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「高桑氏族」 覚書(92)

2013-08-02 10:41:23 | 歴史

Comment(1)

名前:高桑 叶米

私は、愛知県東三河在住の高桑(43歳)です。
この度は、ご高齢にも関わらず高桑姓の歴史を紐解いて頂き、誠にありがとうございます。私の父(70歳)は、新潟県燕市出身です。その父に、『先祖は公家の出みたいだ。』と聞かされたのが20代頃。それから、今日まで先祖の詳しい情報はなかったので、今回、ネット上で『高桑氏族』覚書を見つけたときには、驚嘆しました。

ところで、高桑氏は美濃源氏ということですが、『公家の出・・・』ということをヒントに皇室系図などをネット上で拝見させて頂くと、80代高倉天皇から始まって、第三皇子の惟明親王・・交野宮・・醍醐宮・・高桑宮と繋がって出てきます。

醍醐宮の時、すでに美濃国高桑庄に住んでいたことが判明しています。その縁から、嫡男に高桑宮と名付けたそうです。正確な年代が分からないのですが、多分、この高桑宮が、承久の乱の時に朝廷側の大将軍に命じられたのではないかと、個人的に推測します。ちなみに、高倉天皇の第四皇子は後鳥羽上皇です。

ですから、高桑次郎の謀反事件以後、美濃源氏に組込まれた可能性が高く、それまでは、高倉系高桑氏!?と言った方が、適切かもしれません。

以上、この一週間で出た私の見解です。編集者の高桑様のご意見ご回答を頂ければ幸いです。

此の度は、貴重な資料と共に、コメントを寄せて頂き、有難う御座いました。お父上様は、燕市ご出身との事ですが、小生の両親も燕市生まれです。荊妻の実家も燕です。それで小生は、戦前から現在も、しばしば同町・同市を訪れています。

ご高見に対する小生の卑見を、との事ですが、浅学菲才の上に、全くの歴史の門外漢で、到底正確な史実に基づく見解を述べる事は不可能です。

然し乍ら折角ですので、此の際若干貴見とは異なる、小生の素人意見を、率直に開陳させて頂き度いと存じます。失禮に当たる部分がありましたならば、ご寛恕下さい。

                 卑見(1)

先祖は公家の出みたいだ。公家をこの場合、朝廷・宮家としますと、当「覚書」が採っています「清和源氏」系「美濃源氏」も、ご高見の「高倉系高桑氏」も、共に「公家の出」になると思います。

醍醐宮の時、すでに美濃国高桑庄に住んでいたことが判明しています。三千院所蔵の「帝王系図」に「住美濃国高桑庄」とありますが、歴史家・郷土史家等の専門家は、全ての資料に付いて、史実との峻別を試みるものと思います。どのようにするかは存じませんが、例えば他資料との照合・現地での遺跡・伝承の調査等があろうかと思います。

上記資料に付帯して、「美濃国高桑荘について」の記事がありますが、「高桑荘の存在は、他の文献からは確認できない。」とあります。

現地「高桑邑」から見れば、僻陬(へきすう)に宮家が居住、これは大変な名誉であり、特筆大書される記録なり、伝承があるであろうと思料されます。又宮家の住居ともなれば、宮殿は兎も角としても、立派な邸宅遺跡があって、然るべきと思います。しかし記録も伝承も遺跡も、現地では皆無のようです。

郷土史である「柳津町史」の「第3節 古代・中世の推移」に「美濃国における荘園」の項目があり、この点の古くからの研究者による、「美濃明細記」・「新撰美濃志」等も参照した、かなり詳細な記事が載っています。

それによりますと、美濃国内に驚く程多数の荘園等が存在しました。高桑邑の在る「厚見郡内に数荘を数え得るが、佐波・高桑には見当らない。」とあります。(柳津町史 P.8~9)

これは、「高桑庄」の存在を、歴史上で否定した事になります。当時鵜の目鷹に目、未開拓地を漁り、私領地囲い込みに奔走していた権勢家・有力氏族・東大寺等の大寺院も、流石(さすが)に、木曽川・長良川の合流点・大洪水頻発地の「佐波・高桑」だけには、食指を動かさなかったと、地元では見ていたようです。

荘園からの「実入り」よりは、荘園の維持・管理の支出の方が多くなり、荘園経営のメリットが無くなる危険が多かったと見たのでしょう。

              覚書(93)へ続く