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郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

ぶらりふるさと地名考「山崎」 

2020-03-20 10:21:08 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)

地名から探る山崎(町)の歴史
 
 山崎という地名は山端の突き出したところという地形によるものです。全国には多くの同名の地名が存在しています。江戸時代に編さんされた地誌『宍粟郡誌』(片岡醇徳著・宝永五年(1708)によれば「是は一郡の都会なり郡府と云うなるべし」とあり、四方の谷の要で交易の便がよい場所として、山崎は江戸時代を通じ宍粟郡の最も栄えた町となりました。それを感じることができる写真が残されています。それは明治後期最上山から南に向かって撮ったものです。そこには城下町の町屋の屋根が東西に連なり、写真中央の山崎小学校の向こうには城下平野の田園が広がっています。
この山崎町が形成されていった中世・近世の時代を残された地名から探っていきたいと思います。
 



 
▲最上山より南の展望 中央に見えるのが山崎小学校の運動場
 

 

篠ノ丸周辺に残された中世の地名

 山崎町の門前と横須にいくつか目を引く地名があります。それは篠ノ丸(通称一本松)周辺地で、門前の「古屋敷」、横須の「屋敷」、「上屋敷」そして篠ノ丸頂上の「笹(篠)ノ丸」です。篠ノ丸頂上とその麓に残されたこれらの地名こそが、篠ノ丸城を拠点に宍粟郡を治めた宇野氏ゆかりの地名です。

   これら屋敷を含んだ地名は、篠ノ丸城の大手・搦手を守るための屋敷と考えられます。山崎八幡神社(門前)の場所が「東大王寺」、神社の境内の西の谷筋が「大王寺」という小字が残っています。大王寺という寺は、史料による裏付けはないものの宇野氏の菩提寺ではなかったかと推測されます。嘉吉元年(1441)に起きた嘉吉の乱(赤松満祐による室町幕府第六代将軍足利義教の殺害)の後に宇野氏が退いた場所に八幡神社が移転し建立されたと考えられます。八幡神社社記によると、応仁元年(1467)に遷座したとあり、そのとき境内のモッコク(推定樹齢六百年)がすでに存在し、以来神木とされました。
 


 
▲門前村字切図(書き込みあり)
 



宍粟藩主池田輝澄による山崎城と城下町造営に関わる地名


 天正8年(1580)宇野氏が羽柴秀吉に滅ぼされた後、龍野城主木下勝俊が宍粟郡を治め、「新町申付」により町への転入を促す施策を打ち出し、当時篠ノ丸南麓には「山崎村」と「山田村」の二つの農村があり、この二つの村を結ぶ一筋の新町が生まれました。
関ヶ原の戦いの後播磨は池田輝政が治め、代官を置きました。
 その後輝政の四男輝澄が元和元年(1615に宍粟藩主となり居城を新町の南の河岸段丘上に定めました。この場所は天文年間、出雲の尼子氏が播磨に侵入し、一時支配したとき砦を築いた地と言われています。山崎城は、大手を北に、北東西の三方に武家屋敷を配し、その北方に町屋敷をつくり、商工業者の居住地としました。武家屋敷と町屋敷の間には外堀を設け、土塁、石垣により厳重な境界を敷いています
 


武家屋敷の地名のゆらい

 武家屋敷には、清(志)水口、江戸町、東桜町、本多町、三軒町、西桜町、六軒町、通り町、中ノ町、松原町がありました。城内は郭内と呼ばれ、明治8年より鹿沢と改称されました。

清水口は武家屋敷東端で、清水の出る場所があった。
江戸町は江戸詰の藩士の屋敷があった。
東桜町は武家屋敷を東西に抜ける道の東方をいう。
本多町は藩主本多の屋敷に面する通りにあることによる。
三軒町は大手道の西の通りで三軒の大屋敷があったことよる。
西桜町は武家屋敷を東西に抜ける道の西方をいう。
六軒町は南北の道を挟んで六軒の屋敷があったことによる。
通り町は武家屋敷内の土橋門と鶴木門を結ぶ道で、庶民の通行が許され、城下方面の人々の通行が多く、城下町の入り口にあたる西新町・本町が最も賑わった所と言われている。
中ノ町は「通り町」と「松原町」との間にある町からによる。
松原町は武家屋敷の西端にある。
 


 

▲「天保山崎藩之図」に書き入れ
 


町屋の地名由来

 城下の町屋は、時代とともに発展・整備され、西新町、本町、山田町、福原町、北魚町、寺町、紺屋町、伊沢町、富土野町が生まれ、元禄17年(1704)の大火の後、出水町が加わり、十町になりました。現在の字表示山崎町山崎番地がこの十町にあたります。
 
西新町は宍粟藩主池田輝澄の時代、佐用郡が加増された時にできた町。佐用郡から多く人が移り住んだため一時佐用町(さよまち)と呼ばれた。
本町は町の中心地で始め中ノ町と呼ばれていたが、本町と改称。
山田町は山田村から発展した町で、本町の東隣りの町。
福原町は、当初高野町と呼ばれていたが、藩主池田輝澄の家臣福原小左衛門がこの場所に居住後に、いつしか町の名となる。
北魚町は名の通りの職人町。なお西魚町が西新町内の土橋(どばし)御門前にあることが延宝8年(1678)頃の山崎構図に記載があり、魚町が北・西として区別して存在していた。
寺町は名の通り。大雲寺が建立された当初は大雲寺町と呼ばれた。
紺屋町は染物業の職人町。
伊沢町はこの町の先が伊沢谷に通ずることによる。籠野町(かごのまち)ともいい、一角に茶町(ちゃまち)と呼ばれた一角があった。 
出水町は元禄17年(1704)の大火の後、区画整理されできた町で、防火用水などの対策がなされたものか。
富土野町は一宮の富土野鉱山に通ずる道筋にあたることによるか。
その他の関連地名
上ノ丁は西新町の裏通りにあり、歩行町(かちまち)であった。現在の元山崎。
田町は城下町形成の際に、町内居住の農民を、現在の「山田」の地へ移転させ農人町ができた。地名は田んぼの中にできた町から。



 
 
 

参考:『山崎町史』、『宍粟郡誌』、『角川日本地名大辞典』、『兵庫県小字名集』
 
※この記事は山崎郷土会報NO.133 令和元年8.25付より転載しています。


【関連】
ぶらり山崎地名考シリーズ 
山崎
https://blog.goo.ne.jp/takenet5177/e/754582cfebc5d6317de3ba2a306bc4f7
城下
https://blog.goo.ne.jp/takenet5177/e/a089c2e1bb8e953b18d31c1190b31eed
戸原
https://blog.goo.ne.jp/takenet5177/e/f492e73d80e81224f36e9debb4f5d13d
蔦沢
https://blog.goo.ne.jp/takenet5177/e/264943cf152b4d8c1fb9db2c49e9d27a
河東
https://blog.goo.ne.jp/takenet5177/e/098e300c30fd6cbd5bae6163454592df

地名の由来「宍禾(粟)郡に7つの里
https://blog.goo.ne.jp/takenet5177/e/4e662b303138c3edd1a052a9d2ddfd10

ぶらりふるさと地名考「宍粟」

2020-03-19 09:41:37 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
【閲覧数】305件(2010.2.28~2019.10.31)                                  


宍粟は肉や穀物の豊かな地


 宍粟という地名は、『播磨国風土記』(奈良時代前期)にこの地名が登場します。風土記成立時すでに長老の言い伝えとなり、イワノオオカミとアメノヒボコの二神によるユーモラスな土地の争奪戦によって地名が生まれていったことが記されています。ちなみに宍(肉の異体字)は、動物の肉、粟(禾)は、穀物を表し、狩猟と農耕の盛んな地で肉や穀物の豊かさを二字で表現したと考えられます。
 宍粟の表記は、風土記には「宍禾郡」とあり、しさわのこおりと読みます。飛鳥池遺跡や平城宮跡で発見された木簡には「宍禾郡」と「宍粟郡」の二つの表記があります。その後「宍禾」が「宍粟」に統一され、 読みが「しさわ」から「しそう」と変化していったようです。



  

※木簡は、地方から朝廷への税として運ばれた物産の荷札に使われた。



 天正年間(1573~1593)羽柴秀吉が播磨を制圧し手柄を立てた家臣宛ての感状や知行状には完粟郡と書かれています。その表記は江戸時代にも引き継がれます。
 今から40年前、初めて手にした山崎町史(昭和52年発行)の冒頭のカラー頁に「完粟山崎之絵図」とあり、思わず誤植かと思ったことを今も覚えています。



県外にある二つの宍粟


 一つは、岡山県で偶然見つけたのが宍粟の標識。それは総社市北部、高梁川の中流東岸にある小さな集落です。この地区は宍粟の古名と同じ「しさわ」と呼んでいます。これは単なる偶然の一致ではなく、古代播磨国から吉備国へ何らかの目的のための職業的集団移動があったと推測しています。
もう一つは、北海道に宍粟という地名が残されています。明治27年(1894)蝦夷地と呼ばれた北海道石狩平野の篠津原野に開拓団として骨を埋めた宍粟郡出身の人たちの足跡です。



合併に伴う市名改正の問題点


 平成の大合併に伴う市名変更に「何、それ」と思うような市名の出現が目につきました。市名のイメージアップをねらうあまり、隣の市町に迷惑をかけたケースもありました。今思うに、市名を一部の人で決めるのは論外ですが、民主主義だといって公募で決めるのは必ずしもいいとは言えません。市名変更に関しては、国が指針を設けることや有識者が幾つか提案し、その理由を示したうえで、住民がそれを参考にして選ぶという方法もあったと思います。少なくとも今を生きる住民は、伝統的地名をおろそかに扱うことなく、後世に伝えていく責任があります。
 さいわい、宍粟市は宍粟郡を継承してよかったと思います。ただ歴史的観点から言えば、宍粟郡の七つの里(御方里・みかたのさと、雲箇里・うるかのさと、柏野里・かしわのさと、高家里・たかやのさと、石作里・いしつくりのさと、比地里・ひじのさと、安師里・あなしのさと)の安師里の大部分を占める安富町が姫路市に合併したため、宍粟郡五町の完全合併に至らなかったことが悔やまれます。






 『安富町史 通史編』より(一部修正を加える)


地名は成り立ちを知る「小さな文化財」


 宍粟市は、「日本の珍名」(竹内正浩著)において難読地名の西の横綱に選ばれたことで話題になりました。
 読めない、書けない、どこにあるかわからないと揶揄(やゆ)された宍粟市ですが、春の千年フジや秋の最上山もみじまつりには年々多くの観光客が訪れ、宍粟市が広く知れ渡っていることを嬉しく思っています。同時に初めて訪れる人のほとんどが最上山を「もがみやま」と読みます。展望台の下にあるお寺の正式名は最上稲荷山経王院(さいじょういなりさんきょうおういん)で岡山県の最上稲荷の遥拝所でもあり、地域住民はお寺のある山を親しみ込めていつの頃からか「さいじょうさん」と呼んでいます。
 宍粟の読みや表記の変遷も歴史です。地名は風土の一片として地域の成り立ちを知る有力な手掛かりになります。それゆえ「地名は小さな文化財」といわれるのです。歴史の重みのある宍粟にはたくさんの有形・無形の文化財があることを知って世に伝えていきたいものです。



参考:『日本地名大辞典(兵庫・岡山・北海道)』、『石狩平野 篠津原野への挑戦』、『安富町史』、「もうひとつの宍粟 岡山県総社市」(web)

※山崎郷土会報No.132 平成31年2月23日発行より転載(図カラー化)

山河と地名は面白い

2020-03-18 08:49:54 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
【閲覧数】3,250件(2012.9.21~2019.10.31)




 平成21年(2009)10月より地名の由来のコミュニティを立ち上げ、約1年ほどかけて紹介しました。それ以来多くの方に見ていただいていることは、郷土の歴史に対する関心の現れで、そのお役にたっているとすれば嬉しく思います。

 今回、最近感じていることや、平成の合併の新市町名のことについての思いを書いてみました。



◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇


山河と地名は面白い


 地名は歴史を物語るということを、地名のゆらいを探っているうちに少しずつ理解できるようになった。そうなってくると、知らない町に出かけたとき、まず最初に目につくのは山河と地名である。

 そして大きな寺や神社のそばを通ったとき、その名称や由緒を知りたくなり、覗いてみたくなる。また珍しい地名に出会ったとき、メモや記憶に留め、あとで調べる習慣が身についてきた。後日、その由来を探って、少しわかった気になり、その地域への愛着や親しみが生まれ、現地の人とのはじめての会話が旧知の間柄のようにはずむことがある。それは、通りすがりのよそ者ではなく、仲間として受け入れて頂けるせいなのかもしれない。



新市名の命名に疑問


 古代から伝わる歴史ある多くの地名が平成の大合併によって変容していることを最近気づかされた。地名は次世代につなぐ小さな文化財であり、まして、その代表格の市町の命名については、よくよく考える必要があった。引き継がれてきた地名の歴史を知らないで、新市町名を思いつきで名付けるのは論外で、それは地名遺産を踏みにじることにつながるからだ。



市町村の数が激減



 『こうして新地名は誕生した!』楠原佑介著によると、120年前の明治の中期には、日本には7万余りの村や町があったが、それが明治22年(1889)の町村大合併、昭和28年(1953)年からの町村合併促進法による合併、そして今回の平成の大合併を経て、なんと40分の1の1,700にまで減少したという。   ※平成22年(2010)現在 総数1727(市786、町 757、村184)

 こういった自治体合理化政策は欧米社会ではなされていない。ちなみに、十数年前のデータだが、フランスでは、基礎自治体数は36,000余り、アメリカとドイツは16,000代、小さな国土のイギリスですら12,000、日本より少し小さなイタリアでも8,000の村や町がある。日本の町村の合理化は無茶苦茶で愚策と著者はいいきっている。他国の実態は知らなかったが、合併は先進国では異例のことだという。



新市町名の評価基準



 地名に造詣の深い著者は、平成の合併の263新市町名を紹介し、2つの基準「合併区画全域を過不足なく表現したもの」と「より古い時代から使われたもの」により、上から順に◎〇 △ ✖で評価を下している。

  最下位のの評価は半数近くの123市町村もあり、その中で特に問題をもつ23の市町村について著書に詳しく論じている。逆に◎については、1割弱ほどのたった15市町にしか与えていない。では我が宍粟市はどうだったのか。

 その前に、具体的な市町名は出さないが、何がよくて何が悪かったかという点をまとめると、次のようになる。

◎ よい地名

古代から伝わる郡名を継承する地名

✖よくない地名

・僭  称   国名(日本)、旧国名、県名、郡、市等の広域の地名を利用する。 

      例えば宍粟市が、「西兵庫市」・「西播磨市」と名づけるようなこと

・借用・流用 合併区域内にある有名な地名(島・海・山河名称を含む)を使う。

      例えば宍粟市が最高峰の氷ノ山にちなんで、「氷ノ山市」と名づけるようなこと。
  

・盗  用   近くの有名都市名を使う。京○○市

・かな書き  宍粟市を「しそう市」とかな書きとする。

・合  成   合併する町の頭や一部 を並べる。
      例えば、山崎町・一宮町・波賀町・千種町との合併で「山一波千市」と名づけるようなこと

・上記+方位・位置区分 東・西・南・北・上・下

 ちなみに宍粟市は、古代郡名継承ということで著者が選んだ数少ない15の◎のうちの一つにはいっている。 



新市町をたどる旅へ



 人名は百年で終わりになるが、市町名はそうはいかない。以上のことを頭に入れて、これから訪れる秋の夜長、机上に新しい都道府県図を置き、新市町名称をたどる旅をお勧めしたい。


2012.9.21

地名由来「若洲・奥海」

2020-02-01 09:29:21 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「若洲・奥海」  佐用町(現佐用町)

【閲覧数】2,321 件(2010.12.7~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)








■若洲(わかす)
 若洲は、江戸期には真村(さねむら)といい、美作国吉野郡に属していた。同郡上石井村の北、佐用川に合流する枝谷(真川)の谷間にある。周囲の山地は標高500m以上である。北は同郡青野村(現岡山県東粟倉村)。地名は、古語のホトに通じる地形による。
 嘉永7年(1854)には田地の一部に崩落が起き、吉野郡下町村(現岡山県大原町)代官所へ損地普請願が出されている。

 氏神は倉雄(くらお)神社で、夏祭りの茅の輪くぐりが行われる。明治9年岡山県に所属。明治22年石井村の大字となる。昭和30年佐用町若洲となる。



▼若洲の小字図








■奥海(おねみ)
 美作国吉野郡に属し、同郡桑野村の北東、佐用川支流庵川(いおりがわ)の源流地帯の日名倉山麓に立地。周囲は標高500~600m台の急峻な山地である。東は播磨国宍粟郡船越村。
 地名の由来は、古代社会では、日名倉山を神格化し、尾根霊といったことに由来する。古くは千号寺があったらしく、小字名として残る。

 氏神は奥海神社。作州吉野郡西粟倉村栗倉神社の分社である。明治9年岡山県に所属。明治15年松齢小学校第二分教場設置。

 明治22年石井村の大字となり、昭和30年頃から養蚕・畜産業に精励、特に製炭業に力を注いだ。昭和初期鉱山が開かれたが、数年後に閉山。昭和44年日名倉山一帯を氷ノ山後山那須山国定公園に指定。





▼奥海の小字図





◇今回の発見
佐用には海のついた地名が、この奥海と、この南にある海内(みうち)の2つがある。初めてでは、どちらも難読の地名。海の字が使われるが、海にまつわる地名ではない。



▼若洲の小字図

地名由来「青木・上石井」

2020-01-31 12:08:12 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「青木・上石井」  佐用町(現佐用町)

【閲覧数】1,936件(2010.12.3~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)






■上石井(かみいしい)
 美作国吉野郡に属し、同郡青木村の北、佐用川の上流域の標高500m台の山間の谷間に立地する。西は同郡西町村(現岡山県大原町)。
 地名の由来は、播磨国風土記に記載の伊師は、旧石井村をさし、川の底(しり)が床(いし)のようであるから伊師というと説明し、その上流にあたるところを上石井という。

 山間地で日照不足による冷害に悩まされることが多かったが、弘化2年(1845)、安政4年(1857)悪天候による凶作のため救済嘆願書が出されている。明治初年頃に東町分を分離したが、同5年再び合併。同14年青木村を合併、東町分は再び分離して西町村に合併。 
 氏神は八幡神社。寺院は真言宗相応寺。明治9年岡山県に所属。明治14年青木村と合併。明治22年石井村の大字となり、昭和30年からは佐用町の大字となる。

    明治30年頃から畜産・養蚕・製炭業に従事する者が多く、コンニャク玉栽培も盛んになる。明治32年下石井の一部児童を平福小学校へ委託。を営み、農家の収入源となり、昭和25年頃まで続いた。



▼上石井(青木を含む)の小字図






■青木(あおき)
 美作国吉野郡に属し、同郡下石井村の北、佐用川上流域の谷間に位置。両側の山地は標高400m台。西は同郡西町村(現岡山県大原町)。
 地名は、通行人の目印になる大きな木(大木)に由来するという。中世石井荘を支配した小守氏館跡と伝える構えの段があり、また、小守次郎太夫の墓も当地にある。

 明治9年岡山県に所属、明治14年上石井村と合併する。







◇今回の発見
上石井村・青木村は、古くは、美作国大原町に通じる標高400m~500mの山間の谷間で、江戸期には冷害に悩まされていた地域。今は日名倉山域を中心とした自然環境を生かした施設「ゆう・あい・いしい」が建設された。