郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

美作 竹山城跡

2020-04-29 11:13:45 | 城跡巡り
【閲覧数】2,447 (2012.1.27~2019.10.31)      

                           
 
 
▲南からの全景
 

            
 
▲古町から見た竹山城跡




▲大原地区の鳥瞰 (by google earth)




竹山城のこと   岡山県英田郡大原町下町(現美作市大原)


  竹山城跡は、大原下町の西山(430m)山頂にあります。この城は、北と南部の因幡街道筋を一望できる要害の地です。竹山城の名は、東南に竹林が繁茂していたのでその名がついたといわれています。
 
  新免伊賀守貞重が明応2年(1493)北東にある小原・山王山城からこの地に移り、竹山城を築いたといわれています。しかし、竹山城はそれ以前からあったようで、小原城の詰めの城であったとも考えられます。延文5年(1360)に山名時氏が美作を侵攻し、英田郡に軍勢が押しかけ小原城・大野城を落として山名氏の武将小林重長は竹山城を攻略したといわれています。
 
  天文24年(1555)尼子氏の侵入により領地を押さえられましたが、弘治3年(1557)新免宗貞は、奪い返しました。永禄元年(1558)宗貞の子宗貫が竹山城主となりました。そのころには、赤松氏の勢力は弱まるとともに、浦上・宇喜多氏が勢力をつけ、宗貫は、この新勢力と手を結ぶようになりました。
 
  慶長5年(1600)の関が原の戦いでは、宇喜多勢に加わり出陣し敗れ、新免宗貫とその子宇右衛門は九州の筑前に渡り、黒田長政に仕えています。以後、竹山城は廃城となりました。

参考:『日本城郭体系』、他
 




アクセス
 

  竹山城へは、北の山麓に車道が頂上まで整備されています。しかし山頂はテレビ塔などの通信施設が建ち、山麓からの車道が敷かれ、本丸・太鼓丸・西の丸があった場所は、かなり破壊され、一部に遺構が残るだけになっています。
 

▼竹山城跡の周辺図 



  頂上には、城の説明板と南北の案内板・が設置されていました。
 

▼竹山城説明板 



▼北~東の展望 日名倉山・後山・船木山・駒の尾山など一千m級の名山が一望できる





 
 ▼南の展望                       
 
 



 本丸あたりから北を望むと眼下に大原の町並みが一望でき、雪を頂いた山並みの絶景が見られました。
 

 
 


古町の町並み保存地区が吉野川沿いにあるのが見えます。。
 
 

▼吉野川にそった旧道が古町の保存地区(黄色で囲った地域)
 
 


南の山並みの雲海 すばらしい景色に出会いました
 


▼雲海
 





 
 〜下界は、近世の江戸時代〜
 

 大原宿の古町町並み保存地区を歩きました。まるで、江戸時代にタイムスリップしたような感覚になりました。岡山倉敷の美観地区と同じく、電柱が道路にありません。
   
                                   
 ▼因幡街道 大原本陣
 














大原の沿革

・    明治22年(1889)吉野郡江ノ原村、下町村、辻堂村、古町村が合併して大原村となる。
・    明治33年(1900)吉野郡が英田郡と合併し、新たに英田郡となる(英田郡大原村)。
・    大正11年(1922)大原町
・    昭和29年(1954)英田郡大原町・讃甘村(さのもそん)・大野村・大吉村(おおよしそん)の1町3村が合併し、新・大原町となる。大字辻堂を中町に改称。
・    平成17年(2005)英田郡美作町・作東町・英田町・東粟倉村・勝田郡勝田町が合併し美作市となる。
 
  中世の頃は、この地域は大原荘と呼ばれ、市庭(市場)が盛んで、農産物(米・麦・大豆)のほか、綿・麻布・油・(うるし)などが扱われ、市場屋敷があったようです。特に漆は京都で珍重されたので、吉井川を下り、瀬戸内で積出され、運ばれたようです。

      
【関連】
小原・山王山城跡


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