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「高桑氏族」 覚書(100)

2013-08-24 10:53:14 | 歴史

加賀藩(金沢藩)(1)

高桑氏族の「北遷」で、先ず取付いたのは、加賀国であったろう。現在に残る高桑氏族関連の諸記録文書等の数から言って、第1が石川県であり、第2が富山県、第3が新潟県、第4が秋田県である事から、高桑氏族が、時代を経て、加賀国から越中国、更に越後国、更には出羽国(羽後・秋田)へと分流、北上したと推定出来ると思う。

「加賀100万石」と言われるが、藩主の次子に10万石を分与して、越中・富山藩とし、第3子に同じく10万石の大聖寺藩(だいしょうじ藩・石川県加賀市)を与えた。つまり富山藩・大聖寺藩は、加賀藩の支藩であり、3藩が広義の「金沢藩」である。

加賀藩の藩祖は、「前田利家」であるのは、誰一人知らぬ者はいないが、名将とはとても言えない利家が、どの様にして超大藩祖たり得たのであろうか。

前田利家は尾張出身で、信長に仕えたが、織田家の家老格であった「鬼柴」こと猛将・柴田勝家の幕下にあった。それなのに、「賤ヶ岳の戦い」で、勝手に戦列から離脱してしまい、勝家が秀吉に敗北する一因にもなった。

この様に利家は、柴田軍に在って、秀吉に敵対したが、元々両者は、「竹馬の友」でもあり、秀吉が利家を許したことで、家格がずっと上だった利家が、秀吉に臣従し、100万石もの藩祖たり得た元が出来たのであった。

写真は、「金沢城・石川門」
江戸時代のままに現存する国の重要文化財
石川門は、「搦手門」(裏門)であった。

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