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「高桑氏族」 覚書(25)

2012-05-04 11:01:24 | 歴史

「承久の乱」 (11)

能登守藤原秀康と大江広元

「承久の乱」は、政権から見れば、朝廷と幕府との対決であり、主役から見れば、後鳥羽上皇と北条義時(北条政子)との対決であるが、戦いの“総参謀長”から見れば、藤原秀康と大江広元との対決であった。

藤原秀康は、「北面の武士」であった。上皇の御所・院の北面警護に当たるが、単なる護衛兵ではなく、院政を支える重要な武力であり、上皇の近臣であった。幕府との戦いに当たり、高桑一族の氏長者を“大将軍”に任じたのは、この能登守藤原秀康であった。

大江氏は、平安時代以降、朝廷に仕えた学者の家系であった。頼朝は、大江広元を京から招いて顧問としたが、傑出した手腕を発揮して、鎌倉幕府体制確立の基礎を築いた。北条氏にも全面的に協力した。

鎌倉では、上皇の「北条義時追討」の宣旨を受けて急遽、義時邸で北条氏・大江氏・御家人での小人数の軍議が開かれた。大勢は極めて消極的で、足柄・箱根の線で、防衛戦をしようというものであった。大江広元は唯だ一人、断固これに反対して、京への即時出兵を主張した。

義時自身朝廷への畏怖心を持っていた。周囲の者も皆、朝廷相手とあって、逡巡していた。大江は朝廷貴族の性質を熟知していたので、周囲を叱咤激励して積極策を推進しようとした。尼将軍・北条政子にこの策を伝え、全面的な賛同を得て決定された。大江広元は、正に名総参謀長であり、その指揮がなければ、幕府軍の完勝も危ぶまれたであろう。

写真は、「鎌倉・大江廣元邸址」

Hiromoto


「高桑氏族」 覚書(24)

2012-05-04 09:33:25 | 歴史

「承久の乱」(10)

現在の名神高速道路・京都南ICに南接して、当時壮麗を極めた「鳥羽離宮」があった。現在の京都・伏見区である。現在の京都南IC全体も当時、広大な離宮の北端内であった。後鳥羽上皇は、この離宮を愛好し、しばしば訪れては、日夜王朝の遊宴文化を楽しんでいた。

この離宮の一画に、現在「城南宮」となっている、境内の広い「城南寺(せいなんじ)」があった。

Jonangu

承久3年5月14日、上皇は“流鏑馬(やぶさめ)そろへ”と称して、諸国の兵、1700余騎を集めた。これは挙兵の旗揚げであり、「武者揃え(むしゃぞろえ)」(出陣に際して、軍勢の勢揃え)であった。現に翌15日、上皇は北条義時追討の宣旨を発して、戦いを宣した。

上皇が召集して参集した諸国の中に、美濃国が入っているから、高桑一族の武士も、他の美濃源氏・諸氏族武士と共に参着の名札を提出したのは確かであろう。


「高桑氏族」 覚書(23)

2012-05-03 11:40:07 | 歴史

「承久の乱」 (9)

「高桑氏族」 覚書(22)の続き

写真は、「源実朝」

Sanetomo

実朝は兄・頼家とは正反対の人柄で、文化人であり、優れた歌人でもあった。そして「武士の棟梁」たる「征夷大将軍」でありながら、京風に憧れ、尊王思想の持主であり、後鳥羽上皇を敬慕していた。その為、上皇も実朝を慈(いつく)しんでいた。従って上皇に王政復古の宿望があるにしても、実朝時代が続いていれば、不幸な朝廷・幕府間の乱は起こらなかったであろう。一方鎌倉では、武家政権が京都王朝風によって、骨抜きにされるのを懸念して、実朝を危険人物と見ていた。

前回の覚書(22)に続く幕府内混乱の二つ目。これも肝心の北条執権家に重大な内紛が生じた。初代執権・北条時政は、実朝の暗殺を企図したり、娘婿を将軍に仕立てようとして、子の政子・義時姉弟によって、伊豆に追放され、退隠して入道出家した。

次に三つ目。幕府を支えて来た有力御家人達の叛乱が続いた。梶原氏・比企氏・和田氏・畠山氏等であった。幕府はこれを次々に打倒排除した。その分幕府の弱体化は避けられなかったであろう。

後鳥羽上皇は、主として上記3つの鎌倉弱点現出を好機と捉えて、乱を起こしてしまった。鎌倉討滅の宣旨を下せば、北条氏独裁反対勢力が殆どを占め、御家人も諸国の武士も挙げて、朝廷軍に参集するであろうという超甘な見通しであった。処が鎌倉軍、せいぜい数千騎の見込みが、19万騎の大軍となって、京都へ進撃して来てしまった。上皇の悲劇的な大誤算であった。

「幕府討滅の上皇宣旨」と何回か前述したが、実際の宣旨文言は、「北条義時追討」であった。第2代執権一人の追討に絞って、御家人・諸国武士達を幕府から離反させようとした上皇の戦略的意図が、はっきりと読取れる。


「高桑氏族」 覚書(22)

2012-05-03 10:12:44 | 歴史

「承久の乱」 (8)

後鳥羽上皇が、結果的には大変な誤算であった“今や鎌倉幕府は、弱体化が進み、組し易し”と幕府討滅の宣旨を出してしまったが、当時確かにそれなりの、幕府内の重大な諸混乱が、少なくとも3つはあった。

先ず一つ目。肝心の源家が、僅か3代で断絶してしまった。これは衆知の史実であり、改めて此処に述べる必要はないが、一応略記する。

初代源頼朝は、12世紀末年に53歳で急逝した。落馬事故が死因に関係していると言われた。第2代将軍は、頼朝の長男・頼家であるが、悪逆無道の振舞いが多く、母・北条政子の言う事も聞かず、北条氏に実権を奪われて怒り、北条氏討伐を企てたが失敗し、有名な修善寺幽閉、次いで北条氏によって暗殺されてしまった。

第3代将軍は、頼朝の2男・実朝であるが、頼家の嫡子・公暁によって、鶴岡八幡宮の社頭で、“父の仇(かたき)”とばかりに暗殺されてしまった。

こうして源家3代共、不慮の死に遭って、源家は断絶してしまった。しかも頼朝は、平家討伐に各地で奮戦し、鎌倉幕府創業に絶大な貢献をした弟の範頼・義経を共に殺していたのであるから、源家は絶えてしまった。頼朝のこの非情さに非難を込めて、世に“判官贔屓(ほうがんびいき)”なる言葉が生まれた。(「判官」は、義経の称)

写真は、「伊豆修善寺(修禅寺)」

Shuzenji

頼家幽閉で有名だが、不幸な範頼も当寺に幽閉され、両者の墓もある。

覚書(22)は、幕府内混乱の一つ目であるが、二つ目三つ目は、覚書(23)に続く。


「高桑氏族」 覚書(21)

2012-05-01 14:51:41 | 歴史

「承久の乱」(7)

「高桑氏族」 覚書(20)参照

承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇の鎌倉幕府討滅の宣旨(せんじ)が発せられ、その上皇命令書は、直ちに鎌倉に達せられた。それは朝廷による幕府に対する宣戦布告であり、幕府の存亡に関わる重大事態の出来(しゅったい)である。

当時源家は、既に僅か3代で断絶して居り、幕府の存続は、執権・北条氏の肩に懸かっていた。幕府は勿論宣旨を受入れず、反対に京都朝廷覆滅を決意した。

此処で「尼将軍」と謳(うた)われた北条政子の登場となり、御家人(ごけにん、本来は鎌倉将軍の家臣)を集めての、有名な演説となった。政子の演説要旨 「故頼朝が平家を倒し、幕府を草創してから関東武士達は、官位も俸禄も十分な恩恵に浴した。しかるに今、逆臣の讒言(ざんげん)により、非義の勅命が下された。この勅命を奉じたき者は、この場から去って、官軍に馳せ加われ。鎌倉の恩に報いようとする者は、幕府軍に加わって京都へ出撃せよ。」 一武将に代読させたにしろ、この声涙共に下る名演説により、参集した武将達は、袖を覆い、落涙して幕府軍への従軍を誓ったという。

後鳥羽上皇は、前述の通りの「傑物」であったが、政子も「尼将軍」の名の通りの女傑、女丈夫であり、「傑物」であった。こうして京都の傑物と東国の傑物との対決となり、多くの戦死者・犠牲者を生むこととなった。

写真は、「承久の乱戦没者供養碑群」

「高桑氏族」 覚書(15)参照

Haka

岐阜県各務原市前渡(摩免戸渡の場所)の山腹

両軍の主力戦が行われた木曽川・「摩免戸渡」での両軍戦死者の供養碑