【閲覧数】4,636(2012.1.26~2019.10.31)

▲南山麓からの城山

▲全景 西から

▲城山の鳥瞰 by google earth
今回は、美作市大原にある小原山王山(おばらさんのうさん)城跡を訪れました。
大原町は岡山の北東部に位置し、江戸期には宿場町で栄えた町で、宮本武蔵ゆかりの地として有名です。近年大原宿の古き町並みが保存整備されています。ここから北へ進むと西粟倉(にしあわくら)があり、この先は、志戸坂(しどざか)峠があり鳥取県八頭郡智頭町につながっています。
中世の時代この岡山北部の中国山脈は、山陰と山陽の勢力の境目でもあり、この大原地域は赤松氏の勢力の北限に近い地域であったところで、山陰の山名氏や出雲の尼子氏との戦いが繰り返されました。
江戸時代鳥取藩の参勤交代には因幡街道を利用し志戸坂峠(851m)別名駒帰(こまがえり)峠の難所を越え、大原・平福・三日月・新宮千本の各宿場町を利用しながら、姫路経由で江戸に向かいました。
▼鳥取藩の参勤交代の出発コース

小原山王山城のこと 岡山県英田郡大原町古町(現美作市大原)
小原山王山城は、古町の東の朝霧山(355m)山頂にあります。地元では城山と呼んでいます。
鎌倉末期の建武2年(1335)、足利氏方の赤松の武将小原孫次郎入道信明が築城しました。康安元年(1361)山陰の山名氏が攻め入り、落城したといいます。その後 康正2(1456)、今度は赤松方の武将宇野家貞が播磨高田から入り、城の修復をしました。宇野家貞は、新免長重に嫁した妹の子を養子とします。これが宇野貞重で、後に新免伊賀守貞重と改めます。貞重が明応2年(1493)下町の竹山城に移り、この城は廃城となりました。
※城跡に「小原山王城趾」と書かれた記念碑に、応永23年(1416)に竹内伊豆守久秀が入城し、以下4代康正2年(1456)まで在城し、靍田城(岡山市北区建部町鶴田か)に移るとありました靍田城が廃城になったあとの城主の一族の記念碑のようです 。
新免伊賀守貞重は、下町の西にそびえる山(430m)に竹山城を築きました。以後、この城は山名氏や尼子氏の標的にされています。そして慶長五年(1600)の「関が原の戦い」まで存続したといいます。

縄張り図 作図 高島敏郎氏より資料提供
アクセス
小原・山王山城跡は、大原古町の東山麓の大原神社の背後にある山の頂上にあります。神社の左の道を進み、社殿の背後を上ります。途中木の階段があります。登りきると第一の郭が現れ、さらにその奥には主郭部(本丸)があります。
▼位置図 登城ルートイメージ

▼大原神社

神社奥の左から回り込むように登っていく。
▼木の階段


▼最初の曲輪からの展望

▼城主の一族の記念碑

このあと、三つの深い堀切が待ち構えている。その先が山頂部にあたり、主郭があります。
▼堀切

主郭周辺は木々が生い茂り、見晴らしはよくない。
▼主郭(本丸)

主郭の先には、二つの堀切があり、北の尾根筋からの侵入をふさいでいる。
その尾根筋上に高射砲台の跡が残っている
▼高射砲台の跡

※太平洋戦争時に、爆撃機をねらった高射砲台跡と思われる。
【関連】
竹山城跡
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