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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「西本郷・大垣内」 

2020-01-05 16:29:36 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西本郷・大垣内」   上月町(現佐用町)

【閲覧数】1,009件(2010.10.26~2019.10.31)


地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■西本郷(にしほんごう)

 佐用川支流幕山川流域。平尾村の西に位置し、幕山川が東流する。地名の由来は、幕山の中心で一番早くから開けた所であることによる。背後の標高300mの山頂に、本郷城があり、天正5年(1577)上月城とともに落城したという。
 江戸末期までに本郷村と改称した。西を冠するのは同郡内の同名村と区別するためと思われる。
当村と皆田(かいた)村・中山村などで元禄年間(1688~1704)紙漉きが行われていた。
 古くは当村と大垣内村の2か村とあり、貞亨元年(1684)大垣内村を分村。氏神は幕山神社。社殿によれば治暦2年(1066)に山城石清水八幡宮より勧請したという。明治7年郷社となる。寺院は高野山真言宗の正覚寺があり、境内に元禄年間(1688~1704)に大庄屋であった社孫兵衛一家の墓石がある。孫兵衛は元禄14年(1701)赤穂藩主浅野家断絶の時、百姓に責められ切腹、家に火をかけて一家断絶したという。中世の山城の広岡城跡が北部の標高300mの山上にある。頂上および中腹部分を削平し、数段に加工した跡が残る。「赤松家播備作城記」には本郷掃部助直頼と記される。

 明治22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月城の大字となる。明治23年幕山尋常高等小学校となる。明治39年道路改修を開始し、18年かけて終了。
明治30年前後から副業に、畜産・養蚕を営み、冬季は製炭業関係の山林労務に従事、婦女子は冬季わら芯きりに従事、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。昭和50年中国自動車道が南部を縦貫、サービスエリアが設置された。






■大垣内(おおがいち)
佐用川支流幕山川中流域。西本郷の西に位置し、東西に切れている谷間を幕山川が東流、同川沿いを古代・中世の美作道が通る。地名の由来は、大きな谷間に広がった平地であることによると思われる。地内の宮地には広岡城があった。天正5年上月城とともに落城したという。

 享保2年(1717)には紙屋が6件あり、百姓持林8ヶ所。草山・下木山として才元村・皆田村の山へも入会していた。
貞亨元年(1684)西本郷村から分村して成立。氏神は幕山神社。地内椿に愛宕神社がある。寺院はない。明治6年周専小学校を置く。明治22年幕山村の大字と成り、昭和30年上月町の大字と成る。
 明治27年・28年にスギ・ヒノキの植林事業に着手し、佐用郡内公私有林の植林の先駆をなす。同30年ごろからの副業は畜産・表さん、冬季男子は製炭業に、婦女子はわら芯きりに従事して、昭和25年前後に及んだ。大正12年電灯架設。昭和50中国自動車道が南部を通過。





◇今回の発見
西本郷の正覚寺に残る大庄屋社孫兵衛一家の墓。百姓に責められて切腹とあるがその理由が気になる。


地名由来「西大畠・小日山」

2019-12-31 09:55:06 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西大畠・小日山」  上月町(現佐用町)


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名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



■西大畠(にしおおばたけ)
 佐用川支流大日山川の下流域。上月村の西、宇根村・須安村の南に位置し、大畑とも記した。佐用町の大畠村に対して西庄大畠村とも称した。大日山川沿いに西進し、万能峠を越えて美作国に入る道に沿って樫ケ淵(かしがぶち)・越田和(こしだわ)・判官(ほうがん)・稗田(ひえだ)の集落があり、標高300mの南部山地の高位谷地に久木原(しゃきはら)の集落がある。寛文10年(1670)の池田検地の時に、当村から目高・力万・寄延・小日山の4か村が分かれたという。

 越田和の大避(おおざけ)神社は天正2年(1574)に赤穂の坂越(さこし)の同名社を樫ケ淵の下原に勧請したという。村人は美作蓮花寺(れんげじ)の檀徒。判官在所には、昔判官太郎助安が居住したという。元禄年間(1688~1704)から副業に紙すきを行い、大畠紙として近郷で愛用され、三日月藩にも定期的に納入した。文化2年(1805)庄屋吉田源三郎は奉行に願い出て石灰の株を許され、万能峠下の山中の石灰岩を用いて石灰を製造し、肥料・紙すきなどに利用。年額30石、1か月銀1匁上納。1駄4俵で6,000駄を産出。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。

 明治30年前後から畜産・養蚕に従事するものが多くなり、冬季は製炭業にも従事、また婦女子は冬季にわら芯切りを営み、昭和25年ころまで行われた。紙すきは西洋紙に圧倒され、大正末期には12戸、春秋の生産高は2000束程、木炭出荷8000俵、石灰もふるわなくなった。大正12年電灯架設。昭和11年姫新線が開通。




■小日山(こびやま)
 佐用川支流大日山川流域。地名の由来は、大日山川沿いの日のよく当たる所で大日山より戸数が少ないことによるか。字宮前の平治畠は平治年間の開拓で兵衛という人が居住したという。寛文10年(1670)の池田検地の時に西大畠村から分村という。

 八代荒神社が氏神であった。薬師を祀っていたという四ツ堂跡がある。昔60歳になるとここに捨てたといい、冥福を祈るための薬師という。嘉永元年(1848)には紙屋11人で年間264束をすく。当村の紙は良質で三日月藩の御用紙として納め、1束あたりの値段も他村より高値で取引されている。
 村人は美作国土居蓮花寺の檀徒。交通の便悪く西大畠まで12町、道幅3尺、川に6か所の飛び所があり、運搬は大日山を経て赤穂郡岩木へ出る方が得策という。寛政12年(1800)の飢饉にはクズの根を掘り、粥(かゆ)1合宛配され、天保12年(1841)の大洪水では平地一帯が川になった。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。

 明治30年前後から畜産・養蚕を副業とし、年々増加、同38年の養蚕戸数20(全体の6割)。古くからウメが特産物、木炭は雑木200町歩あり、大正10年には1万俵に達した。コンニャク玉の生産量は西庄村第2位だったという。大正12年電灯架設。昭和25年前後まで、畜産・養蚕を副業としていた。




◇今回の発見
・西大畠の地名は分村する前から大きな田畑があったからなのだろう。
・西大畠・小日山の両村とも江戸時代より紙すき業が盛んであった。西大畠の万能峠下で石灰生産が昭和初期まで行われていた。
・小日山に興味深い姨捨伝説が残る。捨てられた場所にお堂跡が残ると。


地名由来「須安・宇根」 

2019-12-31 09:48:21 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「須安・宇根」   上月町(現佐用町) 

 
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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■須安(すやす)
 佐用川支流大日山(おおびやま)川流域。力万(りきまん)村の西に位置する。南境を大日山川が東流し、同川沿いに美作道が通る。同川が流入する谷川沿いに和田・下谷・尾崎の三集落があり、西の宇根村への道が通じている。
 地名の由来は、開拓前は砂浜(ス)や沼地(ヤ)、州(ス)が広がる川沿いの湿地帯であったことによるか。美作街道は杉坂を越えていたが、織田信長の時に万能峠を越す近道ができたという。古代製鉄遺跡が発見され、蹈鞴(たたら)の炉壁や鉄滓が見られる。

 元禄年間(1688~1704)までに宇根村を分村。氏神の明見宮は明治40年上月八幡宮に合祀。地蔵堂の伝承では、庵主が本尊を背負って山脇村に行き、慈山寺を建立したといい、字赤明寺に赤松という医師が来て寺屋敷と考証したという。明治初年宇根村と合併の話が出たが不成立。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。

 明治30年頃から畜産・養蚕を副業としてきたが、年々隆盛となり、昭和25年前後まで続いた。また、農家の婦女子の冬季の副業として、わら芯切りも盛んであった。大正12年電灯架設。昭和11年姫新線が南部を横断。





■宇根(うね)
 大日山川支流須安川流域。須安の西に位置し、標高200m~300mの山上の谷窟にある庄・別当・姿・米・片倉・坊の6集落よりなる。西は美作国英田郡蓮花寺(れんげじ)村(現岡山県作東町)。
 地名の由来は、北西風・北東風の強く吹く所の意によるか。伝説には往古大石命(天使)が開拓したところといい、耕地が少なく高所から低所へ開いた形跡がある。古くは須安村と記され、元禄年間(1688~1704)までに須安村から分村して成立。
氏神は清地(せいち)神社で、天正6年広峰神社から勧請、明治21年社殿改築、同40年村内8社を合祀。当村の各家は山脇村慈山寺の檀家であったが、のち明治25年美作国蓮花寺に移る。天正6年(1578)毛利軍の上月城攻略の時、吉川元春(きっかわもとはる)が字姿の山上に本営を置いたと伝える。

 明治5年開明小学校設9年廃止。同22年西庄村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治20年副業として養蚕を始め、大正11年の養蚕戸数28 (村の6割) 。また冬季木炭の生産に従事する者もあり、大正11年2,000俵、竹材100束・木材1,000材を出荷。
 大正9年より里道は村道となり、白石より米・庄を経て蓮花寺に至る道路、白石より別当・坊を経て梅田に至る道路。才が鼻より片倉・姿を経て大垣内に至る道路。本郷境より姿・別当・石が坪を経て蓮花寺に至る道路があった。昭和に入ると畜産・養蚕ともに隆盛を極め、昭和25年前後まで続いた。





◇今回の発見
宇根は岡山県(作東町)と県境にあり、作東町とは古くから寺との結びつきがあり、岡山の言葉や文化の影響もあったと思われる。


地名由来「早瀬・力万」

2019-12-30 17:33:50 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「早瀬・力万」   上月町(現佐用町)


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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



■早瀬(はやせ)
 佐用川下流域の平地、高倉山の北西。白山満願寺跡に塔の礎石が残り、古墳などの遺跡もある。国道横の一本松は一里塚で、近年2代目の松が枯れ、3代目の松が植えられている。

 古代は速瀬郷といい、奈良期から平安期に見える郷名。「和名抄」播磨国佐用(さよ)郡八郷の1つ。「風土記」に讃容(さよ)郡6里の1つとして「速湍里(はやせのさと)」と見え、地名は川の瀬が速いことに由来するという。この川は佐用川である。また、速湍社の神は広比売命で、散用郡比売命の弟であるという。上月町早瀬が遺称地で、速湍里は現在の上月町の北半に比定され、「和名抄」では速湍里の北部は広岡郷となり、速湍郷は旧西庄村、現在の上月町中部に比定される。その後、中世に当地は見えず、慶長4年(1599)宇喜田秀家は戸川肥後守に早瀬の139石3斗の地を宛行っている。

 氏神は白山神社(早瀬神社)である。白山満願寺は天正5年(1577)上月城の戦いの兵火にかかって焼失したといい、塔の心礎のみ残る。現在は白山満願庵がある。明治22年西庄村の大字になり昭和30年からは上月町の大字となる。
 明治30年前後から畜産・養蚕を副業として生計を維持し、また婦女子は、わら芯切りを冬季の副業として取り入れ、昭和25年前後まで続いた。昭和11年姫新線が南東部を通る。





■力万(りきまん)
 佐用川支流大日山川流域の平地。地名の由来は、利器(兵器・武器)を作ったことによるか。荒神社が西畠と森ノ下に残っており、岡にはオフサノミコトを祀って神社跡があるほか、力万寺があったと伝えられ、山麓に五輪塔などがある。寛文10年(1670)の池田検地の時に西大畠村から分村したという。

 明治22年西庄村、昭和30年からは上月町の大字となる。明治24年西庄村役場を設置。同年西庄尋常小学校を設置。同35年西庄尋常高等小学校となる。
明治30年前後から畜産・養蚕に従事する農家が多くなり、昭和25年頃まで続いた。また、冬季のわら芯切りを婦人の副業として盛んに行った。大正12年電気架設。昭和11年姫新線が南部を通過。




◇今回の発見
・早瀬は風土記や和名抄に出てくる速湍里(はやせのさと)の明確な遺称地。土は上の中なりとあり肥沃な土地を示している。1300年もの間に川の流れや速さも変わっているようだ。
・力万は力仕事をイメージさせる。利器(兵器・武器)が作られた記録があるのだろうか。

地名由来「寄延・目高・仁位」 

2019-12-29 13:48:54 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「寄延・目高・仁位」   上月町(現佐用町)

【閲覧数】2,357件(2010.10.13~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■ 寄延(よりのぶ)
千種川支流佐用川流域。地名は、村寄り合い、辻寄り合いの場所に由来するか。
寛文10年(1670)の池田検地のときに西大畠村から分村したという。荒神宮を上月村の八幡宮に合祀した。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年から上月町の大字となる。

農業を主として生計を維持してきたが、明治30年前後から畜産・養蚕・製炭関係業に従事し、婦女子は冬季わら切りに従事して、生計を維持し、昭和25年前後まで継続。大正12年電灯架設。



■ 目高(めだか)
佐用川支流秋里川の北。寄延村の南西。後山(405.1m)北東の急坂山腹の階段状の地に集落がある。地名の由来は、高い所の意によるか。昔西大畠から移ってきたともいう。天正年間(1573~92)羽柴秀吉が上月城を攻めたとき、愛宕山周辺に大成陣屋があり、上月城の水源地、のろし場や枡形と、これらを守る大築地(土塁)が残る。後山の山頂近くの菖蒲(勝負)谷は上月城の飲用の水源であった。

寛文10年(1670)の池田検地のときに西大畠村から分村したという。庄屋は下秋里村庄屋の兼務。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年から上月町の大字となる。
明治30年頃から畜産・養蚕を副業として生計をたてるようになり、昭和25年前後まで続いた。産物のコンニャクは京阪神で名高く、大正10年には130駄出荷、1駄34円で売却。山地で道路がなく牛馬の背、人の肩で荷物を運搬していたが、大正8年目高から寄延を経て上月に至る復員6尺・延長620間の道を開削。大正12年電灯架設。



■ 仁位(にい)
佐用川左岸、仁位山の西麓。地名の由来は、急斜面の山麓台地につくられた新しい村の意か。仁位山城跡は、羽柴秀吉が上月城攻略の前衛を置いた所で、山に10を超える壕跡も残る。

仁位・美土路(みどろ)の二集落よりなり、庄屋各一人がいた。天保7年(1836)川荒れ5か年限り御用捨引き、嘉永元年(1848)秋洪水で新田6反余に被害。明治22年西庄村の大字になり、昭和30年からは上月町の大字となる。

明治23年・同25年・大正7年ともに洪水があり、堤防決壊、井堰流出の被害を受けた。大正7年7戸全焼。農業主体の経営であったが、明治30年前後から、畜産・養蚕を副業にした農家経営に移行、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。




◇今回の発見
・興味ある地名が並ぶ。仁位は、新(にい)からとするが、もっと何かありそうに思えるが。
・上月城は、播磨・美作・備前の三国につながる要衝の地にある。そこで繰り広げられた激しい戦いの記録が残る。