美濃・尾張2国間の「水争い」(堤防争い)
歳時記に、夏の季語として、「水争」があるが、「水論」・「水喧嘩」とも称され、誰しも「水の奪い合い」と思う。しかし美濃国内でも、美濃・尾張2国間でも、「水争」は、「水の押付け合い」であった。
美濃・尾張間で、「水喧嘩」をすれば、美濃は最初から、尾張に勝てる訳けはなかった。尾張藩は、62万石、親藩、徳川御三家(尾張・紀州・水戸)の筆頭格と認められていた。しかも実質1国1藩であり、洪水に対しても、国・藩を挙げての、統一的・計画的な対策を講ずる事が可能であった。
これに対して、美濃国内では、20藩以上に分かれ、それも多くは、1万石乃至3万石の小藩であった。それ以外にも、天領(幕府直轄地)や70余の旗本領が、犇(ひし)めいていた。つまり江戸時代の美濃は、行政的にずたずたであった。これでは洪水対策でも、尾張に対抗する術(すべ)は無かった。
岐阜県は、旧飛騨国と旧美濃国との合併県である。それで岐阜県の自然風土を人々は、「飛山濃水(ひざんのうすい)」と言っている。誠に雅趣に豊んだ表現である。
しかし高桑を含む美濃南西部にとっては、これが曲者(くせもの)であった。「飛山」と言うが、飛騨に限らず、信州・越前等に源を発する濃尾三川(木曽川・長良川・揖斐川)が、伊勢湾に注ぐ前に、高桑一帯で互いに接近し、正に「濃水」となって、古来人々を大洪水の脅威に晒して来た。
濃尾三川が集中する高桑一帯の地形は、「東髙西低」である。それで東の木曽川が一番高く、長良川・揖斐川の順に低くなる。木曽川は、美濃・尾張国境を流れる。他の2川は、美濃を流れる。
この為、尾張は、木曽川の洪水被害を受けるだけであるが、美濃は3川の被害を諸(もろ)に被る仕儀となる。それなのに尾張藩は、木曽川の溢水を領内に一滴も入れまいと、美濃側の被害増大を顧慮する事なく、更なる強力な手を打った。
尾張・美濃国境の木曽川50kに渡り、美濃側より3尺(約1m)高く、しかも堅固な堤を築いた。これが尾張の「御囲堤(おかこいつつみ)」と称されたもので、美濃農民にとって、極めて怨み深い代物(しろもの)であった。尾張藩は、御三家の絶大な御威光で、身勝手にも、この「三尺高」を「決(きまり)」として、力弱い美濃側に押付けた。
それだけではなかった。尾張藩は、美濃側から領内に流入する支流を全て締め切ってしまうという横暴さであった。これは洪水は、全て美濃側で引き受けろと言うに等しかった。
写真は、「名古屋城」
通称「金鯱城(きんこじょう)」 金の鯱(しゃちほこ)
慶長14年(1609年)、徳川家康築城
昭和34年、天守再建 日本3名城(名古屋・姫路・熊本)