新世界都市伝説ノート~事実の裏に潜む真実~

新世界が始まる…今までが崩れ落ちる…僕らは生まれ変わる。無限大のエネルギーを感じて…

ムー大陸はスンダランドのことだった!?海洋民族ラピュタ人の拠点は日本だった。

2023-09-11 14:45:52 | シュメール文明

プレアデス星団。

ポリネシア人にとって、星や風は、航海においてかなり重要な要素だった。

星や風を神聖視して生まれた行事にマタリキというものがあるが、マタリキとは、真冬のニュージーランドの早朝の空に現れる星団のことをいう。

マタリキは、英語ではプレアデス、日本語ではすばる、ハワイ語ではマカリイと呼ばれる。

プレアデスが見え始めるころが年の始まりと位置付けられたり、航海をスタートさせる合図ともなった。

「マタリキが南中に登るとき、赤道に風穴が吹く」という言い伝えがイースター島に残っている。

赤道付近には特殊な海流と風が吹いている。

赤道より北には、北赤道海流という東から西に向かって流れる海流がある。

赤道より南には、西から東に流れる海流がある。

それに挟まれるように、赤道無風帯というほとんど風の吹かない海域が存在していて、航海の難所とされていた。

マタリキが南中に登った時に、そこを通過するチャンスが訪れるとされていた。

豊富な経験から公開技術、知識体系ができあがり、古代ポリネシア人たちは、アウトリガー帆船という原始的な船で、ハワイからイースター島までの海域を縦横無尽に行きかうことができた。

古代ポリネシア人は、4500年前、東南アジアからやってきたとされる。

古代ポリネシア人の一部の人たちは、ラピタ土器を作っていた。

実は、東南アジアには、7000年前まで幻の大陸があった。

というのは、20000年くらい前は最終氷期で、海面が低くなりインドネシアあたりは一つの大陸のようになっていた。

現在のインドネシアにあるソロ川周辺で見つかった化石が、港川人と呼ばれる人たちのものであったが、港川人はもともと沖縄に住んでいた。

沖縄とスンダランドとは氷河期においても陸続きではなかった。

なので、湊川人たちには、沖縄とスンダランドを海で行き来できる方法があったということになる。

最終氷期(7万年から10000年くらい前とされる)のあと、温暖化が進むにつれ大陸が沈んでいき、スンダランドに住む人々は、北上するか南下するか選択を迫られた。

南下した人々は、ポリネシア地域へ移動し、ポリネシア人へとなっていった。

そして、ポリネシア人は、すでに持っていた高度な航海技術と、アウトリガー帆船を開発したことによって、世界の海へとはばたく海洋民族・ラピュタ人へとなっていった。

 

ちなみに、スンダランドがムー大陸のことだったとする説もあり、そうだとしたらラピュタ人がムー大陸の人々だった、ということになる。

幻の大陸が海底に没したならムー大陸、空へ上昇したなら天空の城ラピュタ??

 

超古代にこの海洋民族ラピュタ人が世界中を航海するうえで、なぜ巨石文化が必要だったのか?

それは水の確保のため、と武内先生は考える。

遠洋航海をするときにとても重要になるのが飲み水の確保。

当時、飲み水を手に入れる方法としては、雨水を溜めるくらいしかなかった。

そのため、長期間腐らない水と、それを入れておく器が重要となる。

その入れ物が、ラピタ土器。

土器の文化が発達した背景には、水の保管がある。

では、腐らない水とは何か?

水道水に塩素を入れて滅菌することはもちろん当時していない。

腐らない水とは、山から湧き出る水。

水に不純物が入っていない湧き水の確保は、遠洋航海を続ける上で必須条件であった。

どんな場所に湧き水がでているのかを見つけ、把握しておく必要があった。

湧き水がとれる森、山は重要であり、そのような場所を目指して移動を繰り返していた。

森や水が多く湧き水が豊富な地域と言えば日本。

日本が必然的に拠点の一つとなっていった。

北赤道海流から黒潮に乗って日本にたどり着いたラピュタ人たちは、水場を求めて上陸し、水場を見つけたらその場所に磐座(いわくら)を立ててマーキングした。

日本の磐座は、世界の巨石文化と比べても古いものが多い。

天草にある世界最大級のドルメンは6000年前のもの。

岐阜県の岩屋岩陰遺跡にある磐座は10000年前の縄文早期の遺物。

しかし、全ての巨石が水場にあるというわけでもない。

それらは夏至を崇めるためのランドマークであり、太陽信仰を表している。

氷河期が終わるころ、海面上昇にともなって太陽は大きく見えてくるという。

また、海が広くなったことで遠洋航海が可能となることが、太陽への感謝、崇拝へとつながったと考えられている。

実際、巨石の多くは夏至のライン上に並んでいたり、夏至の日の出の方角に向かって建てられていることが多い。

そして、ラピュタ人は日本だけでなく、世界中に移動し各地に巨石文化を残していく。

 

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超古代文化、世界はひとつだった。エンシェントワンワールド。

2023-09-09 22:21:19 | シュメール文明

「巨石文化は海洋民族によって世界中に伝播した。」と、ハーバード大学教授で米国碑文学会所長の故バリー・フェル博士は言った。

エンシェントワンワールド、古代の世界は一つの文明だった。

超古代の地球には巨石文化が存在した。

その巨石文化を、ある海洋民族が生み出した。

その海洋民族が世界中を航海して、巨石文化を世界中に広めた。

その海洋民族は「ラピュタ人」。

海洋民族ラピュタ人が作ったラピュタ土器などは、学説的にも認められているものである。

ラピュタというと、映画の天空の城ラピュタを連想するが、映画の中にもペトログリフや海洋民族の動きを思わせるシーンが存在する。

世界最古の遠洋航海を達成した「ラピタ人」。

今から3600年前にメラネシア(オーストラリアの上のあたり)に存在していた。

1952年、ニューカレドニアで発見された土器が、「ラピタ土器」と命名されたことから、この文化が「ラピタ文化」と呼ばれるようになった。

ラピタ土器は、縄文土器の曽畑式土器に似ている。

ラピタ土器は3600年前にできたとされる。

ところが、今から2800年前に突然作られなくなる。

言い変えると、2800年前にラピタ人は突然いなくなった。

なので、今でも謎の海洋民族として研究が続けられている。

 

バリー・フェル教授は、元々ハーバード大学の生物学の先生で、海洋生物学者として活躍していた。

ある時、ケルトの巨石文化に触れたことから、碑銘学や古代の碑文の解読に注力するようになった。

研究の成果として、エンシェントワンワールド、世界中を移動できた海洋民族がいて、その海洋民族を介して一定の文化が広まっていったという説が生まれた。

特に、巨石文化は海洋民族によって世界中に広められた。

エジプトのピラミッド、イギリスのストーンヘンジ、イースター島のモアイ像などなど。

およそ7000年前から5000年前から現れ始めたこれら巨石文化は、世界中でたまたま同時多発的に起こったものではなく、海洋民族たちが自分たちの持つ文化を世界中に広めていったものであった。

ピラミッドなどがどのようにして作られたのかは、もちろん不明。

ただ、巨石と共に刻まれている文字、ペトログリフの痕跡に着目していくと、そこに介在している民族が浮かび上がってくる。

 

武内一忠先生は、バリー・フェル教授の研究をもとにして、さらに世界や日本中にあるペトログリフを調査した。

10000年以上前の超古代世界に、ラピタ人の元となる海洋民族、ラピュタ人が存在し、海を縦横無尽に移動して巨石文化は広まったと、竹内先生は考えた。

 

世界最古の木造船は、4500年前のエジプト・クフ王の船「太陽の船」と言われている。

これは木を組み立てて作られた船。

丸太一本をくりぬいて作った船であれば、さらに古い船が日本にも存在する。

島根大学構内遺跡からは、その板材と思われる木材が発見されている。

さらに、中国では、8000年前のものと思われる丸木舟が出ている。

さらに、静岡県沼津市にある愛鷹山(あしたかやま)から大量に発見された黒曜石の原産地を調査したところ、伊豆の神津島(こうづしま)で採掘されていたことが分かり、それは38000年前の旧石器時代初頭の年代まで遡ることが判明している。

これは、人類史上最古の往復航海の証拠となる。

このように、海洋民族のような人たちは、相当昔から存在していたことがわかる。

 

ちなみに、アシタカは古代出雲族の末裔であるが、神津島には出雲の王「大国主」の息子である「事代主」がやって来たという伝説が残されている。

水の分配の会議を神津島で行っていたという。

出雲に関わりのある、あしたか山と神津島とで黒曜石の交易が行われていたことは興味深い。

丸木船が最も多用されていたのが、メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアといった南太平洋地域。

この地域では、丸木船を進化させてアウトリガーカヌーを使用していた。

丸木船の片脇か両脇に浮きをつけて、船を安定させていた。

このアウトリガーカヌーに麻で帆を立てた。

アウトリガー帆船を世界で初めて作ったのが、マオリ族をはじめとするポリネシア人だと言われている。

イースター島からハワイ諸島までを自由に行き来する技術を持っていた。

さらに、ポリネシア航法、スターナビゲーションと呼ばれる特殊な公開技術を持っていた。

天体、潮流、風の観測をすることで、現在地や方向を割り出すことができた。

この技術によって、南太平洋地域の人たちは、極めて広大な海域に点在する島々を行き来し、必要物資の交換などを行いながら生活をすることができていた。

彼らにとって、星や風はかなり重要な要素であり、神聖視されていた。

これが星神信仰につながっていく。

 

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50はエンリルの数字です。シュメール人と日本人。

2023-09-08 18:20:15 | シュメール文明

シュメール神話では多くの神様が登場するが、登場する順番によって番号が振られている。

宇宙万物の創生神がいて、その夫婦神から系譜が続いていく。

天神アン(アヌ)が頂点に君臨し、その位を表す数字が「60」。

妃のキは「40」

風神エンリルが「50」

エンキは「35」

などなど…

天神アンは、北極星と同一視されていた。

天体考古学では、このころの北極星は、「ツバン」と呼ばれる龍座のおなか付近にあるα星で、紀元前3000年ころから輝き始め、紀元前2730年にその輝きがピークを迎えた。

古代エジプトのセティ17世のピラミッドには、玄室の壁画に、「北極星ツバンが北斗七星を使って海の水を宇宙より分け与える」と書かれている。

龍座というところから、北極星信仰が龍神信仰・水神信仰へとつながっていった。

日本も、龍神を水神として崇めている。

ナーガも水神である。

中国でも、北極星は北辰(ほくしん)という神になり、龍神アンを迎えるために天安(アン)門が作られた。

 

シュメールの最高神、天神アンは「60」の数字を持つ神である。

これをシュメール語で表すと「アブ・アッシャム・ディンギル・アン」という。

アブ=天の父

アッシャム=60神

ディンギル=北極星

この言葉を呪文のように唱えながら、天に祈りを捧げていた。

 

シュメール古拙文字では、「十」(じゅう)みたいな文字を二つ重ねた「十十」が「奉る」という意味を表す。

この十に八方位を表すように線を引いた文字が、北極星を表している。

8=「ヤ」

方位=「ホウ」

8方位を表す記号が「ヤホウ」

「ヤホウ」が「ヤハウェ」となったのではという説もある。

シュメールの世界は多神教であったが、天神アンは、その中でもかなりの信仰を集めていた。

しかし、天神アンと同一視されていた北極星ツバンは、地球の歳差運動(1周25000年くらい)で72年に1度づつずれていくので、真北ではなくなっていき、いずれ見えなくなる時がやってくる。

北極星が見えなくなるということは、天神アンが空から消えることを意味した。

祈る対象がいなくなった。

その後、信仰の対象は、アヌの次に位の高い風神エンリルへと移っていった。

シュメール神話で、アヌが消えていき、エンリルが王となる様子が描かれている。

このことは、日本の信仰にも通ずるところがあり、アメノミナカヌシも最初に現れるが姿を消している。

これも、もしかしたら北極星信仰を示すものなのかもしれない。

 

北極星が消えていき天神信仰の対象であるアヌの影響力が薄れていくと、風神エンリルが信仰の対象となった。

風神エンリルは「50」の数詞を持つ神様。

シュメールではエンリルを砂時計のようなマークで表している。

五=「イ」

十=「シュ」という発音になる。

シュメール読みだと、五十=「イシュ」

日本語読みだと、五十=「イス」「イセ」となる。

イセといえば、日本の総氏神である天照大御神を祀る伊勢神宮。

伊勢神宮の横に流れる川は、五十鈴川(いすずがわ)。

そして、五千円札の五は、漢字の五ではない。

砂時計の形を模していてエンリルを表している。

さらには、

第10代崇神天皇の名前は、「御間城入彦五十瓊殖」(みまきいりひこいにえ)。

第11代垂仁天皇の名前は、「活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)。

両者とも五十が入っている。

 

これは単なる偶然なのだろうか。

もしかしたら、わたしたち日本人は知らず知らずに、シュメールの神、風神エンリルを祀っているのかもしれない。

 

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世界は海で繋がっているんだなぁ…シュメール人とラピュタ人と日本人。

2023-09-08 11:11:07 | シュメール文明

ウルク期の後期に突如として現れる出自不明のシュメール人が、海洋民族ラピュタ人に結びつく人々だったとしたら、その文明が高度であったことも納得できる。

チグリス・ユーフラテス川を源流までさかのぼると、「アサド湖」と「ハザル湖」にたどり着く。

その中間地点にあるのが、世界最古の祭祀遺跡とされるギョペクリペテ遺跡。

ギョペクリペテ遺跡には、イースター島のオロンゴ文明の死生観や、その中心的存在である鳥人のレリーフが刻まれており、祭祀の跡と思われる盃状穴も見られる。

海洋民族ラピュタ人の元になったと考えられるポリネシア人の痕跡が残る世界最古の遺跡が、このシュメール文明が栄えたメソポタミア北部にあるのは偶然ではない。

 

シュメール神話では、シュメールの人々に知恵を授けて信仰儀礼の正しいあり方を説いた7人の賢人、「アプカルル」という存在が登場する。

アプカルルは、昼間は陸に上がって、読み書き・工芸・科学等の知識を人に教えて、夜になると海に帰っていった。

そして、石板では半魚人のような姿として描かれている。

海から来た海洋民族が、シュメールの人々に知恵を伝えていったことが神話からもうかがえる。

 

また、世界最古の神話が記されたギルガメシュ叙事詩には、「ディルムン」「プント」「マガン」という3つの海洋民族が登場する。

この3つの海洋民族がウバイド族と混じりあって、シュメール文明が形成されていった。

 

「プント族」は、古代エジプトのヒクソス王朝の歴史に現れる地中海から紅海を地盤とする海洋民族。

現在はアフリカの東海岸地帯でソマリアの国を作った一族。

「ソマリア」の語源は「シューメリアン」。

 

「マガン族」は、インドネシアを拠点とし、メコン川周辺にシュメール文明を伝えて、メコン文明を再構築し、後のアンコールワット遺跡等を残した。

丸に十字のスワスチカのマークを旗に掲げ、大蛇神「ナーガ」をトーテムとしていた。

 

「ディルムン族」は、パキスタンのモヘンジョダロやインダス文明のハラッパ遺跡の付近にあった「マドゥラ」を海都とした。

 

ディルムン族は、元々は海洋民族ラピュタ人であり、日本にも来ていた。

ギルガメシュ叙事詩で、ギルガメシュ王の犯した罪の罰として、親友・エンキドゥは女神イシュタルに殺され、ギルガメッシュは嘆き悲しみ、神に不死の方法を尋ねる。

神は、その薬は「ディルムン」と呼ばれる島にあると答え、その行き方をギルガメッシュに教える。

「ディルムンの島は、太陽の出る国を目指して、太陽の道に沿ってひたすら進みなさい

東の果てに仙人が住む国にたどり着く」

仙人というのは、洪水伝説の主人公ウトナピシュティム。

彼は、アヌンナキから永遠の命をもらって、東海の蓬莱山の火口に住んでいた。

 

都市ウルクは北緯32度。

ずっと東へ行くと中国大陸の東端は上海あたり。

その先には九州があり、熊本が北緯32度。

熊本がディルムン島だとするならば、海洋民族ディルムンは、九州を拠点にしていたことになる。

彼らがシュメールの流れをくんでいたとすれば、シュメール語と日本語が同じ膠着語であった謎も解ける。

しかも、海洋民族ラピュタ人の痕跡であるペトログリフやドルメンなどの巨石遺跡は、九州に多く見られる。

ということは、ディルムン族は海洋民族ラピュタ人だったという可能性も十分考えられる。

ディルムンの海都マドゥラは、日本では「松浦」「マツラ」と訛った。

「マツラ国」(末羅国)は、中国の魏志倭人伝にも登場する古代の日本の地名。

 

また、タヒチの近くには「ナンマドール」という遺跡があり、この神殿は、この島にはない石で作られている。

島の東西南北に同じ神殿が建てられていた。

「ナン」は「ようこそ」と言う意味なので、ナン・マドールは、「ようこそマドールへ」という意味になる。

マドーラは、海都「マドゥラ」がなまった言葉なのではないかとも言われている。

もし、日本ではなく、このナンマドール遺跡が海都マドゥラだとしても、ディルムン族は海洋民族ラピュタ人の本拠地ともいえるポリネシアを主に活動していたことになり、ディルムン族=ラピュタ人の可能性は高い。

 

このように神話などからシュメール人・海洋民族ラピュタ人・日本人のつながりを推測することができるが、実際にそのような証拠は残されているのだろうか。

 

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ウバイド人と日本人の関係とは?ウバイド族の末裔、落合莞爾。

2023-09-07 19:23:28 | シュメール文明

ウバイド人たちは元々はシベリアに住んでいてたが、そこで農耕をしており、シベリアキャベツも作っていた。

そのシベリアキャベツの化石がなぜか日本でも発見されている。

この時期、日本は縄文時代。

中川代遺跡(なかしろだいいせき)では、大陸と交易をしていたという証拠である中国製の石斧(せきふ)も見つかっている。

縄文時代、日本中で黒曜石を交易していたことが分かっているが、ウバイド人たちもシベリアから南下してアナトリア文明を築いた際に、チグリス・ユーフラテス川を活用して、黒曜石の交易をメソポタミアの平野部地域の人々と行っていたことが分かっている。

日本人もウバイド人も、黒曜石とシベリアキャベツを扱っていた。

もちろん、ウバイド人と日本人が直接やりとりをしていたわけではなく、そこには仲介する海洋民族がいたのではないかと推測できる。

北極海航路を通っていた海洋民族ラピュタ人と交流があり、ラピュタ人を通じてウバイド人と古代日本人は繋がっていたと考えられるが、それを確定できる証拠は今のところない。

 

証拠は今のところないのだが、ウバイド族の末裔だと自称する落合莞爾さんという人物がいる。

落合さんによると、

ウバイド人たちは、ビュルム氷期を高山地帯で過ごし、ビュルム氷期が終わった紀元前8000年ころからしばらく時を経て、メソポタミア地域に登場した。

ビュルム氷期中でも、ウバイド人たちは、比較的温暖であった太平洋沿岸の地域にも存在していて、縄文人もその一つだと考えられている。

ウバイド人たちは、メソポタミアに登場した時から、農耕・漁労・牧畜の三つに社会的分業を行っていた。

生産物の取引では、物々交換は手間がかかるため行われておらず、「黄金」を介してやりとりされていた。

ウバイド人たちは、世界各地の河川などに散在している自然金の収集を図っていた。

ウバイド人は、高度な社会システムを運営する知識を持っており、金の価値を理解する民族だった。

ウバイド人は、各地に移住し高度な灌漑技術で河川を灌漑する際に、密かに金を収集していた。

こうして、灌漑によって飛躍的に食糧生産規模を高めたエリアは発展していった。

紀元前6500年~3800年ころまではウバイド人、以降はシュメール人がメソポタミアエリアの文明を引き継いだ。

金が取りつくされたメソポタミアはシュメール人に任せておいて、ウバイド人たちは東西への移住を推進していった。

東へ移動を開始したウバイド人たちは、やがて日本へと到達する。

日本にやってきていたシュメール人たちとバトンタッチするかのような動きを見せる。

大陸で活動をするウバイド人たちで、黄金を管理したり移動を担う氏族が「呂氏」(りょし)となった。

歴史上では太公望、呂尚(りょうしょう)、呂不偉(りょふい)呂公(りょこう)などとして登場する。

ウバイド人たちは、お金で王様をまつり上げて統治させ、自分たちは金を採取し、文明が発達したらまた違う土地へと移動していた。

日本では、この呂氏では「秦氏」(はたし)を名乗った。

聖徳太子が立て続けに重要な施策を提案しているが、その背後には、秦河勝が聖徳太子のブレーンとして活動していたからとされている。

今の日本があるのは、実は秦氏の影響がとても強い。

秦氏が高度な知識と技術をもって大量に日本に移住してきた際、なぜ秦氏は日本を占領しなかったのか?という疑問がしばしば提起されるが、秦氏がウバイド人たちだったとすると、なぜ征服しなかったのかその理由が分かる。

ウバイド人たちは、世界へ拡散する中で、スキタイ人の上層部として所属していたり「ケルト人」「フェニキア人」と呼称されたりもしていた。

 

落合さんの証言に学術的な証拠はない。

しかし、ウバイド人の特徴は、金を採集していたり、ケルト人やフェニキア人に影響を与えていたという大きな歴史の流れで見れば、海洋民族ラピュタ人とよく似ている。

海洋民族ラピュタが世界各地に高度な巨石文明を広めた。

古代ヨーロッパに住んでいた古ケルト族がその叡智を授かった。

そして、その古ケルトの文化が、世界各地でおこった製鉄の技術や造船・公開技術のきっかけとなり、大陸ケルトやフェニキア人にも大きな影響を与えていった。

ウバイド人も、シベリアから南下してきてシュメール文明の基礎を作ったり、その他地域にも影響を与え、歴史を動かし、ケルトやフェニキアにも影響を与えている。

 

そんなウバイド人とシュメール人が交わり、シュメール文明が開花する。

あらためて、高度な知識・技術を持っていたシュメール人たちは一体何者だったのか。

シュメール人たちは、大河の河口から川筋に点在する都市国家に船で移動していた。

シュメール語の7割が漁労の言葉であった。

このことから、シュメール人たちは海洋民族が元にあったのではないかという説が存在する。

高度な文明を備えた海洋民族といえば、「ラピュタ人」ということになる。

シュメール人とラピュタ人と日本人、この関係性について深堀りしていく。

 

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