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「高桑氏族」 覚書(23)

2012-05-03 11:40:07 | 歴史

「承久の乱」 (9)

「高桑氏族」 覚書(22)の続き

写真は、「源実朝」

Sanetomo

実朝は兄・頼家とは正反対の人柄で、文化人であり、優れた歌人でもあった。そして「武士の棟梁」たる「征夷大将軍」でありながら、京風に憧れ、尊王思想の持主であり、後鳥羽上皇を敬慕していた。その為、上皇も実朝を慈(いつく)しんでいた。従って上皇に王政復古の宿望があるにしても、実朝時代が続いていれば、不幸な朝廷・幕府間の乱は起こらなかったであろう。一方鎌倉では、武家政権が京都王朝風によって、骨抜きにされるのを懸念して、実朝を危険人物と見ていた。

前回の覚書(22)に続く幕府内混乱の二つ目。これも肝心の北条執権家に重大な内紛が生じた。初代執権・北条時政は、実朝の暗殺を企図したり、娘婿を将軍に仕立てようとして、子の政子・義時姉弟によって、伊豆に追放され、退隠して入道出家した。

次に三つ目。幕府を支えて来た有力御家人達の叛乱が続いた。梶原氏・比企氏・和田氏・畠山氏等であった。幕府はこれを次々に打倒排除した。その分幕府の弱体化は避けられなかったであろう。

後鳥羽上皇は、主として上記3つの鎌倉弱点現出を好機と捉えて、乱を起こしてしまった。鎌倉討滅の宣旨を下せば、北条氏独裁反対勢力が殆どを占め、御家人も諸国の武士も挙げて、朝廷軍に参集するであろうという超甘な見通しであった。処が鎌倉軍、せいぜい数千騎の見込みが、19万騎の大軍となって、京都へ進撃して来てしまった。上皇の悲劇的な大誤算であった。

「幕府討滅の上皇宣旨」と何回か前述したが、実際の宣旨文言は、「北条義時追討」であった。第2代執権一人の追討に絞って、御家人・諸国武士達を幕府から離反させようとした上皇の戦略的意図が、はっきりと読取れる。


「高桑氏族」 覚書(22)

2012-05-03 10:12:44 | 歴史

「承久の乱」 (8)

後鳥羽上皇が、結果的には大変な誤算であった“今や鎌倉幕府は、弱体化が進み、組し易し”と幕府討滅の宣旨を出してしまったが、当時確かにそれなりの、幕府内の重大な諸混乱が、少なくとも3つはあった。

先ず一つ目。肝心の源家が、僅か3代で断絶してしまった。これは衆知の史実であり、改めて此処に述べる必要はないが、一応略記する。

初代源頼朝は、12世紀末年に53歳で急逝した。落馬事故が死因に関係していると言われた。第2代将軍は、頼朝の長男・頼家であるが、悪逆無道の振舞いが多く、母・北条政子の言う事も聞かず、北条氏に実権を奪われて怒り、北条氏討伐を企てたが失敗し、有名な修善寺幽閉、次いで北条氏によって暗殺されてしまった。

第3代将軍は、頼朝の2男・実朝であるが、頼家の嫡子・公暁によって、鶴岡八幡宮の社頭で、“父の仇(かたき)”とばかりに暗殺されてしまった。

こうして源家3代共、不慮の死に遭って、源家は断絶してしまった。しかも頼朝は、平家討伐に各地で奮戦し、鎌倉幕府創業に絶大な貢献をした弟の範頼・義経を共に殺していたのであるから、源家は絶えてしまった。頼朝のこの非情さに非難を込めて、世に“判官贔屓(ほうがんびいき)”なる言葉が生まれた。(「判官」は、義経の称)

写真は、「伊豆修善寺(修禅寺)」

Shuzenji

頼家幽閉で有名だが、不幸な範頼も当寺に幽閉され、両者の墓もある。

覚書(22)は、幕府内混乱の一つ目であるが、二つ目三つ目は、覚書(23)に続く。