郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 善防山城跡

2020-03-29 12:55:17 | 城跡巡り
【閲覧数】2,895(2012.3.22~2019.10.31)                                   
 
 
▼南からの鳥瞰                        

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 善防山(ぜんぼうさん)城跡のこと   加西市三口町・戸田井町・王子町


  善防山城は、伝承では室町期の城で、応永年間(1394~1428)に善防山(251m)の山上に赤松則繁(のりしげ)が築城したという。則繁は嘉吉の乱(1441)の首謀者赤松満祐(みつすけ)の弟で、兄に従って城山城(たつの市)に籠城しましたが、落城の際、脱出しています。
 
 城主不在の善防山城も山名軍に落とされ、そのまま廃城となったものか、その後の伝承はありません。城は削平された4つの曲輪から構成され、最上部の一の曲輪には石垣の一部と井戸跡、二の曲輪には堀切、四の曲輪にも石垣の一部が残っています。
 
 善防山の南麓は猫尾と呼び、これは、善防の侍の居住した根小屋があった山の根の意であったと考えられている。また昔より西国巡礼街道の法華山登り口でもあったようです。
 
 中世には善防山城の南に三口村(現三口町)がありました。三口という地名は、北は北条、南は高砂、西は姫路にあたる街道の口にあたるので三口(みくち)と称し、古くからの交通の要所であったようです。
 
 
赤松則繁のこと
 

 赤松則繁は、赤松義則の八男で、嘉吉の乱(1441)の首謀者の赤松満祐の弟。性格は大変粗暴で、応永31年(1424)には細川持之屋敷の花見の席で家臣の安藤某を殺害しました。第4代将軍の足利義持は則繁に切腹を命じましたが、則繁は逐電し身を潜め、その間応永35年(1428)に義持が死去し、その後許されて出仕するという17年後の足利義教将軍の暗殺の「嘉吉の乱」さながらの事件を引き起こしています。
 嘉吉の乱(1441)では、満祐とともに京都を抜け出して、追討軍に備えて、美作口を守る手はずになっていました。よって善防山城は城主のいないまま、山名氏に簡単に落とされたと考えられ、その後の記録はありません。

 城山城落城に脱出に成功し、生き延びた則繁は北九州の小弐氏(しょうにし)を頼って落ち延び、そこで倭寇の棟梁となり、朝鮮半島まで攻め入り、朝鮮の一カ国を制圧する。その後、日本に舞い戻り、河内に潜んでいたが発見され、最後は 当麻寺(奈良)で討ち取られ、則繁の首は京都でさらされました。



 




・嘉吉元年(1441) 9月9日 城山城より脱出
・嘉吉3年(1443) 6月23日 朝鮮使節、則繁が朝鮮の一カ国占領することを訴える。
・文安5年(1448) 1月   則繁、対馬の少弐氏と共に肥前で大内氏と戦うが破れ、河内の畠山氏を頼る。
        8月8日  則繁、細川持常の手兵に奈良の当麻(たいま)寺で討ち取られる。 
 

参考:「西播磨の戦国時代(たつの市立埋蔵文化センター)」、「 日本城郭大系」他
 


 
アクセス 
 

 



 
 市立加西特別支援学校と下里小学校の裏手に登山口があります。先生にお断りをして、フェンスを開けて上りました。

 
▼登り口                            
 

 

 



一本筋の道なので迷うことはありません。


 
 ▼案内板がところどころに
  
 

▼向こうに善防山の第二頂上が見える  
         


▼岩場の道 
  
 


 だんだんと岩肌が露出し、その上を歩くことになります。振り返ると、学校やその向こうの山々が見え始めました。
 


▼加西市南部の東方面
  


 
 最初の岩山に到着しました。岩場には、松が多い。ここからの展望はさすがによく、足場を気にしながらビデオ撮影。岩の向こうに善坊山が見えます。まだかなりの距離感あり。この岩の先の下りが少し気になったが、尾根筋に岩の道が続いています
 

▼露出岩の頂上に到着                   



▼岩場から山頂を望む。
 

           

▼来た道を振り返ると 絶景が広がる
 


 
 ここからは、北・東・南の三方向にパノラマ的視野が広がっています。北西に立て筋に切り込まれた絶壁が見えましたが、あとから確認するとそこは、石切り場のようです。
 


▼北西に見える切り立った断崖           


 
 
  いったんは下りに転じて、すぐまた登りにかかる。大岩の急斜面がありました。ここが難所ですが、ロープが用意されています。
 



▼岩の難所 ロープでのぼる            


 
 
 だんだんと、山頂に近づいたかとおもいきや、そこは、第二頂上とあります。頂上はもう少し西でした。第二頂上は、東の見張り台のような印象を受けます。
 


▼右の第二頂上に進む                   



▼第二頂上    
 


 
▼第二頂上からの南展望              



▼第二頂上の石列(自然石のようにも?)
 


 
 そこから、頂上(案内には富士山)に向かって進みます。細い3m~4mほどの細い尾根筋を少し歩くと頂上に達します。頂上手前に大きな石がいくつか横たわっています。
 
 
▼一の郭の岸切                    



▼一の郭(主郭)
 
 



▼城説明 


 
一の郭の周辺は数段の郭が取り巻いています。主郭から南に下る登山道があります。
 

 ▼一の郭の西側の切岸                  



▼一の郭の西下の曲輪
  
 


▼一の郭の南西に下る登山道        



▼南西からの一の郭への虎口?
  



 
 ◇ 追 信
 

  このあと、笠松山と善防山の間にある古法華(ふるぼっけ)自然公園に行く機会があり、この善防山(城跡 )に登る西尾根筋の登山道を確認した。
 


▼笠松山と善防山を結ぶ公園内の吊り橋        
 


▼古法華方面から見る善防山                



▼案内板

 
 

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