【閲覧数】3,129(2015.010.(2015.010.9~2019.10.31)
▲西からみた梶山城跡のある梶山
▲北東部から 川向こう見えるのが梶山
室津街道周辺を探っているときに、たつの市揖保川町域の河内谷の北東部の市場・袋尻集落に二つの城跡があることを知った。
梶山城跡はその一つで、龍野赤松氏と室津浦上氏との抗争に関わる興味深い話があった。
梶山城跡のこと たつの市揖保川町市場字梶山
梶山城跡は、揖保川下流西岸の権現山の先端部で、梶山(標高75m)にある城跡である。主郭と数段の削平地が残る。主郭には肥塚(こえづか)氏の末裔が「史蹟梶山城址」の石柱を設けている。
伝承では赤松円心の長男で七条家の赤松範資(のりすけ)の四世教弘(のりひろ)が明徳三年(1534)に築城した。その後教弘は近くの伝台山城に移り、次に赤松一族の肥塚頼房が居城し、頼清のとき嘉吉の乱が起き、頼清は自決し城は落城した。その後応仁の乱の後赤松家は復興し、龍野赤松村秀の配下の肥塚憲春(頼清の子)が入城し、光憲、祐忠と相続した。祐忠は市場、真砂(まなご)など周辺十村を支配していた。
梶山城主が浦上氏の騙し討ちあったことが物語として伝わっている。赤松の有力な宿老でもあった浦上氏が赤松総領家に反抗する動きがあったため、龍野赤松氏は梶山城主肥塚祐忠に室津城の動向を探るよう命じていた。そのようなさなか、弘治2年(1556)10月8日祐忠は室山城主浦上政宗に招かれ、室津の室山城に向かった。
それは赤松の動きを察知した浦上氏の策略で城主を誘き出し同盟の太子の楯岩城主広岡五郎が襲撃することだった。楯岩城主は予定どおり城主の居ない梶山城を急襲した。留守を守っていた祐忠の弟祐政は討死し、妻は三人の子を城外に送り出すと自ら城に火を放った。変を知った祐忠はきびすを返すが、広岡勢に追われ御津町円融寺で自決した。落城後は龍野赤松氏の配下円山秀喜が城主となり天正(1573~1591)の初めに廃城したという。
▽梶山城と関連諸城の位置図
永禄2年(1559)肥塚和泉守利重が書写山円教寺の乙天・若天両護法堂の本願旦那となったという。物語の主人公はこの肥塚和泉守利重が祐忠であるとしているのだが、討死しているので話が合わない。
その10年後の永禄7年(1564)正月11日龍野城主赤松政秀が宿敵室津城主浦上政宗を襲った。その日は政宗の子清宗と黒田職隆の娘の婚礼の日で浦上親子、新妻が殺害されたという。難敵を排除した政秀は周辺の領地拡張を目指している。
ところが、このあと備前の浦上宗景(政宗の弟)が播磨に侵入し、赤松政秀は窮地に追いこまれていった。
参考:『日本城郭大系』、『揖保郡地誌』、『龍野志』他
▼梶山城跡周辺図
※南部の山に囲まれた沢の御津町中島には肥塚の姓が多く、城主及びその一族の末裔と推測される。
▼揖保川町史 第三巻史料編より (曲輪跡・削平地着色)
アクセス
梶山城詳細図
揖保川町正條から、県道441号で御津町中島方面に南下すると、市場水源池の先の水門の右手に城址の石碑がある。
▲水門の向こうが梶山 ▲梶山の東麓の登り口
ここから道ははっきりしないが、上方に登っていくと、すぐになだらかな鞍部に至る。
▲鞍部ここから右上に進む ▲岩の多い尾根を歩く
そこから右にむき出しの岩の多い尾根筋を少しばかり登ると、もう頂上に至る。所要時間約10分。
▲梶山の頂上 梶山城の主郭
中ほどに肥塚氏の末裔が建てた「史蹟梶山城址」と刻んだ城址の石柱がある。
▲「赤松教弘築城 史蹟梶山城址 肥塚氏居城」 昭和35年10月とある
▲主郭近く 市場と真砂の境界の標か ▲主郭の先(西)に残る削平地
▲削平地(北東)
雑 感
大河ドラマ「軍師官兵衛」では龍野赤松政秀は浦上家と黒田家の婚礼の日室山城を襲撃し、黒田家の養女おたつが無残に殺された。龍野赤松氏は小寺・黒田氏に敵対する悪役としての強烈な印象を与えた。
しかしその襲撃は10年前の浦上氏謀略の延長上にあったともいえる。この動きは両者の因縁を知る上で興味深い。
最近龍野赤松氏の動きをたつの市内と太子町の古城を巡り探っている。赤松政秀は父村秀の跡を継ぎ前期龍野城(鶏籠山城)の2代目の城主となった。戦国後期一族の統率力を失っていく総領家赤松家(置塩城主)に代わる覇権を狙っていたようだが、浦上氏が行く手を阻むことになる。
◆城郭一覧アドレス