僕はペンキ画家のSHOGEN。
6色のペンキを使ってティンガティンガというアートを描いている。
なぜ6色か。
人間がいちどきに直感できる数は6個まで。
これは生活も一緒。
物にあふれていると、本当の心の中の中心に迫れなくなる。
僕は、このアートを習うためにアフリカへ行ってきた。
しかし、まさかアフリカでこんな不思議な体験をするとは思いもしていなかった。
そもそも僕は化粧品会社のサラリーマンであった。
ある日、京都の街を歩いていたら白い壁に1枚のペンキアートが飾ってあった。
それを見て直感した。
もともと絵を描くのは好きであったが、「これで生きていくやろ?」って言われた気がした。
どこの絵なのか持ち主に聞いてみたらタンザニアだという。
「よし、もう行くしかない!」
僕は、石橋を叩いて渡るような慎重な性格であったが、その絵に出会った日の夕方に1か月後のタンザニア行きのチケットを購入していた。
そして、翌日退職届を出した。
タンザニアに到着して、まず、ティンガティンガを描いている工房「ティンガティンガ村」を訪ねた。
そこで、ノエル・カンビリという40歳くらいの男性の先生が声をかけてくれた。
「ここで絵を習うことはできるが、ヨーロッパの人が買い付けに来る場所だから受講料が高くなる。
もしよければ、俺が住んでいるブンジュ村で一緒に絵を描かへんか?」
先生はなぜ僕に声をかけてくれたのか。
「日本人だからだよ」
「?」
村にたどり着くと、まず村長にあいさつに行くように言われた。
この村に入るためには条件があった。
幸せの3か条が理解できれば入れるとのことだった。
「まず一つ、ご飯が食べられるときに幸せを感じられるか
二つ目、ただいまと言ったらおかえりと返してくれる人はいるか。
これは家族でなくてもかまわない。
三つ目、抱きしめられたら暖かいと感じる心があるか。
この3つがあなたの心の中にあったら、村に入りなさい
ただし、一つだけルールを守ってほしい。
友達とけんかしてしまった、村人といざこざを起こしてしまった。
その時には必ずその日のうちに解決しなさい。
言い合いをしている姿を子供たちに見せてはならないから。」
そして、僕は村の中へ入っていくのだが、やはり言い合いはおきるものである。
20歳くらいの青年と価値観・文化の違いで言い合いをしたことがあった。。
朝から昼過ぎまで言い合いしてしまった。
「SHOGEN、夕方になったら海へ来い。」
夕方、海へ行ってみると、彼は言った。
「腰まで海につかってそのまま待て」
お互い20mほど距離をもち、待った。
夕方6時ごろであったが、夕日が沈んできて、彼と僕との間に夕焼けの水面ができた。
「これ、なんやと思う?
これ、暖かい境界線やで。
もう要らん言い合いとかいざこざは終わりにして、一緒に帰ろう。
SHOGEN、人っていうのは自然から生まれてきたやろ。
だから、人っていうのは圧倒的な自然に飲み込まれたときに、全てのことを許せるんやで
どんなにムカつく相手でも暖かい境界線っていうのがあるのって知ってた?」
僕は絵を上手に描けるようになるためにこの村へ来たのだが、それ以上のものを学ぶためにこの村へ来たのだと次第に感じるようになっていった。
僕はこの村に1年半滞在したが、こういったことをこんこんと語られる毎日を過ごした。
この村に来た日本人はまだいない。
僕が初めて。
なのにこの村には日本人の文化が色濃く反映され、村中に浸透していた。
どういうことか。
村長曰く、
「わたしのじいちゃんはシャーマンだった。
そのじいちゃんがよく夢の中で日本人とつながっていた。
みんなで幸せに生きていくためにはどうしたらいいのか
自然と共存していくとはどういうことなのか
生きていくうえでの大切なこと全てを日本人から習った。」
僕は村長に質問した。
「それはどんな生活をしていた日本人だったんすか?」
「その夢の中に出てきた日本人は、穴を掘って竪穴式住居に住んでいた。
その穴の中に入ってしゃがむと目線がありんこと同じ目線になった。
大地と同じ目線になった。
そんな人たちから教えてもらったんよ
その人たちは女性をモチーフにした土器をたくさん作っていた。
1万年から1万5000年続いた時代。
死んだ人に刺し傷や切り傷のない、愛と平和で溢れていた国。
そんな時代の日本人に教えてもらったんだよ」
村長は日本の地図も書いてくれた。
そこには今の日本が描かれていたが、日本海は海ではなく大きな湖だった。
近所にザイちゃんという3歳の女の子がいた。
僕がご飯をいっぱい食べた後、その子が近づいてきて言った。
「歌わへんの?」
「どういうこと?」
「いやいや、おなかいっぱいになったら嬉しいでしょ。
嬉しかったら歌うやろ。
心が喜びにあふれたんだったらそれをちゃんと感情表現しないと、生き物としておかしいし、体に良くないでしょ?
日本人なのに不思議だね」
村人たちの中では、日本人には日常にあふれる小さな喜びを拾い上げるプロのイメージがあるという。
「息を吐くとき、吸うときの自分にものすごい喜びを感じていた。
朝起きてはだしで外に出るときの一歩目、つま先が地面を踏む感触を愛していた。
顔を洗うとき、手で水をすくうでしょ?
この手の形、丸みというのはなんて美しくてかわいらしいんだろうってことをちゃんと自分に語り掛けていたんだよ。
常に心が満たされていたんだよ
それが日本人だよ。
SHOGENを見ているとひやひやするよ
自分を置いてけぼりにする瞬間をよく見るよ。
困っている人を見つけたら助けようとするのはすごいよね
でもね、世界中の人の心の中には喜びのグラスというのがあるんだよ
そのグラスが水で満たされていっぱいになって溢れた分を人にあげることができるんだよ
今のSHOGENのコップはすり減って枯れてるよ
コップが枯れてるのに誰かのために何かをしてあげようとするとトラブルが生まれるよ
まずは自分の心を喜びで満たそうね
それを本来あなたたちは出来ていたでしょ?」
このように言うのはザイちゃんだけではなかった。
村中の人がそのように言っていた。
そして、そのように生きていた。
僕は、会社員を辞め、タンザニアのブンジュ村へ絵を学びにきていた。
タンザニアで、僕に声をかけてくれたのがノエル・ガンビリ先生だった。
僕はブンジュ村にある先生の家に居候させてもらっていた。
先生には、エンジョちゃんという3さんの娘さんがいた。
エンジョちゃんは、近所の3歳の女の子ザイちゃんと親友だった。
そんなわけで、僕は3歳児と遊ぶことが多かった。
大人は子供を教育しなければならない。
僕は、しばしば「ただいまって言った?」「ありがとうと言った?」と説教がましい言葉をかけていた。
ザイちゃんは不思議そうな顔をして僕のところに近づいてきて、僕の腕をぐっとつかみ言った。
「SHOGEN、肌と肌が触れ合うっていうことが温かいっていうことが分かっていて、私にその言葉を言ってる?
SHOGENの言葉には体温が乗っかっていないから、私には伝わらへんわ
SHOGENはお母さんから抱きしめてもらったことがないんでしょ?
私が抱きしめたげるわ」
そして、抱きしめながら3歳のザイちゃんは言った。
「日本人としての想いをちゃんと思い出してね」
後日、村長からも言われた。
「日本人が大切にしていたのは、
抱きしめるように話すこと
言葉に体温を乗せること
言霊を乗せること。
抱きしめるように話すとはどういうことか。
SHOGEN、ちょっとついてきなさい」
村長は僕を夕焼けの丘に連れて行った。
オレンジ色にピンクが混じったサーモンピンクの夕焼けだった。
「SHOGEN、手を前に出してみ。
このきつくもなく冷たくもない暖かいオレンジ色に体が染まっているのが分かるか?
抱きしめるような、というのはつまりこの夕焼けのオレンジ色のことを言うんやで。
これは日本人が本当に大切にしていた色なんや。」
村の人たちは、日々僕に色々なことを教え、気づかせてくれた。
逆に村の人たちは動揺していた。
「この人、ほんま日本人?やばくない?
君みたいな日本人が今日本には溢れてるの?
抱きしめて話すってことも理解できない、
心にも余裕がない。
日常に溢れる小さな喜びを拾い上げられたのが日本人だったのに、そこに目を向けようともしない。
大丈夫?」
このようなことを、僕は毎日言われた。
中には、心配しすぎて泣いてしまったおばあちゃんもいた。
村長からも言われた。
「初めて会った日本人がSHOGENというのは残念だよ
あんたは心にゆとりもないし、本質に向かえてないし、本当にあんたは日本人なのか?」
ブンジュ村では、「今日、誰のために生きる?」とあいさつをする。
「おはよう、SHOGEN。今日は、誰の人生を生きる?わたしはわたしの人生を生きるよ、また夕方あおうね。」という挨拶もあった。
村長曰く、
「これが本来の日本人の挨拶だった
自分の近くにいる大切な人のことを思うがゆえに、まずは自分の心を喜びで満たしていた
それがあんたたち日本人だった。
自分が自分の一番のファンでいてあげること。
これをとことんまで追求する。
日常に溢れる所作を愛することを、”練習”として小さいころからやっていた。」
「SHOGEN、日本に帰ってこの村で学んだことを日本人たちに伝えなさい。
2025年7月5日、それまでに日本人が本来の感性を取り戻す必要がある。
怖がることはない。
明るい日本の未来が待っている。
ただし、今までお金とか権力とかで生きてきた人たちにとっては、生きづらい時代となる。
2025年までに、いかに人と心で愛を持って繋がれるのかっていうのが一つ重要なキーワードなんだ
今の日本人は無駄をはぶいて効率よく生きることを目指しているが、果たしてそれで本当に喜びを味わえるようになったのか?
人生を効率化したいなら、生まれてすぐ死ねばいい。
それが人生を究極に効率化した形だ。
「いかに無駄な時間を楽しむか」、これが人生のテーマだ。
SHOGEN、あんたが本当に喜びを感じたときはいつだ?
ちいさいとき、何に喜び、幸せを感じ、何にワクワクしていた?
もう一回、自分の本当の声に耳を傾けてあげなければならない。
それができれば、SHOGEN、2025年は、もっともっと喜びを味わえる時代となる。」
村長は言う。
「SHOGENは、ないものばかりに目が行く。
あの人と比べてこれがない、これが足りない。
本来の日本人はあるってところに目を向けていたんだ。
会話もできるし、呼吸もできてる。
外に出れば太陽の光を浴びることもできる。
あるってことのほうが多いんだよ。
あるってことに目を向けてると、人のいいところが目につく。
SHOGENは、ないってとこばかり見てるから、人のいやなところ、欠点ばかり目につく。
日本人は、あるってところに目を向けるプロだった。
血がつながっていない家族で生きていく必要があることを日本人は分かっていた。
その理由を言おう。
SHOGEN、あんたは発達障害だ(笑)
わたしも発達障害だ(笑)
世界中の人が発達障害。
誰でもできるところがあれば、できないところもある。
わたしたちは、でこぼこで作られている。
なんでか?
みんなで生きていく喜びを味わうためだ。
その核心を生きることができていたのが、あんたたち日本人だ。
思い出せ。」
村長から聞かれた。
「SHOGEN、二日前のお昼には何を食べた?」
僕は思い出せなかった。
「SHOGEN、食事はあんたにとっては作業なんだね。
食事が作業なら、あんたの生活そのものは作業だ。
あんたは、お昼ご飯のとき、そこにいなかった。
あんたのこころはそこにいなかった。
食べながら、次のことを考えてただろ。
わたしの孫たちもそう言っていたぞ。
SHOGEN、あんたは忙しい世界を生きてきた。
あんたを見ていると人生をこなしているように見える。
生きるとは、一瞬一瞬の今に自分の心が居てるかどうかだ。
SHOGEN、ちゃんと確認したほうがいい。
食事をするときも、絵を描くときも、自分はここに居てるのかどうかを。」
僕は村人たちから「ここにいない人」というあだ名をつけられていた。
「わたしの人生のイメージは、笑うようにいきる、だ。
村人たちを見てみろ。
みんな笑うように人生を生きているだろ。
それは、わたしが笑うような人生をイメージしているからだ。
人生はイメージどおりになる。
イメージングは、日本人たちが常にやっていたことだ。」
あるとき、子供たちが遊んでいた。
「僕も仲間に入れてー」
「だめー、SHOGENと話したくない」
「なんでや?」
「SHOGENの会話は面白くないから。
SHOGENの会話は作業の会話で溢れてるよ。
明日どこへ行く?
何をする?
何を食べる?
そんなの面白くないよ、話したくないわ。
この村では、みんなそういう会話はしてないでしょ。
それをして、それを食べて、心がどう感じたのか?
心がどう変わったのか?
そういう会話をしてるでしょ
SHOGENもね、こころの会話ができるようになったら、お話してあげるね
これって日本人が当たり前にできてたことでしょ?
パスポート見せてよ、日本人なの?」
僕はいつしか村人たちから、実は中東の人なのではないかと疑われていた。
村長から言われた。
「日本人には特殊能力がある。
虫の音をメロディーとして聞く力がある。
日本人とポリネシア人以外の民族が虫の音を聞くと、ただの雑音にしか聞こえない。
わたしには、牛の声も鳥の声も普通に聞くことができる。
しかし、虫の音だけは工事現場の音のように聞こえるのだよ。」
そういえば、京都の鈴虫寺は海外では騒音寺と呼ばれてたっけ。
「この世界中の中で一番自然から愛されていた人たちは、あんたたち日本人だ。
日本人は自然と向き合いながら、小さな虫の音まで耳を傾けていた。
ものすごく心に余裕がある人たちだった。
SHOGEN、そんなに心に余裕がないのに、本当に虫の音聞こえているのか?」
「聞こえてます」
「ギリギリやな…
しかし、日本人たちは、虫と会話をするために日本語を作り出したんやろうな
これだけは言っておこう、
この世が滅亡するときは、日本人が虫の音を聞けなくなった時だ
だから、わたしはあんたにお願いする
日本人たちに日本人のプライドを取り戻してもらいたい
世界中が物質的豊かさを追い求めた結果、自然破壊、環境破壊が進んだ
精神にも異常をきたし、うつや自殺者も増えた
これが物質的豊かさを求めた先にあるものだ
これからは心の時代だ
心の時代になったときにみんなを引っ張っていくのが、あんたたち日本人となる
もっとプライドを持て
血の中にある記憶を思い出せ
あんたたちには、争いのなかった縄文の血が流れている」
村長や村人たちの話には、どことなく懐かしさを感じた。
わたしは毎日、自然と話す練習をした。
風にも葉っぱにも雨にも土にも話しかけた。
普通にあいさつして回った。
あるとき、テントウムシが僕にとまった。
少年がそれを見て、
「やっぱりそうやったか、みんな来い」
僕の周りは40人くらいの人だかりとなった。
わんわん涙を流しているものもいる。
「おじいちゃんの言っていたことは間違っていなかった。
虫は会話のできる人のところに飛んでいくと言っていた。
やっぱりお前日本人やったんやな」
古代日本人は、虫に手紙を託して伝えたい人のところまで届けていたらしい。
「SHOGEN、あの人のところに虫飛ばしてみて!」
「できないよ!」
「できんのかい!」
村長も言っていた。
「夢のなかで教えてもらった日本語がある。
ム・シ・ノ・シ・ラ・セ、だ。
はだしで大地の上に立って、両手を広げて五感を研ぎ澄まして自然からのメッセージをキャッチすることが、この言葉の意味だ。
残念ながらわたしたちは、ドラムをたたいて踊ったり、自分をトランス状態に持って行かないと自然とつながることができない。
わたしたちも日本人になりたかったわ
あんたたちがうらやましい」
僕は1年半後、アフリカから飛行機で帰国した。
飛行機から日本列島が見えてきたとき、村長の言葉を思い出した。
「この星80億人のうち、1億人が日本人であるというのは希望なんだ。」
僕は、ここに世界の希望となる日本人が1億人もいるんだと思ったら、涙がとまらなくなった。