gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

「高桑氏族」 覚書(96)

2013-08-13 11:07:04 | 歴史

美濃・尾張2国間の「水争い」(堤防争い)

歳時記に、夏の季語として、「水争」があるが、「水論」・「水喧嘩」とも称され、誰しも「水の奪い合い」と思う。しかし美濃国内でも、美濃・尾張2国間でも、「水争」は、「水の押付け合い」であった。

美濃・尾張間で、「水喧嘩」をすれば、美濃は最初から、尾張に勝てる訳けはなかった。尾張藩は、62万石、親藩、徳川御三家(尾張・紀州・水戸)の筆頭格と認められていた。しかも実質1国1藩であり、洪水に対しても、国・藩を挙げての、統一的・計画的な対策を講ずる事が可能であった。

これに対して、美濃国内では、20藩以上に分かれ、それも多くは、1万石乃至3万石の小藩であった。それ以外にも、天領(幕府直轄地)や70余の旗本領が、犇(ひし)めいていた。つまり江戸時代の美濃は、行政的にずたずたであった。これでは洪水対策でも、尾張に対抗する術(すべ)は無かった。

岐阜県は、旧飛騨国と旧美濃国との合併県である。それで岐阜県の自然風土を人々は、「飛山濃水(ひざんのうすい)」と言っている。誠に雅趣に豊んだ表現である。

しかし高桑を含む美濃南西部にとっては、これが曲者(くせもの)であった。「飛山」と言うが、飛騨に限らず、信州・越前等に源を発する濃尾三川(木曽川・長良川・揖斐川)が、伊勢湾に注ぐ前に、高桑一帯で互いに接近し、正に「濃水」となって、古来人々を大洪水の脅威に晒して来た。

濃尾三川が集中する高桑一帯の地形は、「東髙西低」である。それで東の木曽川が一番高く、長良川・揖斐川の順に低くなる。木曽川は、美濃・尾張国境を流れる。他の2川は、美濃を流れる。

この為、尾張は、木曽川の洪水被害を受けるだけであるが、美濃は3川の被害を諸(もろ)に被る仕儀となる。それなのに尾張藩は、木曽川の溢水を領内に一滴も入れまいと、美濃側の被害増大を顧慮する事なく、更なる強力な手を打った。

尾張・美濃国境の木曽川50kに渡り、美濃側より3尺(約1m)高く、しかも堅固な堤を築いた。これが尾張の「御囲堤(おかこいつつみ)」と称されたもので、美濃農民にとって、極めて怨み深い代物(しろもの)であった。尾張藩は、御三家の絶大な御威光で、身勝手にも、この「三尺高」を「決(きまり)」として、力弱い美濃側に押付けた。

それだけではなかった。尾張藩は、美濃側から領内に流入する支流を全て締め切ってしまうという横暴さであった。これは洪水は、全て美濃側で引き受けろと言うに等しかった。

写真は、「名古屋城」
通称「金鯱城(きんこじょう)」 金の鯱(しゃちほこ)
慶長14年(1609年)、徳川家康築城
昭和34年、天守再建 日本3名城(名古屋・姫路・熊本)

50914


「高桑氏族」 覚書(95)

2013-08-11 11:28:55 | 歴史

              覚書(94)の続き
Comment(4)

              卑見(4)

高桑次郎の謀反事件以後、美濃源氏に組込まれた可能性が高く、この様な、髙い可能性を示唆する何らかの根拠を、お持ちなのでしょうか。高倉系の、臣籍降下の形跡が無い皇子の誰かが、平安末期以来、存続して来た臣籍の「美濃源氏」に組込まれるというのは、有り得ないのではないでしょうか。

「美濃源氏」に、土岐氏・開田氏・鏡氏・高桑氏等々が、古くから存在しますが、その「高桑氏」とは別に、新たに「高倉系高桑氏」が、「美濃源氏」に組込まれたという事でしょうか。

「美濃源氏」の長い歴史を見ても、その様な「高桑氏2氏併存」の史実は無いように思います。それとも、古くからの高桑氏に取って代わって、「高倉系高桑氏」が、美濃源氏入りしたという事なのでしょうか。

又それがどうして、高桑次郎事件以後なのか、その理由が解しかね、困惑しています。高桑次郎事件は、「承久の乱」後、暫く経ても、鎌倉幕府側による、朝廷側参戦者に対する厳しい追及が続いている事を示しています。

後鳥羽上皇側として参戦した高桑氏を初めとする美濃源氏諸氏は、存続の岐路に立たされていました。その様な時期に、極力避けなければならない追及対象の「美濃源氏」に、どうしてわざわざ組込まれなければならなかったのでしょうか。その点が理解出来ませんでしたので、その件は、無かったのではないかと思うようになりました。


編集者の高桑の意見回答をと言うご要望でしたので、素人の小生にその資格はな無いのですが、以上敢えて愚見を重ねてきました。

歴史家・専門家は、諸記録・諸意見に対しては、その儘採用するのではなく、慎重な検証が必要であるとの戒めを厳守していますが、歴史家でない小生もそれを真似てきました。

その結果、貴見とは異なる卑見も多くなりましたが、率直を宗としましたので、失禮に当たる部分に付いては、何卒ご寛恕下さい。


「高桑氏族」 覚書(94)

2013-08-09 11:03:07 | 歴史

              覚書(93)の続き
Comment(3)

              卑見(3)

(高桑次郎の謀反事件以前の高桑氏は、)高倉系高桑氏と言った方が、適切かもしれません。「高倉系高桑宮」ではなく、「高倉系高桑氏」ならば、高倉天皇(第80代、平安末期)の系列から、一人の皇子が、臣籍降下して、「高桑氏」を名乗って武士となり、高桑氏の始祖となった事になります。しかしその様な史実は、寡聞にして存じません。

宮家は、簡単に宮家を離脱出来ないのは、昔も今も変わらないのは、当然と思います。朝廷での「臣籍降下」という厳格な手続きが必要です。

現今でも、皇族から一般民間人になるには、宮内庁での厳格な手順を経ての上です。今上天皇・皇后の第一皇女・清子内親王が、平成17年、皇籍を離脱・降嫁し、黒田清子さんになった事は、人々の記憶に新しいと思います。余談ですが、勲一等の清子(さやこ)さんが、近所のスーパで、モヤシを買物籠に入れている主婦姿を、近所の主婦が見掛けるそうです。

「源氏」では、「清和源氏」(清和天皇・第56代・平安前期、諸氏に新田氏・武田氏・土岐氏・高桑氏等々)が、最も有名ですが、次に有名なのは、「村上源氏」(村上天皇・第62代・平安中期、諸氏に島津氏・織田氏・朝倉氏等々)でありましょう。

しかし「源氏」は、上記2大源氏ばかりではなく、「源氏21流」と称される計21の流れがあります。「嵯峨源氏」(嵯峨天皇・第52代・平安初期)や「宇多源氏」(宇多天皇・第59代・平安初期)等々ですが、21流の中に高倉天皇の流れはありませんし、源氏以外にも「高倉系」からの臣籍降下者はいないのではないでしょうか。つまり「高倉系高桑氏」は考えられないのではないでしょうか。

姓氏研究で最も有名なのは、南北朝時代に編纂された「尊卑分脈」14巻でしょう。図書館で、各巻分厚い5巻本として、閲覧出来ますが、源氏・平氏・橘氏・藤原氏等、主要氏族系図の大集成です。

これは歴史の専門家から、最も信頼され、引用されていますが、それでも系図の性質上、各氏族に都合良く、書き換えられている危険がありますので、全面的に信頼する事の無いようにと、歴史家は自らを戒めています。これは系図に限らず、諸記録に対して、記録に有るからと、その儘信用せず、専門家は常に厳しい目を向けているようです。

上が第1の姓氏研究であるならば、第2のそれは、日本史学者・太田亮(あきら)氏が、実に40年間の半生を掛け、心血を注いで、昭和11年に完成させ、名著と讃えられている「姓氏家系大辞典」でありましょう。

その中の「高桑氏」の項目を要約すれば、「高桑、源姓、美濃国厚見郡高桑邑より起こる。」とあります。小生の様な歴史の素人は、謙虚に太田氏の様な専門家の碩学に依拠する外ありませんので、これを当「覚書」の基礎として書き進めて来ました。つまり「清和源氏系美濃源氏」としてです。

そうではなく、「高倉系高桑氏と言った方が適切」とのご高見ですが、若し「高倉系高桑氏」という姓氏が、上記とは別に存在していたならば、40年間の研究成果である太田氏の上記姓氏大辞典に採録されない筈はないと思料するのですが、・・・。

現在、姓氏研究の第一人者である駒沢大学教授・渡辺三男博士の著書・「日本の苗字」でも、「高桑氏」の項を見ると、「高桑、美濃国厚見郡高桑に起こるものは源氏」とあり、この姓氏専門家も「高倉系高桑氏」の苗字を認めていないようです。

            覚書(95)へ続く


「高桑氏族」 覚書(93)

2013-08-07 11:21:22 | 歴史

              覚書(92)の続き
Comment(2)

              卑見(2)

正確な年代が分からないのですが、・・・。惟明親王が、弟の後鳥羽天皇に比して、不遇の中に、「承久の乱」開戦直前、承久3年(1221年)、43歳で薨去されていますから、交野宮・醍醐宮・高桑宮、夫々(それぞれ)の、大凡の世代年代は、見当がつくのではないでしょうか。

高桑宮が、承久の乱の時に朝廷側の大将軍に命じられたのではないか、・・・。承久の乱は、幕府側の公式記録「吾妻鏡」や朝廷寄りの「承久記」等で詳細に経緯を知る事が出来ます。その中に宮家が、大将軍として、最前線で指揮をとっていたという記事は無いように思います。

大将軍に任じられたのは、美濃源氏の高桑氏で、片や幕府側大将軍は、甲州源氏の武田氏(後の信玄の遠祖)や小笠原氏(小笠原流でも有名)の武士であり、臣籍降下していない、つまり武士になっていない宮家が、任じられる事は、ないのではないでしょうか。

惟明親王の子が「交野宮」、孫が「醍醐宮」、曽孫が「高桑宮」となります。惟明親王と後鳥羽上皇は兄弟ですから、「高桑宮」は、後鳥羽にとっても、ひ孫の世代に当たります。曽祖父と曽孫が、共に戦う、しかも曽孫に当たる世代が「大将軍」に任じられるのは、考えられない事ではないでしょうか。

「高桑宮」は、未だ生まれていなかった事も考えられるのではないでしょうか。「応仁の乱」の様に、10数年も続けば、その間に成長しての参戦も考えられますが、「承久の乱」は、僅かに1ヶ月足らずで、鎮圧されてしまいました。

後鳥羽上皇の「院宣(いんぜん、上皇の命令)」を蒙(こうむ)り、各地から馳せ参じた武士の交名(きょうみょう、参着名簿)があり、その中に、高桑氏を初めとする美濃源氏諸氏がありましたが、武士でない「高桑宮」の名は、恐らく無かったと思います。

東京大学史学科卒業の歴史学者・中野効四郎岐阜大学教授の著書の中でも、「後鳥羽上皇の召に応じた美濃武士に、土岐氏・
高桑氏・開田氏・鏡氏などがある。」とあって、「高桑宮」の名は、挙がっていなかったと思います。

高桑大将軍は、「木曽川の戦い」で、高桑武士団を率いて、最北の「大井戸の渡」の守備につき、馬上で指揮をとっていました。敵方の一勇士が、“高桑殿だ。絶好の標的だ。”と狙い射ちし、開戦早々に大将軍は、戦死してしまいました。これが吾妻鏡や承久記の記述であり、「高桑宮大将軍」は、登場していません。

若し高桑宮が、参戦していたのであれば、敗戦後幕府の厳しい追及があったと思います。御存じの通り、後鳥羽上皇をはじめ、皇子の3上皇が、隠岐・佐渡等への島流し等にされました。しかし高桑宮の孤島への配流等というのは、何処にも出てこないように思います。

戊辰戦争で、仁和寺宮が「征討大将軍」、有栖川宮が「東征大総督」に任じられましたが、前線に出るのではなく、実際に戦うのは、西郷隆盛以下の武士達でした。高桑宮も「大将軍」として、最前線に立つ事は、ないのではないでしょうか。

南北朝時代、史上著名な「金ヶ崎城の戦い」(越前・敦賀)がありました。足利軍に追われ、尊良親王等の親王と新田義貞が、この城に入って戦いました。この場合も追われた親王を奉じて、清和源氏・新田義貞が戦ったのであり、直接宮家が前線で戦ったのではありませんでした。

                覚書(94)へ続く           


「高桑氏族」 覚書(92)

2013-08-02 10:41:23 | 歴史

Comment(1)

名前:高桑 叶米

私は、愛知県東三河在住の高桑(43歳)です。
この度は、ご高齢にも関わらず高桑姓の歴史を紐解いて頂き、誠にありがとうございます。私の父(70歳)は、新潟県燕市出身です。その父に、『先祖は公家の出みたいだ。』と聞かされたのが20代頃。それから、今日まで先祖の詳しい情報はなかったので、今回、ネット上で『高桑氏族』覚書を見つけたときには、驚嘆しました。

ところで、高桑氏は美濃源氏ということですが、『公家の出・・・』ということをヒントに皇室系図などをネット上で拝見させて頂くと、80代高倉天皇から始まって、第三皇子の惟明親王・・交野宮・・醍醐宮・・高桑宮と繋がって出てきます。

醍醐宮の時、すでに美濃国高桑庄に住んでいたことが判明しています。その縁から、嫡男に高桑宮と名付けたそうです。正確な年代が分からないのですが、多分、この高桑宮が、承久の乱の時に朝廷側の大将軍に命じられたのではないかと、個人的に推測します。ちなみに、高倉天皇の第四皇子は後鳥羽上皇です。

ですから、高桑次郎の謀反事件以後、美濃源氏に組込まれた可能性が高く、それまでは、高倉系高桑氏!?と言った方が、適切かもしれません。

以上、この一週間で出た私の見解です。編集者の高桑様のご意見ご回答を頂ければ幸いです。

此の度は、貴重な資料と共に、コメントを寄せて頂き、有難う御座いました。お父上様は、燕市ご出身との事ですが、小生の両親も燕市生まれです。荊妻の実家も燕です。それで小生は、戦前から現在も、しばしば同町・同市を訪れています。

ご高見に対する小生の卑見を、との事ですが、浅学菲才の上に、全くの歴史の門外漢で、到底正確な史実に基づく見解を述べる事は不可能です。

然し乍ら折角ですので、此の際若干貴見とは異なる、小生の素人意見を、率直に開陳させて頂き度いと存じます。失禮に当たる部分がありましたならば、ご寛恕下さい。

                 卑見(1)

先祖は公家の出みたいだ。公家をこの場合、朝廷・宮家としますと、当「覚書」が採っています「清和源氏」系「美濃源氏」も、ご高見の「高倉系高桑氏」も、共に「公家の出」になると思います。

醍醐宮の時、すでに美濃国高桑庄に住んでいたことが判明しています。三千院所蔵の「帝王系図」に「住美濃国高桑庄」とありますが、歴史家・郷土史家等の専門家は、全ての資料に付いて、史実との峻別を試みるものと思います。どのようにするかは存じませんが、例えば他資料との照合・現地での遺跡・伝承の調査等があろうかと思います。

上記資料に付帯して、「美濃国高桑荘について」の記事がありますが、「高桑荘の存在は、他の文献からは確認できない。」とあります。

現地「高桑邑」から見れば、僻陬(へきすう)に宮家が居住、これは大変な名誉であり、特筆大書される記録なり、伝承があるであろうと思料されます。又宮家の住居ともなれば、宮殿は兎も角としても、立派な邸宅遺跡があって、然るべきと思います。しかし記録も伝承も遺跡も、現地では皆無のようです。

郷土史である「柳津町史」の「第3節 古代・中世の推移」に「美濃国における荘園」の項目があり、この点の古くからの研究者による、「美濃明細記」・「新撰美濃志」等も参照した、かなり詳細な記事が載っています。

それによりますと、美濃国内に驚く程多数の荘園等が存在しました。高桑邑の在る「厚見郡内に数荘を数え得るが、佐波・高桑には見当らない。」とあります。(柳津町史 P.8~9)

これは、「高桑庄」の存在を、歴史上で否定した事になります。当時鵜の目鷹に目、未開拓地を漁り、私領地囲い込みに奔走していた権勢家・有力氏族・東大寺等の大寺院も、流石(さすが)に、木曽川・長良川の合流点・大洪水頻発地の「佐波・高桑」だけには、食指を動かさなかったと、地元では見ていたようです。

荘園からの「実入り」よりは、荘園の維持・管理の支出の方が多くなり、荘園経営のメリットが無くなる危険が多かったと見たのでしょう。

              覚書(93)へ続く