郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

因幡 浦富海岸の絶景

2020-03-13 10:29:33 | 日記

因幡の浦富海岸にやってきた。
 雲一つない好天気。
  海水浴場には過去何回かは来ている。
   夏は多くの海水浴でにぎわうこの場所は、今は人影少なく岬の先に延びる長い白砂に絶え間なく打ち寄せる白波の音が新鮮だ。


































 ずっと前この近くで遊覧船に乗ったことを思い出し、それを丘から見ることができないかとマップを見てみると、ここから西の網代に向かう海岸に面した道からの景色がいいことがわかり、荒砂神社を後にして、高台の道を進み、折々のビューポイントに駐車しながら、断崖絶壁から見る大小の岬や島々の絶景に見とれた。



































 






2020.3.13


【関連】
因幡 浦富海岸の絶景②




戦時中の一こま 配給制

2020-03-13 09:37:51 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧】2149件(2011.5.31~2019.10.31)



昭和15年(1540)~19年(1945) 生活必需品の配給制



 日本では、日中戦争以後、昭和13年(1938)に交付された国家総動員法の制定を機に、多くの生活必需品が配給制になった。特に市民生活に大きな影響を与えた綿衣料品の切符配給制は昭和17年(1942年)2月に実施された。
 これにより衣料品の総合切符制が実施され衣料品はこの切符がないと購入することができなくなった。
 しかし戦争が長引き、繊維製品の不足はさらに深刻化し昭和19年(1944)には一人あたり30歳以上40点、30歳未満50点と制限され、さらにタオル、靴下、手拭、足袋、縫糸は制限小切符を必要とするようになった。


配給の開始と配給品目

 消費者用の配給が始まるのは6大都市を中心に昭和15年(1940)6月マッチと砂糖から始まり、地方によって時期・配給品目に違いがあったが全国で実施されるようになる。太平洋戦争が始まるとさらに強化され、昭和17年(1942)からは衣料配給切符制が実施され、塩・味噌・醤油でも採用された。

参考「戦後50年 あの日の私たち」発行龍野市歴史文化資料館より

戦時中の一こま 金属回収

2020-03-13 09:24:35 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧】1,036件(2011.5.3jから2019.10.31)                                   


昭和17年(1542) 国民に呼びかけたチラシには





「大東亜戦争を勝ち抜く為めに 銅貨白銅貨・ニッケル貨を引換へませう
軍艦・大砲・戦車などの軍需資材確保の為め・・・貨幣を引換えてお国のお役に立てゝ下さい。引換え時期 昭和17年12月から」

資料:「戦後50年あの日の私たち 龍野市立歴史文化資料館」より


金属類の不足
 太平洋戦争が始まると国は、海外からの輸入に頼っていた物資の不足が目立ちはじめ、特に戦争に必要な金属類の不足は深刻なもので、国民の生活財の供出はもとより流通していた硬貨まで回収しようとしたものです。
 当時流通していた5厘~50銭の補助硬貨の引換えによりニッケル・銅・白銅・ニッケルを調達した。

播磨 城山城跡④  嘉吉の乱の概要と経過(2)

2020-03-13 08:55:24 | 城跡巡り
【閲覧】4,784 件(2012.2.14~2019.10.31)
 


  「嘉吉の乱」の概要と経過(2)
 

■ 城山城を脱出した1赤松教康と2義雅、3則尚、4則繁のその後
 

▼赤松系図抜粋
 
 
 

1、赤松教康  赤松満祐の嫡男
 
嘉吉の乱で城山城を脱出した赤松教康(満祐の嫡子)は、妻の実家の北畠氏を頼り、伊勢まで落ち延びていく。しかし、教康をかばうことは不可能と考えた北畠教具(のりとも)は、教康ら一行を攻め、教康は薬師堂で自害することになる。
 
・嘉吉元年(1441)9月9日 城山城より脱出し、妻の実家である伊勢霧山城の北畠教具のもとへ落ち延びる。
・嘉吉元年(1441)9月29日 赤松義康は、北畠教具に攻められ、自害する。義教が自害した場所に赤松塚がある。
 

 ▼赤松塚(三重県津市丹生俣)
 
 


2、赤松義雅(よしまさ)  満祐の実弟
 
  嘉吉の乱で城山城を脱出した赤松義雅(満祐の実弟)は、幕府追討軍の赤松満政の陣に投降し、息子千代丸(後の時勝)を託し、自害した。 
 
嘉吉の乱(1441)9月9日  城山城から息子千代丸(後の時勝)を連れ、脱出し、赤松満政に投降し、千代丸を託し、自害。
 
 

3、則尚(のりなお) 満祐の甥
 
嘉吉の乱で城山城を脱出した赤松則尚(満祐の甥)は、赤松満政の蜂起に従い戦うが、罪を問われることなく許された。その後、檀特山(だんとくさん)(太子町)で蜂起するが破れ、西方へ落ち延び、鹿久居島(かくいじま)(備前市)で自害する。
 

▼檀特山(太子町)   則尚の蜂起
 
 

・嘉吉元年(1441)  9月9日   城山城より脱出する。
・文安元年 (1444)10月25日 赤松満政と共に播磨で挙兵
・享徳3年 (1454) 11月          赤松元家、赤松則尚の罷免を将軍に訴え許される。  
                 11月3日    則尚播磨へ下り、兵を集める
・康生元年 (1445)  4月       則尚、山名政豊の 室山城攻めるが落とせず。
                  5月11日    則尚、壇特山で山名豊に攻められ、備前へ逃れ、鹿久居島で自害する。          
           5月13日    山名持豊、則尚の首を法雲寺(上郡町)で実検する。
 

▼赤松尚則の供養塔(日生諸島の鹿居島)

 


▼法雲寺(上郡町)  山名氏による首実検
 
 



4、赤松則繁(のりしげ) 満祐の弟
 
 嘉吉の乱で城山城を脱出した赤松則繁(満祐の弟)は、北九州の小弐氏(しょうにし)を頼って落ち延び、そこで倭寇の棟梁となり、朝鮮半島まで攻め入り、朝鮮の一カ国を制圧する。その後、日本に舞い戻り、河内に潜んでいたが発見され、最後は 当麻寺(奈良)で討ち取られる。
 
・嘉吉元年(1441) 9月9日 城山城より脱出
・嘉吉3年(1443) 6月23日 朝鮮使節、則繁が朝鮮の一カ国占領することを訴える。
・文安5年(1448) 1月    則繁、対馬の少弐氏と共に肥前で大内氏と戦うが破れ、河内の畠山氏を頼る。
        8月8日 則繁、細川持常の手兵に当麻寺(大和)で討ち取られる。
 

▼当麻寺(奈良県葛城市)

 



■嘉吉の乱で、幕府追討軍に参加した赤松庶流の5赤松満政、6赤松貞村のその後
 

5、赤松満政(みつまさ)  赤松一族(庶流)
 
 赤松満政は、嘉吉の乱では、幕府方の大手軍につき、合戦後は、東播磨の3郡の地を得た。しかし、山名持豊の要求によって3郡は取り上げられ、これに反感をもった満政は、三草山城(加東市)蜂起するが破れ、赤松有馬家を頼るが、逆に攻め滅ぼされる。
 

▼三草山城(加東市)
 
 

・嘉吉元年(1441)10月  赤松満政、明石・美嚢・加東郡を拝領する。
・文安元年(1444) 1月   赤松満政の播磨3郡が、山名持豊に与えられる。満政、赤松則尚と共に播磨で挙兵する。
・文安2年(1445)10月25日 三草山城落城し、赤松満政は、赤松持家(有馬家)を頼るが、逆に攻め殺される。


 
6、赤松貞村(さだむら) 赤松一族(庶流)
 
  嘉吉の乱の舞台となった赤松満祐の屋敷に赤松貞村も参加していた。赤松貞村は細川持常が指揮する幕府大手軍に加わったが、目ぼしい活躍はなかった。 嘉吉元年(1441)9月には、貞村の所領が※闕所(けっしょ)とされ、軍功の対象となった。嘉吉元年の9月事故死と、4年後没と二つの死亡説あり。
※闕所:欠所とも書き、没収され知行人のいない土地。

参考:「西播磨の戦国時代」
 
 
雑 感
 
 満祐が行動を起こした背景をみると、将軍の守護職大名への相次ぐ職権乱用、例えば不当な守護職の剥奪や所領の没収さらには、家督相続の干渉などが公然と行われ、いつかはわが身との不安感がこの事件を起こさせたと感じられます。
  計画を成し遂げた後の、幕府の対応が専制主を失い一時混乱・麻痺してしまったことで、赤松氏に幕府に対抗する機会を与え、騒乱が長引き多くの赤松一族を没落へと促したのではないでしょうか。幕府側近にいた赤松庶流の赤松満政と赤松貞村は幕府追討軍に加わり、総領家相手に戦うという皮肉な運命にさらされることになり、戦後は後ろ盾のないまま、没落していきました。
 満政の陣に義雅が投降し、息子の命を託して果てた後、満政は千代丸(後の時勝)を、一時室津で庇護したあと、建仁寺(京都)に預けたことにより、総領家筋の血の流れがかろうじて残されることになります。


【関連】
城山城①
城山城②

城山城③ 嘉吉の乱の概要と経過(1)

◆城郭一覧アドレス