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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「桜山」

2020-01-11 10:36:21 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「桜山」  上月町(現佐用町)

【閲覧数】1,566件 (2010.10.29~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■桜山(さくらやま)
幕山川支流桜山川の最上流域。才元村・金子村の北に位置する。東は上木谷・大猪伏(いぶし)、北は美作国吉野郡牛飼宮原村(現岡山県作東町)。下桜・上桜・樺坂の三集落よりなり、上桜は最高地点は399mの高位谷地に立地する。地名は、小さい谷の湿地を開拓した地域で、狭間(はざま)、迫(せこ)からきていると思われる。また峠を越えた北の傾斜地にある樺坂の由来は、樺(かんば)は桜のことで、山桜のある坂道沿いに位置することによると思われる。

 寛文元年(1661)に明暦・万治年間(1655~61)における隠田(おんでん)の罪により、豪農井原与右衛門一家(13歳の子どもを含む親子六人)が斬首刑に処せられた。この悲惨を悼み、その怨霊を恐れた村人は霊社と六人塚を立て供養した。元禄13年(1700)領主旗本松井氏は江戸中橋(現東京都中央区)の四人の商人に桜山銅山の開発を請け負わせ、銅256貫を製錬し大阪に送り出している。桜山銅山は昭和初期まで操業したが、経営者は度々交替した。この鉱山より流出する鉱毒の河川汚染、製錬の際の煙害による樹林枯れ、作物の生育被害など、地元の被害も甚大であった。

 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。金子村との境の標高310mの山上に中世末期の山城跡があり、主郭を中心に数段の削平地と堀切跡3か所が残るが詳細は不明。天満神社があり、本殿の元禄14年(1701)造営棟札、宝暦2年(1752)銘の灯篭2基と同年の鳥居の額が残る。
明治20年樺坂分教場を廃し、江川村立小学校組合を組織して今に至る。同22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。
明治30年前後から農家の副業として畜産・養蚕を導入、冬季は製炭関係の労務に従事し、婦女子はわら芯きりで稼ぎ、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。

※樺桜:カバノキ類に木肌が似ている桜の木、ウワミズザクラ、カニワザクラともいう。




◇今回の発見
・ 桜山の六人塚のいわれがわかったが、隠田の罪科による家族全員の処刑とはあまりにも惨い。
・ 桜山の南部にあった才金の金子集落は、桜山銅山の鉱害の被害をもろに受けた。銅山の鉱害は足尾銅山で知られているが、銅を得るために自然を破壊し、南部集落の離散をもたらした要因にもなっている。元はといえば藩の銅山開発に起因している。

地名由来「皆田」(上月町)

2020-01-10 11:44:26 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「皆田」(上月町)    上月町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



■ 皆田(かいた)
 大垣内村の西に位置し、西は杉坂峠を隔てて美作国英田郡田原村(現岡山県作東町)、北は吉野郡大聖寺村(現同上)。海田・甲斐田とも記す。

 古代・中世の美作道が通り、「太平記」巻四によれば後醍醐天皇が隠岐に配流される途次に杉坂峠を越えている。同書巻六によれば、元弘3年(1333)赤松円心が大塔宮の命旨を奉じて挙兵した際、まず杉坂に関を構えたという。「大乗院寺社雑記事」文明7年(1475)10月9日条によると奈良興福寺は同寺の維摩会講師のために甲斐田(皆田)紙一帖50枚を100文で購入している。延徳3年(1491)9月14日には後藤藤左衛門が京都相国(しょうこく)寺蔭涼(いんりょう)軒主亀泉集証に、甲斐田紙二帖ほかを持参している。戦国頃と推定される10月3日の某感状写(江見文書)によれば、江見(えみ)庄(現作東町)の江見新左衛門が海田において上月左京介と合戦している。慶長国絵図には「かい田村」とみえる。

 宝永6年(1709)海田村を皆田村に改めた(井上家文書)というが、のちにも海田村と書かれている。当村と大垣内・西本郷・福吉・中山の5か村で三折紙を漉いていたという。

 享保3年(1718)の櫛田組皆田村新林改帳によれば、当村次右衛門ほか19人が村内入会山に20か所の新林を立てていたことを櫛田村の大庄屋湯浅彦次郎が届出ている。江戸期にも『播磨鑑』の土産物の項に皆田村で皆田紙を漉くとあり、安政6年(1859)の「紙譜」に「播磨、皆田厚物類」とみえ、著名な銘柄であった。しかし明治中期には生産されなくなった。
 字茶屋ノ前の標高300mの山頂に中世の百々蔵(度々倉)(どどくら)城跡がある。幅9m、長さ26mの主郭を中心に東・南・北に郭が配置されている。特に東と南は堀で遮断して城域を区画している。山上に地元で百々倉と通称する人工の石窟がある。「日本書紀」天智天皇即位前紀条に「是歳、播州国司岸田臣麻呂等、宝の剣を献りて言さく、「狭夜郡(さよのこおり)の人の禾田(あわた)の穴内(あな)にして獲たり」とまうす」とある。『播磨鑑』は「禾田穴」について禾田の所在は不祥だが、米田村(現不明)、あるいは皆田村山中にある奇異な岩穴のことかと、百々倉比定説を記す。

 美作国境の杉坂峠の東麓に皆(海)田城(杉坂山城・榎城)跡があるが詳細は不明。後醍醐天皇が隠岐への配流の際休息した跡に碑がある。また杉坂峠にある灌漑用の西池は元禄時代藩主浅野氏により造成されたと伝える。

 明治22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治30年前後から畜産・養蚕を副業とし、冬季に男子は製炭業関係の山林業務に従事し、婦女子もわら芯きりに励み、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。昭和50年南部の山麓を中国自動車道が横断。




◇今回の発見
・皆田ははじめは、海田と書かれていたが、その地名の由来は記されていない。
・皆田は日本書紀の宝剣にまつわる歴史ロマンがある。皆田の和紙は室町時代に奈良興福寺で利用されていた記録が残る。当時から有名ブランドだったようだ。
・杉坂史跡は赤松則村が設けた関所跡があり、隠岐に流される後醍醐天皇一行の救出に失敗した児島高徳の無念の地であると。


※ 上月歴史展示資料館には、皆田紙の原料や紙漉き道具(復元)が展示されている。それによると楮(こうぞ)の木から皆田の和紙ができるまでが詳しく説明され、使われた道具類が並ぶ。冷たい水にさらす作業をはじめいくつもの工程があり作業は大変だったと思われる。屏風や障子紙などに適した厚紙を得意としている。明治中期になり海外からの西洋紙に押され生産が終わる。西大畠で最後の紙漉きが昭和43年まで続けられたが、廃業。そのあと、上月歴史資料館建設を期に、保存会がその伝統技術を復活させ、町公民館で手漉き講習会を開いている。(上月歴史資料館 兵庫県佐用郡佐用町上月373番地)




▼上月歴史資料館 



▼保存会の作品



地名由来「才金(金子・才元)」 

2020-01-09 09:35:53 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「才金(金子・才元)」  上月町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■金子(かなご)
西本郷の北、田和村の西に位置し、桜山川沿いに金子・舟戸(船室)の2集落がある。北の桜山村に通じる道がある。
元文4年(1739)の平福領一揆時には家数28であったが、全体が窮乏状態で、住民が異形姿で平福町は押し寄せた。一揆収束後当村の3名が処罰され、村に※鳥目一貫文の過料が科せられた。天保7年(1836)同8年の飢饉および桜山銅山の鉱害被害により窮乏が甚しく、年貢納入のために家財をことごとくと取り立てられ、多くの百姓が離散し、村中すべて荒れ果てていたという。代官竹垣三衛門は広山村(三日月町)、末包(すえかね)村・淀村・仁方(にかた)村(佐用町)の庄屋と下櫛田村の誼作、赤穂郡大酒村の庄右衛門らに復興趣法を命じ、引立助成を行っている。

   明和9年(1772)の堂社書上帳に十二社権現がみえ、本村産社とある。舟戸集落は西本郷村の氏子であった。十二社権現は明治28年に幕山八幡宮に合祀された。明治8年(1875)才元村と合併し才金村となる。

※鳥目:銭の異称。 江戸時代までの銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたところからいう。





■才元(さいのもと)
幕山川支流の大地川と熊井川流域。才元・寺の奥・才金・熊井・大地に集落がある。地名は、才(塞)の神に由来するか。大地川上流に四才谷池・大地池、熊井川上流に熊井池がある。

   天保7年(1836)長雨による稲の不作、翌年春麦の収穫を待ちかねて瓜の根などを多く食した人々が全身腫れて病死したという。安政元年大地震。同3年台風。明治2年凶作で木の実、竹の実を集めて食した。明治8年(1875)金子村と合併し才金村となる。






■才金(さいかね)
幕山川支流桜山川流域に位置する。明治8年、才元村と金子村が合併して成立。はじめ幕山村、昭和30年からは上月町の大字となる。

  明治30年前後から農家の副業として、畜産・養蚕を導入、冬季には男子は製炭業関係の山林労務に従事、婦女子はわら芯切りに精励、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。



 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。金子村との境の標高310mの山上に中世末期の山城跡があり、主郭を中心に数段の削平地と堀切跡3か所が残るが詳細は不明。天満神社があり、本殿の元禄14年(1701)造営棟札、宝暦2年(1752)銘の灯篭2基と同年の鳥居の額が残る。
明治20年樺坂分教場を廃し、江川村立小学校組合を組織して今に至る。同22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。
明治30年前後から農家の副業として畜産・養蚕を導入、冬季は製炭関係の労務に従事し、婦女子はわら芯きりで稼ぎ、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。

※樺桜:カバノキ類に木肌が似ている桜の木、ウワミズザクラ、カニワザクラともいう。



◇今回の発見

・飢饉時に瓜の根、竹の実などを食した記録があるという。瓜とは何か。(からす瓜のこと?) 竹や笹の実は、味が悪いが救荒食だったという。

・金子の鉱害被害や飢饉時に窮乏し、年貢納入のため家財道具まで取立てられ耕作放棄、百姓離散に追いやられた。そして村中が荒れ果てたという。藩の収入の柱が農民の年貢であり、藩の財政の安定は、農民の生活安定が前提なのだが、こんな歴史が近くにもあったとは。




地名由来「金屋・中山」

2020-01-07 08:47:40 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「金屋・中山」   上月町(現佐用町)

(2010.10.21~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■金屋(かなや)
 大日山(おおびやま)川支流幕山川下流域両側の平野部に立地する。上土居・中土居・下土居の3集落からなる。北の蔵垣内(くらがいち)村へ出て中世の美作道に通じ、南の上月村へ出て近世の美作道に通じていた。地名の由来は、古代の砂鉄製鉄にちなむと推定される。

 昭和58年ほ場整備事業実施のため、発掘調査をしたところ、たたら跡が3か所発見され、ほかに山麓にも鉄滓が多量にある箇所が2、3か所ある。広岡氏の居城跡があり、広岡郷の中心地が金屋であった。字釜谷には鉄滓が多量に散布している。湯谷に比丘尼(びくに)城と伝える中世山城があるが詳細は不明。上土居西方山麓の中世の寺院跡地に光明寺と称される小堂がある。金屋村文書に「寺の下・とう・とうのもと・とうのまえ・とうのむかい」などの地名がみえる。北部の独立峰上に吾勝(あかつ)神社がある。字古土居(ふるどい)から鎌倉・室町期の中型五輪塔が5基発見された。

 明治22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治30年前後から養蚕・畜産を副業とし、婦女子は冬季の副業としてわら芯切りに奨励し、男子は冬季製炭に従事する者が多く、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。





■中山(なかやま)
金屋村の北東に位置し、幕山川支流の中山川が南西流する。古代中世の美作道が通り、塞(さい)の峠を越えて蔵垣内村に通じている。地名の由来は、南北に山があり、東西には峠があって、山の中の村であることによると思われる。
村の南方に標高299mの高雄山があり、山麓の福円寺は百済国の※日羅(にちら)に帰依した僧による建立と伝え、日羅の墓がある。赤松氏が代々帰依した寺で、赤松円心には100町歩の田地を寺領としたという。天正5年(1577年)織田信長に攻められた福原城主則尚が山内で自刃、胴塚がある。
※日羅:6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人

 寺院は真言宗福円寺。住僧大寛が文政12年(1829)より明治29年(1896)の間の見聞を記した大寛一代記(福円寺蔵)は貴重な地域資料である。浄土宗浄福寺が、大永4年(1524)正西の開基と伝え、昭和20年代廃絶。
 明治6年成化小学校創立。同22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治30年前後から農家の副業として、畜産・養蚕を取り入れ、冬季男子は製炭業関係の山林労務、婦女子はわら芯切りに従事。明治39年から道路を改修、大正12年電灯架設、昭和50年中国自動車道が東西に開通。





◇今回の発見
・金屋には古代蹈鞴跡が発見され、小字には製鉄に関わる地名が残る。中国自動車道建設の副産物です。地下には多くの歴史が隠されています。
・福円寺蔵の大寛一代記は貴重な地域資料とあるが、見てみたいものです。

地名由来「福中(田和・来見)」

2020-01-06 09:37:37 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「福中(田和・来見)」  上月町(現佐用町)

【閲覧数】1,539件(2010.10.25~2019.120.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地) 




■田和(たわ)
 佐用川支流幕山川中流の北、大撫山の西、山間の谷間に立地する。狭い谷川と道の両側の山裾には石垣の棚田が重なる。地名は田和が峠であることから、峠の下の集落ということによるか。
 元文4年(1739)の旗本松井氏平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判し、参加している。
弘化5年(1848)の福円寺人別帳によれば、当村大乗院は無住につき中山村の福円寺が兼帯すると寺社奉行に届け出ている。植木谷村との境の通称たわんどうの上に「いきにんぎょ」と呼ばれる塚が築かれている。時代は不祥だが、大乗院の僧が生きながら穴に入り入寂したと伝えられている。
 明治8年(1875)来見村と合併し福中村となる。



■来見(くるみ)
 佐用川支流幕山川中流の北、大撫山の西。田和村の東、中山村の北に位置し、大撫山の西側の谷窪に集落がある。地名の由来は、来て見ないとわからない山地の集落であることに由来するという。上・下2か所に集落がある。

 寛永17年(1740)平尾村を分村している。享保16年(1731)当村半右衛門、豊福村(旧佐用町)伝右衛門ら5人が領主旗本松井氏への賄銀に難渋して江戸幕府に出訴し、罰せられている。元文4年(1739)の旗本松井氏平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判し、先年貸付けられていた闕所銀の利銀返済免除などを要求したが、当村十郎右衛門は田畑・家屋敷を取り上げられている。平福村の光明寺末の正覚庵(現廃寺)は文化14年(1817)に武州入間(いるま)村(埼玉県入間市)出身の庵主伝心が庵を再建し、伝心は天保2年(1831)に死去し当地に葬られた。
 明治8年(1875)田和村と合併し福中村となる。



■福中(ふくなか)、
 西播山地北西部に位置する。明治8年、田和村と来見村が合併して成立。明治22年幕山村の大字となり、昭和30年上月町の大字になる。

 明治30年前後から、農家の副業として畜産・養蚕を導入、冬季の副業に製炭業関連の山林労務に従事するようになり、婦女子はわら芯きりに精励し、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。





◇今回の発見
・前回は蔵垣内村と平尾村が明治8年に合併し、福吉村となり、今回は同年に田和・来見の両村が合併し、福中村ができた。いずれも頭に「福」を付けた。
・来見は慶長国絵図には、「くるミ」とある。来見村の地名の由来は、来て見ないとわからない場所であることからとしているが、ほんとにそうであるなら、なんとも投げやりな地名のついた村名であるが、逆にどんな所なのか行ってみたくはなる。