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「高桑氏族」 覚書(26)

2012-05-06 09:55:33 | 歴史

「承久の乱」 (12)

「高桑大将軍」の戦死(1)

「承久の乱」の経過に付いて、かなり細部まで分明なのは、鎌倉幕府の公式史書である「吾妻鑑」と著者不明の「承久記」が残されているからである。前者は勿論幕府寄り、後者は朝廷寄いの記述になっている。後者は軍記であるが、「平家物語」や「太平記」等の物語的戦記とは異なり、歴史家からも「吾妻鑑」を補う、史料的価値の高い資料と見られている。その「承久記」は、朝廷側の記録に基づくものらしく、「高桑武士団」や「高桑大将軍」戦死の模様等が、かなり詳細に語られているので、以下抄記する。

吾妻鑑 承久3年6月 「鏡右衛門尉久綱(高桑氏と同じく、美濃源氏で、上皇側の武将)、留干此所(ここにとどまり)、註姓名於旗面(姓名を旗面に註し)、立置高岸(高く岸に立て置き)、合戦(す)。

鏡氏は、「木曽川の戦い」に敗れた後も、一族と美濃源氏の面目の為、尚岸に踏み留まり、戦い続けて自刃した。その勇武さは、敵ながら天晴れと讃えて、この様に敵方の「吾妻鑑」に記録を残したのであろう。

上の記録で分かる事は、当時は戦陣にあって、後時代の様に大・小名が、各紋所の幟旗(のぼりばた)を掲げて戦うのではなく、一族の姓名を大書した幟旗を自陣に押立てていたらしい。当時の戦場では、現代戦とは反対に、目立ちたがりは必要であった。一族の名誉と事後の恩賞の為である。しかも「承久記」によると、高桑大将軍は、馬上にあった。これでは目立たない筈がない。これが仇(あだ)となってしまった。忽ち敵方に「高桑殿」と分かってしまい、絶好の狙撃目標にされ、緒戦でその犠牲となってしまった。「承久記」の記述からすれば、「木曽川の戦い」、両軍を通じての戦死第1号であった。

写真は、「関ヶ原合戦絵巻(部分)」

Sekigahara

紋所の幟旗で溢れている。鎌倉初期では、姓名大書の幟旗であったらしい。


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