山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

北八ッ彷徨

2024-10-29 08:40:00 | 山の本棚

2001年10月発行・平凡社

北八ヶ岳というと苔の森と湖沼のイメージがあるが、白駒池や北横岳あたりは今やすっかり観光地化してしまい、静寂という言葉とは少し距離があるように思える。かつての「北八ッ」の森を彷徨ってみたい、そんな好奇心から本書を手にしたように覚えている。

 南八ヶ岳を動的[ダイナミック]な山だとすれば、北八ヶ岳は静的[スタティック]な山である。前者を情熱的な山だといえば、後者は瞑想的な山だといえよう。
 北八ヶ岳には、鋭角の頂稜を行く、あの荒々しい興奮と緊張はない。原始の匂いのする樹海のひろがり、森にかこまれた自然の庭のような小さな草原、針葉樹に被われたつつましい頂や、そこだけ岩魂を露出しているあかるい頂、山の斜面にできた天然の水溜りのような湖、そうして、その中にねむっているいくつかの伝説――それが北八ヶ岳だ。言ってみれば、ドイツ・ロマン派や北欧の文学のもつ、あの透明で憂鬱な詩情に通じる雰囲気がある。八ヶ岳本峰のはげしい岩尾根の登高に、なにか喉がかわくような疲れを感じるようになったら、気の合った山仲間の小さなグループで好きなところに天幕でも張りながら、静かで大らかなこの森の山地を歩いてみよう。
 さまよい――そんな言葉がいちばんぴったりするのが、この北八ヶ岳だ。
(「岳へのいざない」1958年)*本書旧版は1960年、創文社発行

著者・山口耀久

 ところで著者山口耀久は、敗戦後間もなくから、八ヶ岳バリエーションルートの開拓と共に、時に一週間も北八ッの地に滞在し、文字どおり隈なく彷徨しているのだが、蓼科山から望月へと下ったりもしている。『北八ッ日記』によれば、八千穂大石から入山し雨池、八丁平、大河原峠までで三日遊ぶ。一日停滞の翌日、亀甲池、双子池を巡った後、再び大河原峠に戻った山口は、

――大河原峠からいつものように、ひろびろとした佐久の裾野の斜面を眺めていると、はるかに遠く、鹿曲の谷と八丁地川上流の唐沢のあいだに、カステラ色の草原がなだらかにひらけているのが目に入った。あそこに行こう! 地図をひろげて、峠から見おろす地表の細部をそれと照合しながら、ぼくと小島は、その遠い草地のひろがりに憧れを馳せた。

のである。
 前掛山から蓼科山頂をピストンした山口は、前掛山北尾根を現在地名「虹の平」に向って下る。ここから右の尾根に入り唐沢へと降り、対岸の台地に目指す草原があった。1/25000地形図「蓼科山」では「望月高原牧場」の名が記される場所だろう。そこから目と鼻の距離の森の中に、今度の定例山行の宿泊地「望月少年自然の家」がある。下見山行の朝は、賑やかなカッコウの声で目が覚めた。
(2005年7月『やまびこ』No.100)

2013年10月発行・山と渓谷社

『アルプ』のことについては、また改めて記す機会があるだろうと思う。


山を彫る(8)八島湿原

2024-10-27 17:49:00 | 山を彫る

 霧ヶ峰、ここは私にとって不愉快な、というほどではないが愉快ではない思い出のある場所だった。昭和34年、日本楽器(現ヤマハ)に入社、設計課に配属された。当然18才の私らが最年少なのだが、ほとんどが20才周辺の若者で、当時流行っていた青年活動も盛んに行われていた。
 ようやく職場に慣れてきた8月盆休に、白樺湖へキャンプに行くことになった。入社後半年も経っていない身では、登山用具などあるはずもなく、リュックザックは親戚から借りて間に合わせた。靴も、スニーカーに毛の生えた程度のものを使うしか思い至らなかった。生憎、山行の直前に台風が襲来し、少なからぬ被害が出た。中央線が不通になり、なんとか列車が動いていた飯田線を利用して長野に向かった。飯田線を全線乗った人は少ないと思うが、とにかく長い。距離的には短いのだが、スピードが遅く、豊橋から辰野までの所要時間が長いのだ。間もなく座ることができるようになったが、難儀していた子連れをみて席を譲った。それから辰野まで何時間かかったのだろう、立ちっぱなしで通した。もとよりローカル線のこと、客の乗降が結構あり、空席もでたのだが、意固地になって立っていた。山のことは、ほとんど忘れたが、飯田線を立ちっぱなしで居たことだけは、記憶に強く残る。
 二つ目は、春休みに女神湖に行った、いや、行こうとしたことである。子供の春休みに合わせて、女神湖畔にあった会社の契約保養所を予約した。家族5人がブルーバードに乗り、当時は有料の精進湖道路を通って、一路女神湖を目指す。中央道に入ると降雪に見舞われた。雪は次第にひどくなり、とうとう長坂ICで閉鎖により先へ進めなくなってしまった。ICを降りて公衆電話で蓼科荘にキャンセルを伝えたが、宿の周りは雪が深く、車を乗り入れることが困難になっているとのことで、了解してくれた。宿泊を楽しみにしていた子供をなだめるのに苦労したが、その日の夜遅く家に戻った。
 二つの愉快でない出来事のせいではないだろうが、霧ヶ峰からは、なんとなく足が遠のいていた。
 '05/6ようやく機が熟し、霧ヶ峰に行けることになった。本番は、欠席になることが判っていたので、下見に参加した。この山の周辺は、昔からスキー、スケートのゲレンデとして開発が繰り返されていたため、山登りは我々レベルでも容易だった。私にとって日本百名山の26座目となった車山を越えて八島湿原に向かう。Nhさんと私は車山湿原を迂回し、車の回送のため八島湿原入口に先回りした。軽装の観光客を後にして、木道を進んだところで目を見張った。湿原全体が見渡せ、その超明るい景観に歓声を挙げてしまった。過去の苦い思い出を吹き飛ばすのに、充分な展開だった。湿原の中央に雪山がチョコンと出ているところが特に面白い。これは画になると、直感し写真を撮った、が‥‥。
 版画にするには、画が複雑すぎた。デフォルメする才を持ち合わせないこともあり、表したかったのは原っぱなのか、雪山か、散在する樹木か、焦点がボケてしまった。でも、この明るい景色には、また会いに行きたい。
「蛇足」:本番の日、「望月青年の家」で伝説の「油虫踊り」に参加できなかったことは、今も悔やまれる。
(2010年6月、IK記)

*  *  *

八島ヶ原湿原

車山のニッコウキスゲ

望月少年自然の家でのキャンプファイヤー

【2024年10月記】

この画の元になった2005年6月の蓼科山・霧ヶ峰の下見には、いつものごとく私も同行しているのだが、この時の写真は見つけることができなかった。代わりに「蛇足」でIKさんが触れている本番(2005年7月)の写真を上げてみた。こんな感想を残していた。

「今回は特にSHCらしい雰囲気の良い山行だった、と私は感じました。それは、蓼科山に登った、ニッコウキスゲを見たということだけでなく、SHCとしての一体感、会員同士の親近感を一層増すことができたからでした。これは何と言っても、キャンプファイヤーを演出してくれたOh君の手柄によるところ大でした。山はもちろん素晴しく、感動も多い。それに併せて、山を通じ人と触れ合い交感できることが、なお喜びを倍加させると思うのです。私はこの世でたった一人であるとすれば、おそらく山に登ることはないと思っています。」(2005年8月、会報『やまびこ』No.101)

本年9月、会山行で再び望月少年自然の家に泊った(本ブログ『事始めとなった八ヶ岳』)が、あの時の殊勲者Ohは既に鬼籍に入り、幻の「油虫」が再現されることはもちろん無かった。IKさんの「八島湿原」(八島ヶ原湿原)の画の明るさは、会のまだ青年期だった頃の活力に満ちた心持ちを映しているようにも感じた。

事始めとなった八ヶ岳 - 山の雑記帳

西天狗岳より東天狗岳を望む2024年9月28日/唐沢鉱泉〜西天狗岳9月の会定例山行は、望月少年自然の家に宿泊し初秋の北八ヶ岳を楽しむ。天気は当初の雨天予報が良い方向に転...

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山を彫る(7)鳥海山々頂への道

2024-10-25 16:35:50 | 山を彫る

 ようやくたどり着いた御室小屋の脇、建物を風雨から護る石垣の傍らにザックを置き、これから山頂を往復する。岩場では、ストックは邪魔になるから持たないようにと指示があった。杖に頼ることが多くなっている私には不満だったが、言葉に従うことにした。トップを行くThさんは、奥さんの出身が山形県温海町であるということもあって、何回も登っていると聞いていた。足場が悪いので自信の無い人は見合わせるようにとの呼びかけがありAkさんが手を挙げ待機を宣言する。いよいよ山頂を目指して出発。直ぐに、大きな岩塊をへばりついて上り始めたところでMtさんがリタイヤ。道はますます険しくなっていく。Thさんは、当時小学生だったお子様を連れて登ったとも言っていたが、この道については何も語っていない。子供でも登れるんだからと、油断していた部分もある。正直これほど険しいとは、思いもよらなかった。上を目指している筈なのに、今度は岩の間に下っていく。それも段々狭くなる暗い谷間へ。足元に注意しながら片手で先行する仲間の後ろ姿を撮った。谷間の底から再び岩を伝わって上り始める。直ぐに停滞。どうやら先がつかえているらしい。岩の向こうを下る人があり、右上の方では、はしゃぐ声がする。間もなく行列が動き始め、ひと上りで山頂に着いた。なるほど新山の頂上は狭い。2班7人と代表が座れば一杯の広さしかない。ファイトを称え、万歳三唱してから記念写真を撮り、下りも上り同様岩ゴツゴツの道を慎重に下り、デポ地点に戻った。

岩の隙間を抜けて新山山頂へと向かう

岩の積み重なる新山ドームの山頂

 このときの様子を彫ったのが「鳥海山々頂への道」である。岩の谷間へ下っていく様子と、前方岩の間に光が射していて、未来が明るいことに通じているような光景を描きたかったが、後者は止められた。画の全体としての方向の先を白っぽくすると、抜けてしまうのだそうだ。市民文化祭に出品することを意識して私が彫れる限界の10号にしたが、この大きさだと彫りはともかく、摺りの段階で全体にむら無く絵の具を載せることは、なかなかエネルギーの要る作業だった。最近は、いかに彫らないようにするか腐心してきたのに、彫りだすと全体が見えにくくなり、今回も岩の線を彫りすぎ煩雑になってしまったことは、反省。もうひとつ、木田安彦に見る“カスレ”をどうすれば表現できるか研究してきたが平刀を使えば良いことが解ったのは、収穫。岩の表面に一部採用した。この構図が気に入ったので、葉書サイズに画を起こし直し、'10年の賀状として投函した。SHC会員の何人かに、届いていると思います。葉書では、岩の谷間右上のインクを薄くした。この方が狙った通りになったし、作品としても、まとまっていると感じている。
(2010年4月、IK記)

遊佐方面を見下ろす

千蛇谷雪渓を登る

登ってきた千蛇谷を振返る

八丁坂のお花畑

*  *  *

【2024年10月記】

Ko(甥・中3)Yu(長男・小4)Sho(次男・小1)

2009年8月の合宿山行は、出羽の名峰 鳥海山・月山へと遠征した。IKさんが書いているとおり妻の実家が庄内で、帰省の駄賃に子どもを連れて山に登ったものだった。最初の鳥海山は1997年夏、「恒例としている帰省山形山行は8月16〜17日と鳥海山に行った。“その山では雪で遊べるか、岩に登れるか”これがSho(次男・小1)の出した条件であったが、山形の山は冬の豪雪のおかげで、真夏でも雪渓が残る。若い火山である鳥海山の新山ドームは積み重なった岩が天を突くという。これで決まりである。」ローカリスト(?)の私にとっては、地元の南アルプス以外に通った数少ない山域が飯豊、朝日両連峰と庄内の山々だった。

 本年度の夏山合宿「鳥海山・月山」が無事に終り、担当として安堵しています。今年の東北地方は夏が無かったと言える程不順な気候で、当初この山行も雨が心配されましたが、幸いにも好天を当てることができました。また、数度の山行で私も見たことのない真っ盛りの花々に迎えられました。これが第一の成功のポイントでした。
 道中の長さゆえ、本番の体調を維持するのに苦労された方も見受けられましたが、鳥海山は全員で10時間に及ぶ行程を歩き通すことができました(2名は新山山頂には立てませんでしたが)。皆さんの日頃の鍛錬の成果でしょう。花を見る時の、雪渓を渡る時の皆さんの喜々とした(中にはちょっぴり不安げな)顔も忘れられません。下山口でスイカ、メロンの用意をして待っていてくれたS鉄小型バスのK、S両運転手の心遣いにも感激しました。
(会報『やまびこ』No.151、2009年10月)

参加された故Akさんは「振り向けば日本海、前方は雄大秀麗な山並み、点在する大雪渓、広く長く続く高山植物のお花畑。鳥海山は感動的な交響詩のような山でした。」と感想を述べられたが、私にとっても会心の合宿山行の一つだった。


山を彫る(6)房小山

2024-10-23 09:13:36 | 山を彫る

 会報150記念号アンケートに、好きな山を挙げよという項目があった。迷わず「房小山」と書いた。好きな理由はいくつかあるが、まず、佇まいが良いことを挙げたい。鋸岳直下、樹間から眺めて良し、いくつかの沢を隔てて、静かに座っているところが好ましい。帰りのことを考えるとかいだるいが、急降下してガレの頭を過ぎてから北上する稜線が良い。笹原の中を緩やかに上下する道は、私の最も好む雰囲気である。この稜線には白やしおがたくさんあり、花の当り年にここを通れば顔が火照る程であろう。Saさん(千頭山の会)によれば、私の太腿くらいの木でも樹齢300年は経っていようという代物が並んでいる。一旦、巻き道に入った辺りは、眺めもなく、時々急坂が現れるので気分的にも体力的にもきついが、我慢、我慢。そこを抜ければ笹原が山頂まで続く超明るい道が開ける。山頂までは1時間かかるが、もう大丈夫だ。笹の中に埋もれた木の根っこや石に注意しながら、あっち見、こっち見して歩を進める。天気が良ければ、これ以上の幸せは無い。
 房小山のことを初めて教えてくれたのは、千頭のEnさんである。'98年、御殿場山岳会に富士山の茸狩りに招待された。同席していたEnさんが、酔うほどに「房小山はええぞー、房小山はええぞー」と言っていたのが気になり、行ってみたいなーと思った。チャンスは意外と早く訪れた。'99年県スポーツ祭の折、SHCは島田しらびそ山の会と共にBコース(高校生)を受け持ったが、隊付きのスタッフも多かったため急遽Aコースの房小山に連れて行ってもらうことになった。この時は、千石沢登山口まで川根町のマイクロバスが乗り入れてくれたので、行き帰りの2時間余りを歩くことなく随分楽に行ってこれた。一度で好きになってしまったこの山へ2000年に、なんと3度行く破目になる。4月にAEさん、MKさん、YTさんと、5月には私のDIYの師匠、Osさんと、さらに11月には山の師匠2人を案内した。いずれの山行でも、常の山行にはないエピソードが伴ったことも、この山を忘れられないものにしている。

笹原に続く道(2008年10月・大川連親睦山行)

 久し振りに、今度は県岳連大井川地区の方々と親睦のための登山をした。例によって、山犬段の小屋で大宴会をやった翌日の山登りはつらいものがあるが自業自得ではある。この日も秋の好天日で、私にとっては堪らない場面であった。残念ながら山頂には届かなかったが十二分に楽しんだ。この時の印象を版画にした。笹原の中に点在する、色付き始めた広葉樹と常緑の針葉樹の対比が面白く、そこにまた立ち枯れの白木が絡む様を画にする作業は、手間がかかったけれど楽しいものだった。彫刻刀の使い方を工夫して針葉樹を100本余彫ったのに、摺りの段階で思ったほど表現されていないのには、ガックリきた。紙を変えたり、絵の具の濃度をあれこれしてみても効果が上がらず弱っていたところ、ちょうど我が家を訪ねてくれたYoさんに相談したら、言下にバレンが悪いと指摘された。バレンを借りて再度摺ってみたら、考えていたものに近い仕上りになった。後刻Yoさんを通じて3,900円也のバレンを購入し、それ以来重宝して使っている。大好きな山を画にすることができたし、版画を続けていく上でも収穫の多い作品となった。
(2010年2月、IK記)

この辺りは恰好の鹿の遊び場

【2024年10月記】

房小山は寸又峡を基点に馬蹄形に連なる大間川(寸又川支流)流域尾根の西奥にあたり、山犬段辺りの南赤石林道から望めば鋭峰・黒法師岳から南に続く平らな尾根にイボのように隆起した小さなピークだ。私が初めて訪れたのは、IKさんの5ヶ月前の1999年6月初頭で、県スポ祭のコース下見として千頭Enさんの先導だった。

房小山(1999年6月)

(前略)千石平を通り鋸山へ。樹林の中のあまりはっきりしないピークだ。担いできた千頭山の会の道標を設置。ここから先、いよいよヤブこぎが始まるということでTシャツから長袖に着替え、軍手をはめる。房小山まで三回ほどの深いヤブ。体が完全に隠れ、すぐ前を行く人も見えないほどの笹だが、下はしっかりと踏み跡がついており、思っていたほど歩きにくくはなかった。また要所に赤ペンキでマークを付けたので、道は以前よりはっきりしたと思う。六回ほど小ピークの登降を繰り返す。道はほぼ稜線上を進む。白ヤシオの群生があり、見事な花をつけていた。二重山稜になった地点に着くと右先にポコリと房小山が見えた。右に曲がりあちこちに鹿のフンの落ちているなだらかな斜面を登ると頂上に着いた。スッキリとした明るく感じの良い山頂だ。蕎麦粒山から大札山へと続く尾根、また板取山から沢口山へと続く尾根が望まれた。ここから先、バラ谷山から黒法師へと続く稜線はさらにヤブも深い道なのだろうが、いつか歩いてみたいと思う。
(1999年6月『やまびこ』28号より)

房小山が一般ルート化したのはこの県スポ祭がきっかけで、Enさんをはじめとする千頭山の会の尽力のおかげだった。Enさんは後に赤石頂上小屋の名物小屋番になった。私にとっては、房小山は南アルプス深南部への道筋を拓いてくれたものだった。この山の先を踏んで黒法師岳を目指したのは2年後の秋だった。


山を彫る(5)穂高連峰

2024-10-21 08:35:18 | 山を彫る

 昔、5月のザイテングラードで怖い思いをしているので、ゴールデンウィークに蝶ヶ岳登山を誘われた時は、正直躊躇した。登山コースについて聞いたり調べたりする間に、登山道の大部分が樹林帯の中を行くことが判り、若干気が楽になり連れて行ってもらう決心がついた。1日目は横尾山荘へ入るだけ、3日目は徳沢園から帰るだけとういう余裕のある日程も歳をくった私にはありがたい。
 ゴールデンウィークの最中にもかかわらず車は順調に進んだが、さすがに沢渡の大駐車場は満タンで入れない。係りの案内に従い、少し奥の私設駐車場になんとか納まった。シャトルバスに乗り換え発車すると間もなく釜トンネルを通過する。拡張、舗装され昔の面影はまったく無くビックリ。いかに上高地方面にご無沙汰したかを思い知らされた。
 14:25横尾山荘着。早々に宴会になり明日の登りに備えて力を蓄えた。
 5/4 6:00発。いきなり急登が始まる。40分歩き標高1,800mに達した辺りで槍ヶ岳が見え初め辛い上りが少し慰められた。残雪は厚みを増し傾斜もきつくなる道を、励ましあいながら上ること4時間、樹林帯がようやく終る。穂高連峰をはじめとする北アルプスの核心部が広がっている。一刻も早く頂上に立ちたいのだが、ここからの道が結構長く感じた。好天と好展望に背中を押され10:18頂上着、素晴らしい眺めだった。前穂、奥穂、涸沢岳、北穂、キレット、南岳、中岳、大喰岳、そして北アの盟主槍ヶ岳。峰々を指差しながら思いっきり展望を楽しんだ。
 この時の感動を忘れてはならない想いで原画を起こした。思うは易しく、画にするのはむつかしい。写真をベースにして、大まかに描いた山の輪郭線の中に岩(黒)と残雪(白抜き)を振り分けていくうちに辻褄が合わなくなってしまった。えい、やーでまとめることが私にはできない。割り切りができないので、いつも私の画がチマチマしてしまうのが判っていながら壁を破れず悶々とすることが多い。やむを得ず写真を拡大コピーしたものを原画とした。キャンバスの大きさには決まりがあり、よく使うf6号は410×318である。A3サイズはこれに近い420×297である。これ幸いと大きさをA3とし、高さ方向を115%に拡大して、より高く見せるように工夫したつもりだったが…。摺り上がりを先生に見てもらったところ「写真みたいだね」と一発で見破られてしまった。このひと言は、応えました。
 それ以来、下手でも構わないから原画はシコシコ手描きして作成するように心がけています。見た通り、見えたように表現するなら、何もわざわざ版画にしなくても写真に撮れば良い訳です。大きな反省材料になりました。対象に巡り会った時の感想とか、想いとか、衝撃を切り取って板面に表せるようになりたいものです。

(2009年12月、IK記)

*  *  *

2007年5月・蝶ヶ岳からの穂高連峰

【2024年10月記】

(2)仙丈ヶ岳で記したようにGWは地元の南アルプスに入ることが多かったが、2007年は北アルプス・蝶ヶ岳にと目先を変えた。こんな感想を会報に残していた。

実に30年振りの上高地入りだった。当時、電車、バスを乗り継いで上高地までで一日を要した(泊ったのは明神か?)が、交通の便は良くなって横尾まで余裕で到着。綺麗になった建物、大勢の観光客やキャンパーには驚いた。横尾からの尾根は、一本調子の急登だが、稜線に出た瞬間に広がる雪の穂高連峰の眺望は、圧巻の一言。離れ難い山頂だった。その見事な眺望と、美味しい食事(殊に徳沢園はステーキ!)、一本3000円のワインでの酒宴といい、全く豪華なゴールデンウィーク山行でした。
最初は南アルプスの三伏峠~小河内岳の予定で、山行を呼び掛けたが、参集したメンバーの人数、状況など勘案しながら二転三転しての本計画だった。結果、身の丈に合い(各々の努力や頑張りがあったのは無論のことだが)、かつ全員大満足で快心の山行となった。

ちなみにIK氏のこの画は、今でも私の仕事デスクの前の壁に掲げられている。

穂高をバックに肩を組むIK氏と私