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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

戦時中の一こま 忠魂碑

2020-03-16 09:19:03 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】1,768件(2011.5.27~2019.10.31)



昭和12年(1927)頃忠魂碑前での記念撮影 場所:宍粟市山崎町鹿沢(現在の市立図書館あたり)




現在 山崎八幡神社地内





忠魂碑のこと

 戦後GHQより忠魂碑の撤去の指示があった。写真に写っている忠魂碑の塔は、しばらく土中に埋められて隠された後、昭和25年12月、山崎八幡神社に移転された。

 当時、忠魂碑は明治の日清・日露戦争の戦死者を弔うために、在郷軍人会が主体となり、各地域の自治体で建立された。

 この山崎地区の忠魂碑は大正8年(1919)4月建設されたもので、元帥陸軍大将子爵川村景明書※とある。
※川村景明(かげあき)は日露戦争で鴨緑江(おうりょくこう)軍司令官としての活躍した陸軍軍人。

 当時建てられた忠魂碑の多くは、地区単位に主に小学校内、寺社内に残されている。



コメント
やすこさん 
 忠魂碑の前列正面に座っているのはどうやら私の父のようです。父は昭和13年に戦死していますがその前は小学校の先生をしていて、その間にたしか幹部候補生の訓練に行ったと聞いていますから在郷軍人であった時もあったはずです。どこにあった写真ですか? 

返事
タケネット
これは、山崎本多藩記念館で見せていただきました。お父さんの若き勇姿が写っているとは知りませんでした。

戦時中の一こま 飛行機の献納

2020-03-15 16:55:40 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】2,340 件(2011.5.18~2019.10.31)


昭和19年(1944)1月13日 報国号飛行機命名式記念 城下村民号(零式艦上戦闘機)




写真・説明「写真でみる郷土史やまさき」より

昭和19年1月13日 山崎国民学校(現山崎小学校)講堂で、宍粟郡内献納者の飛行機の命名式が開催された。
 この写真の飛行機は、(零式)艦上戦闘機で、城下村民号と名付けられ、翼には報国2010とある。


献納運動

 昭和18年(1943)8月末より、軍用機献納運動が始められた。それは国民(個人・団体・企業など)から寄付金が集められた。献金集めはかなりの強制割当もあったという。海軍に献納されたものは「報国」、陸軍に献納されたものには「愛国」と記名された。




昭和19年の標語「一機でも多く飛行機を!」






コメント

イクタさんより
 貴重な資料・写真ですね。「国民(個人・団体・企業など)から寄付金が集められた。献金集めはかなりの強制割当もあったという。」とのこと。献納者一覧、拡大して見ましたが、最後の「宍粟郡号」は松本信太郎(御名)さんの個人献納みたいですね。その他は「....村民(町民)号」とあって村長、町長がその代表ですね。「民」の一字が切ないですね。実際個々の「民」がどれくらいの額を「徴収」させられたんでしょうね。「徴兵」と同じように「国家」と「民」の関係を改めて思い知らされる資料です。

 山崎町、人口が多いから2機なんですね。2機の山崎町民号、どんな活躍というか、どんな最後を遂げたんでしょうね。町民はそこまで知るよしもなかったんでしょうが、今からでも知りたいですね。

返事
タケネットより
 恐らく日本海軍の主力として艦上空母機動部隊に組み込まれ、昭和19年(1944)6月マリアナ沖海戦で空母の大半を失い、残念ながら飛行機は海の藻屑となったものと思われます。このあと、サイパンを足がかりに、B29によって本土は空襲にさらされます。
 ちなみに、一宮町史にはマリアナ沖海戦で8名の戦死が記載されています。
また、山崎町元山崎の戦没者墓地には80程の墓がありますが、多くが海軍(飛行部隊)での戦死であったことがそれぞれの墓に記銘され2、30代の多くの若き命が海戦で亡くなっていることがわかりました。








戦時中の一こま 銃後の備え 学校教練

2020-03-15 16:35:58 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧】1022件(2011.5.12~2019.10.31)



戦時体制化において、教育は正常さを失い、軍事教育(学校教練)が行われていた


1、昭和17・18年(1942・43)頃河東小学校 小学校でも武道が取り入れられた。


男子は剣道



女子はなぎなた



2、戦前の山小でのなぎなた練習風景




3、昭和17年(1942)頃瑠璃寺 非常時に備えての合宿訓練


写真・文:「写真で見る郷土史 やまさき」より




戦時中の一こま 学童疎開

2020-03-14 09:34:14 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧】851件(2011.5.19~2019.10.31)

鳴尾小学校(西宮市)の学童疎開

1、後方は男子寮  宍粟市山崎町農協塩山支店のあった場所



2、疎開地へ着いた子どもたちに挨拶をする受入れの人たち



3、疎開児童の朝食風景


付添の先生や、地元の世話人のおばさんたちと共に


写真・説明「写真で見る郷土史やまさき」