「承久の乱」 (9)
「高桑氏族」 覚書(22)の続き
写真は、「源実朝」
実朝は兄・頼家とは正反対の人柄で、文化人であり、優れた歌人でもあった。そして「武士の棟梁」たる「征夷大将軍」でありながら、京風に憧れ、尊王思想の持主であり、後鳥羽上皇を敬慕していた。その為、上皇も実朝を慈(いつく)しんでいた。従って上皇に王政復古の宿望があるにしても、実朝時代が続いていれば、不幸な朝廷・幕府間の乱は起こらなかったであろう。一方鎌倉では、武家政権が京都王朝風によって、骨抜きにされるのを懸念して、実朝を危険人物と見ていた。 前回の覚書(22)に続く幕府内混乱の二つ目。これも肝心の北条執権家に重大な内紛が生じた。初代執権・北条時政は、実朝の暗殺を企図したり、娘婿を将軍に仕立てようとして、子の政子・義時姉弟によって、伊豆に追放され、退隠して入道出家した。 次に三つ目。幕府を支えて来た有力御家人達の叛乱が続いた。梶原氏・比企氏・和田氏・畠山氏等であった。幕府はこれを次々に打倒排除した。その分幕府の弱体化は避けられなかったであろう。 後鳥羽上皇は、主として上記3つの鎌倉弱点現出を好機と捉えて、乱を起こしてしまった。鎌倉討滅の宣旨を下せば、北条氏独裁反対勢力が殆どを占め、御家人も諸国の武士も挙げて、朝廷軍に参集するであろうという超甘な見通しであった。処が鎌倉軍、せいぜい数千騎の見込みが、19万騎の大軍となって、京都へ進撃して来てしまった。上皇の悲劇的な大誤算であった。 「幕府討滅の上皇宣旨」と何回か前述したが、実際の宣旨文言は、「北条義時追討」であった。第2代執権一人の追討に絞って、御家人・諸国武士達を幕府から離反させようとした上皇の戦略的意図が、はっきりと読取れる。