郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

戦時中の一こま 飛行機の献納

2020-03-15 16:55:40 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】2,340 件(2011.5.18~2019.10.31)


昭和19年(1944)1月13日 報国号飛行機命名式記念 城下村民号(零式艦上戦闘機)




写真・説明「写真でみる郷土史やまさき」より

昭和19年1月13日 山崎国民学校(現山崎小学校)講堂で、宍粟郡内献納者の飛行機の命名式が開催された。
 この写真の飛行機は、(零式)艦上戦闘機で、城下村民号と名付けられ、翼には報国2010とある。


献納運動

 昭和18年(1943)8月末より、軍用機献納運動が始められた。それは国民(個人・団体・企業など)から寄付金が集められた。献金集めはかなりの強制割当もあったという。海軍に献納されたものは「報国」、陸軍に献納されたものには「愛国」と記名された。




昭和19年の標語「一機でも多く飛行機を!」






コメント

イクタさんより
 貴重な資料・写真ですね。「国民(個人・団体・企業など)から寄付金が集められた。献金集めはかなりの強制割当もあったという。」とのこと。献納者一覧、拡大して見ましたが、最後の「宍粟郡号」は松本信太郎(御名)さんの個人献納みたいですね。その他は「....村民(町民)号」とあって村長、町長がその代表ですね。「民」の一字が切ないですね。実際個々の「民」がどれくらいの額を「徴収」させられたんでしょうね。「徴兵」と同じように「国家」と「民」の関係を改めて思い知らされる資料です。

 山崎町、人口が多いから2機なんですね。2機の山崎町民号、どんな活躍というか、どんな最後を遂げたんでしょうね。町民はそこまで知るよしもなかったんでしょうが、今からでも知りたいですね。

返事
タケネットより
 恐らく日本海軍の主力として艦上空母機動部隊に組み込まれ、昭和19年(1944)6月マリアナ沖海戦で空母の大半を失い、残念ながら飛行機は海の藻屑となったものと思われます。このあと、サイパンを足がかりに、B29によって本土は空襲にさらされます。
 ちなみに、一宮町史にはマリアナ沖海戦で8名の戦死が記載されています。
また、山崎町元山崎の戦没者墓地には80程の墓がありますが、多くが海軍(飛行部隊)での戦死であったことがそれぞれの墓に記銘され2、30代の多くの若き命が海戦で亡くなっていることがわかりました。








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