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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「上月」

2019-12-29 13:35:00 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「上月」      上月町(現佐用町)

【閲覧】(2010.10.12~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





《上月町について》

 中央を千種川とその支流佐用川が流れ、佐用川には谷々から秋里(あきざと)川、大日山(おおびやま)川・幕山(まくやま)川が流入する。標高80m~400mの間に立地し、約8割が林野である。主産物は、かつては米・麦・繭・木炭などであったが、現在は工業団地が造成され十数社が創業し、また姫路・竜野・相生方面への通勤兼業農家が大半である。中央部を東西にJR姫新線が通り、上月駅がある。国道179号線がJR線にはほぼ並走する。南北方向に国道373号線がとおり、町中央で179号線と交差している。上郡町と鳥取県智頭町を結ぶ智頭急行が東南部を通り久崎駅がある。

 江戸時代、現町域に34村あり、抜位(ぬくい)・小赤松(こあかまつ)・大酒(おおざけ)の3村は赤穂郡に、その他は佐用郡に属した。明治22年町村制施行により佐用郡幕山村・西庄(にししょう)村・久崎村が成立。昭和15年久崎村が町制を施行。昭和30年久崎村に赤穂郡赤松村の大酒・小赤松および旭内抜位地区(現大字大釜)が合併。同年幕山村と西庄村が合併し上月町となる。昭和33年上月町に久崎町が合併して、上月町となる。そして、平成の合併(平成17年)により、佐用町となる。



■上月(こうづき)
 上月町の中央部。千種川支流作用川右岸に位置し、西から同川に流入する大日山川両岸の河谷平野と段丘に立地する。上上月・中上月・下上月の3集落からなる。中世は佐用(さよ)荘のうち。地名の「こうづ」は川岸の崖山、「き」は城・村を示すと思われる。  

 古代~中世の美作道は慶長期(1596~1615)頃佐用(さよ)村から佐用川沿いを南下して当村を経て大畠(おおばたけ)村の万能(まんの)峠越に変更、整備された。天保11年(1840)7月11日まで31日間旱天。元和元年(1615)から当地と赤穂の間を高瀬船が運行、米、薪炭、木材、板を赤穂で降ろし、塩を積んで帰る。ただし、夏季は就航しない。明治22年西庄村、昭和30年からは上月町の大字。
 八幡神社は豊前宇佐宮を勧請したと伝え、代々の上月城主の氏神として崇められたという。字真野(まの)に貞治4年(1365)4月16日の年紀をもち、「化(施)主道成敬白」と記された宝篋印塔がある。

 明治23年・24年と続けて洪水あり。明治30年ころから畜産・養蚕を営み、農家経済の主流となり、昭和25年頃まで続いた。大正12年電気架設。昭和11年姫新線開通。国道改修により人口増加、商店が軒を重ねるようになる。







◇今回の発見
中世の上月城跡の城下にJR姫新線の上月駅・上月町役場(現上月支所)がある。古代~中世の美作道は、上月から西の万能峠を通り作東町へ抜ける道として整備されたという。



地名由来「三ツ尾・大下り・大畑」

2019-12-28 09:51:07 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「三ツ尾・大下り・大畑」 三日月町(現佐用町)


【閲覧数】 1561件(2010.10.6~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



■三ツ尾(みつお)
 古くは、光の尾とも書いた。千種川支流大下り河上流域。地名の尾は尾根をさすものと思われるが不詳。
 元禄郷帳では大下村を古くは三尾村と記しており、元禄年間までに大下村を分村。明治22年大広村の大字となる。




■大下り(おおさがり)
 千種川支流大下り川上流域。地名は大畑の山を下った所の意にちなむと思われる。古くは三尾村とあり、元禄年間までに三尾村から分村して成立。明治22年大広村の大字となる。
昭和30年からは三日月町の大字となる。
 昭和40年の世帯数は14であったが、昭和45年全戸離村し、無人となったが、上大下り地区を尼崎在住の個人が買い取り、66歳以上の老人11人が1人1戸ずつ入居して老人の村「豊生道場」となった。
 



■大畑(おおはた)
 千種川支流大下り川上流域。地名は、壇ノ浦の合戦に破れた平知盛の一族と家臣8名が地内に隠れ住み、土地を開墾したことによるという。知盛(とももり)塚、山神社の八王子の像、岡八王子(おかはちおうじ)の宮札などが残る。高地のため主に麦・煙草・芋・ゴボウなどの畑作が行われた。寺院は常勝院。明治22年大広村の大字となる。昭和30年からは三日月町の大字となる。大畑小学校は昭和46年三日月小学校に統合された。
 当地の高原ぶどうは、昭和49年標高300mの丘陵地に12haを造成。同50年に23戸の農家が植栽した。品種はマスカット・ベリーA、ピオーネなどで、特産物になっている。





◇今回の発見
 大下りの14世帯が離村したのが昭和45年。小学校の統合のこともあったのだろうか。
 大畑のぶどうは、三日月高原ぶどうとして出荷されている。昼夜の温度差のある高原のため糖度が高く甘くておいしいと評判がある。しかし丘陵地での作業は大変に違いない。

地名由来「広山・弦谷・三原」 

2019-12-28 09:42:25 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「広山・弦谷・三原」  三日月町(現佐用町)


【閲覧数】 2805件(2010.10.5~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)



■広山(ひろやま)
 志文川と同川支流弦谷川との合流点。細月(みかづき)村の西、乃井野村の南、北から流れてきた志文川が西に向きを変える南岸の氾濫原に立地する。川原・上河原・出口河原の地名がある。天保から嘉永年間(1830~54)に当村服部家が佐用郡内幕府領の大庄屋を勤めた。広さ2反の屋敷跡に残る屋敷神の石の鳥居「御料所佐用、赤穂宍粟三郡83ケ村寄附」と刻されている。
 集落の南東後方、標高150mの山頂に戦国期の広山城跡がある。周囲を土塁で囲んだ長方形の主郭は縦約20m、巾15m前後と小さい。
 明治22年大広村の大字になり、昭和30年からは三日月町の大字となる。




■弦谷(つるだに)
 志文川支流弦谷川下流域。広山村の南、標高200m~300m級の山の間の狭い谷に立地する。地名は、鶴の首のように谷が長いことにちなむと思われる。
銅山があり、廃石置場や精錬滓が各所にみられ、金山東(かねやまひがし)・金子山西平(かなこやまにしひら)・鍛冶ガサコなどの地名が残る。中世から近代初期まで採掘が行われていたとされるが記録などは残されていない。
 当村と付近の三原村・広山村・久保村の4か村が江戸前期から幕府領とされたのは、当地に弦谷鉱山があったことによる。天保6年(1835)の大火で35戸が消失、残り1戸。
明治22年大広村の大字となり、昭和30年からは三日月町の大字となる。





■三原(みはら)
 千種川支流弦谷川最上流域。弦谷村の南、標高300mの高原台地上にある浅い谷間に立地する。志文川と鞍居(くらい)川の分水界をなす。東は揖保郡下莇原(しもあざわら)(現新宮町)、南は赤穂郡金出(かなじ)村(上郡町)。
 三原は、鎌倉期からみえる地名。正応2年(1289)の快円・源有家配分状案に「当(播磨国)〈椙原・三原〉と見え、快円分の所領に含まれている。次いで、永仁5年(1297)当地などの快円から嫡子幸松丸に譲渡されている。
 明治22年大広村の大字となり、昭和30年からは三日月町の大字となる。三原は、播磨科学都市公園に隣接している。




◇今回の発見
 今回の3つの村と久保をあわせた村は江戸上期から幕府領となった。それは弦谷鉱山があったからといわれる。弦谷の小字には中世からの鉱山に関わる地名が残る。

地名由来「末広・東新宿・久保・島脇」 

2019-12-26 10:52:56 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「末広・東新宿・久保・島脇」   三日月町(現佐用町)

(2010.10.4~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■末広(すえひろ)
 千種川支流志文川下流域。地名は当地が多賀登山を擁して明治9年合併した旧3か村(東新宿・久保・島脇)が扇形に広がっていることにちなむという。



■東新宿(ひがししんじゅく)
 単に新宿とも称する。千種川支流志文川下流域。乃井野の南西、志文川北岸の河岸平地と後背の山地に立地する。「播磨風土記」の讃容郡中川里(さよぐんなかつがわのさと)や「和名抄」の佐用郡中川郷のうちに否定され、地内に古代美作道の中川駅が置かれていた。元禄10年(1697年)三日月藩主森家が入封の時、はじめ当地の後藤家に滞在したことにより新宿といわれるといい、東を冠するのは同郡内(上月町)に同名村(西新宿)があったため、ただし、元禄年間以前に当村名があったことが知られる。
 文安3年(1446)の室町将軍家御教書に「佐用郡中津河新宿」とみえ、中津河新宿の住民らが播磨国荏胡麻商売権を免許されていた大山崎神人の権益を侵して油の販売を行い、度々の停止命令にも従わないので幕府は播磨守護山名持豊に油器の破却を命じている。中世には新宿と称され、市庭があったと思われ、地内に北市ノ上(きたいちのかみ)・南市ノ上の地名が残る。慶長国絵図に「新宿町」「池上」がみえる。池上は市ノ上に比定される。
 神社は十二世(じゅうにせ)神社。堂庵は大日堂・定栄庵。当地の後藤家は大庄屋であった。



■久保(くぼ)
 千種川支流志文川下流域。東新宿村の南、志文川南岸に位置する。集落の後背山地は急斜面をなし、頂上含んで高原状をなしている。地名は、久保は窪のことでくぼんだ所の意によると思われる。慶長国絵図には窪村とみえる。江戸前期から幕府領とされたのは弦谷(つるたに)鉱山との関係による。多賀登山麓に宮山があり、八幡神社が祀られている。




■島脇(しまのわき)
 千種川支流志文川下流域。東新宿村・久保村の西、志文川河岸段丘と後背山地に立地する。南端を美作道が通る。地名は、丸山が志文川に島のように突き出ており、集落がその脇にあることにちなむと思われる。北方の丘陵地に古墳時代の群集墳と地中に堀込んで作った登窯があるが未調査。





◇今回の発見
 播磨風土記にある讃容郡中川里の中心が(東)新宿一帯であった。今回の紹介の3村は三日月町の東部に位置し、明治9年合併し末広村と名付けられた。ちょうど扇のような地形からきたという。


地名由来「春哉・志文・真宗」

2019-12-25 11:31:50 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「春哉・志文・真宗」         三日月町(現佐用町)

【閲覧】1168件(2010.10.1~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)







■春哉(はるかな)

 千種川支流志文川中流域に位置する。乃井野村の北に位置し、志文川がおおきく屈曲する地点の右岸丘上に本集落がある。慶長国絵図には「はるかの」とみえる。
 地名は次のような北条時頼の廻国伝説にかかわる。当時はもと志文の一部で、下志文といった。鎌倉期に一人の旅僧が雪で難儀し、一夜の旅を求めたが病でたおれ、三ヶ月滞在、1体の木像と、「深雪にもあさる雉子はほろほろゝを掛にけり なれか心はいつも春哉」の歌を残して立ち去った。その後旅僧はあとで時頼とわかり、その旅僧の木像を祀り、寺を最明寺と名付け、集落名を春哉と改めたという(播磨鏡)。
 寺蔵の鎌倉後期作の木像北条時頼坐像は国指定重要文化財。最明寺は、「三ケ月の最明寺」として知られ、多くの来訪者がある。




■志文(しぶみ)

 千種川支流志文川中流域に位置する。春哉村の北、志文川が曲流する上流域に位置する。集落は両岸に点在する。年貢米などは揖保川筋の今宿村出石河岸(山崎町)へ道程4里、網干浦(姫路市)に津出しした。当村六地蔵は百姓一揆の処刑とかかわるという伝承がある。
 



■真宗(さのむね)

 志文村の北、志文川が屈曲する上流域の谷間に位置する。金山・中野・問村(といむら)・上真宗の4集落がある。北は宍粟郡土万村・葛根村(現宍粟市山崎町)に接する。
 金山には鉱山があったと伝え鉄滓(てっさい)がみられる。中世には採掘されていたと考えられる。字垣内に室町時代中期の宝篋印塔・五輪塔・一石五輪塔が残る。
 ※地名の由来は、真宗という名田の名からきたとする説がある。





◇今回の発見
 今回は、志文川中流域にある春哉、志文、真宗と興味ある地名がそろった。
 春哉は、北条時頼が執権職を退いたとき廻国の途次当地に立ち寄ったときの歌に由来し、最明寺も時頼の道号から名づけられたという。そういえば最明寺入道とは、時頼の出家の名である。