感謝する事の意味

人は人と頼り合って、助け合って生きています。

美術の秋深し長崎県立美術館その②名取洋之助って誰?

2006年11月29日 | Weblog
ブログネタにと思い今年2回目の県美行き、そこには私が全く知らないのに、どこかで見た記憶の有る作品が展示されていました。

『名取洋之助』皆さんはご存知でしょうか?知性も教養も品格も無いこの私が知らないのは当たり前でしたが、日本が世界に誇る報道写真家、知る人ぞしる存在です。

名取氏は写真家だけでは無くデザインにも恩恵が深く、最初に私が何処かで見た記憶と申し上げたのは、現在見掛けるデザインのその多くは、彼の影響を受けている様です。

彼が作成した、写真を多く使用したグラフィカルなデザインは数十年の時を経ても非常に新鮮で鮮烈です、登場する人物の表情・動きそして生き生きしたフォントの使い方、脱帽です。

当時の技術でここまでどうやって出来たのかと、感心せずには要られません、多分永延と続く工程を経て印刷に及んだものと推察されます。現在ではイラストと写真やロゴを組み合わせる作業は、その良否は別として、パソコンを使えば素人でもそこそこ出来ますが、昭和10年代に彼の率いるチームが非常に高いクオリティーに挑んで行きました、世界は彼らを褒め称えました。

彼らが発刊した『NIPPON』は英文で作られ、日本の文化をグラフィックで世界に伝える、当時、技術的に最高のものでした。

Wikipediaにこう記述して有ります『日本で初めての海外にも誇れるグラフ雑誌といえよう。』

下記に名取洋之助氏の足跡を掲載しました。今、尚彼の技術が入門書として読み続けられています、グラフィックの先駆者として彼に感謝します。。追、写真を撮れませんでしたが、展示して有ったカレンダーが目に焼きついて離れません。


1910年 9月3日、名取和作の三男として、東京高輪で生まれる。
1928年 慶應義塾普通部を卒業し、渡独。ミュンヘン美術工芸学校で学ぶ。
1934年 第2回展の「報道写真展」で意見の対立を生み、木村、原、伊奈、岡田が脱退し分裂する。
太田英茂、山名文夫、河野鷹思、影山稔雄らの協力を得て、第2次「日本工房」を再建。
英文のグラフ誌『NIPPON』を創刊。
1935年 土門拳入社。
1945年 南京で敗戦を迎える。
国際報道工芸社が解散し、撮影したフィルム、プリント類を焼却する。
1946年 エレナ・メクレンブルグと離婚。宮嶋玖と結婚。膵臓壊疽の手術。
上海から帰国。
1947年 『週刊サンニュース』(サンニュース・フォトス社)創刊。49年廃刊。
1950年 『岩波写真文庫』創刊。59年までに286冊刊行する。
1953年 第1回菊池寛賞を受賞。
1954年 日本写真協会功労賞受賞。第3次「日本工房」設立。
1957年 『麦積山石窟』(岩波書店)出版。
1962年 『ロマネスク』(慶友社)出版。
胃癌のため死去(11月23日、52歳)
1963年 『人間・動物・文様』(慶友社)出版。
『写真の読みかた』(岩波書店)出版。
1978年 「名取洋之助の仕事 1930年代」展が西武美術館で催される。
1981年 中西昭雄著『名取洋之助の時代』(朝日新聞社)が出版される。
1992年 名取洋之助写真集『アメリカ 1937年』(講談社)と写真展(銀座和光)が催される。
2006年11月長崎県立美術館で『名取洋之助と日本工房展』開催中。