港を眺望した図です。
○東京伝統木版画工芸協同組合
本来は富士の眺望が良いはずだが、意図的に外した様だ。
○文化遺産オンライン
白い船の帆や港に停泊する船のかたちが様式化され美しい。広重は高い位置から見渡すようにこの風景を描いている。
○kanazawabunko
この風景絶佳の展望は、久能山・日本平あたりからのものでしょう。(中略)遠景は愛鷹山らしい山並みの展望から霞を隔てた海上に数多くの帆影で賑やかさを見せています。
○地図から見る「東海道五十三次の旅」(Canon Creative Park)
家康の霊廟のある久能山から三保の松原を遠望した図です。左奥の山塊は愛鷹山です。本来は右手にあるはずの伊豆半島は描かれていません。
○Google Arts & Culture
遠景に見える伊豆半島は、実景では右に伸びていくはずですが、広重はこれを省略して水平線の広がりを表現しました。
まとめると、⑴左に描かれた山は愛鷹山、⑵富士山は(意図的に)描かれていない、⑶久能山・日本平辺りからの景、といったところだろうが、どうも納得がいかない。だいたい富士山の見える場所で、扱いの大小はともかくとしてこれを画の中に置かないわけがない。江尻から見える景で、シンボルチックな円錐形に描かれる山は富士山をおいて他にはない。もっと大きく見える富士山を広重が意図的に小さく(しかし中央に)置いているのは、駿河湾の奥深さと、そこを白帆を立てて進む何艘もの船を主題としたからではないだろうか。つまり海上交通の要地としての江尻の賑わいである。
三保・御穂神社から北北東方向の展望図
では、左の山並は何だったのか。愛鷹山塊ではなく、掲げた展望図に示されるように浜石岳と大丸山の山塊で間違いないだろう。浜石岳については前回(4)「由井・薩埵嶺」で述べたように、遮断性のある大きな山塊だ。愛鷹山は画では富士山右側の裾野と一体化して描かれている部分だろう。実景では、さらにその右に箱根の山並があって、伊豆半島へと続いていくのだが、これは春霞の中で見えないのだろう。波もなく穏やかでキラキラ輝いている水面は、春の海そのもののようだ。
最後に画の景がどこからのものかだが、日本平辺りからの景であるとすると、写真のように浜石岳と大丸山が富士山に被りすぎてしまい、もう少し東に寄る必要がある。また、画の家並や停泊する船の描かれ方を見ると、2、3百メートルの高さから見下ろしているとは思えない。現在の三保の地形とはだいぶ異なっているだろうが、砂嘴に囲まれた折戸湾最奥部の少しの高みからではないかと想像する。展望図は、仮に御穂神社から高度20メートルで作成したものだ。
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