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「高桑氏族」 覚書(153)

2013-11-21 11:52:33 | 歴史

高桑堤の桜

平安以来、断続していた戦乱も、江戸期に入ると、美濃路(覚書117~118)から消えた。そして兵士に代わり、商人や旅芸人や伊勢参り等の旅人が、多く往き交うようになった。

春、桜の頃ともなると、旅人達に楽しみが加わった。美濃・高桑村の対岸、小熊村の「一里塚」で,休息をとる事であった。此処に茶店もあったであろう。

旅人達は、腰を下ろして、茶を啜り、煙管(きせる)を取り出しながら、美濃側の「高桑堤」を眺める。その堤には、桜の巨木が並び、春爛漫たる見事な花を付けた大枝が、幾つも此方迄も、掛かっているかの様に見える。それは、「高桑堤の桜」と呼ばれ、美濃路の名勝として、評判が高かった。

何時の頃からか、この一里塚で憩(いこ)う人々によって、歌われた。
       
美濃と尾張の境の桜
         枝は尾張に、根は美濃に
         美濃は、七枝(ななつえ)
                   尾張は、八枝(やつえ)
          天下様へは、九枝(ここのつえ)

天下様(将軍様)には、畏(かしこ)まって「九枝」、御三家筆頭の尾張様には、敬意を表して「八枝」。これは、美濃・高桑堤の桜であるから、美濃は、遜(へりくだ)って「七枝」。

これは、往時の「美濃路の春」と「高桑堤の桜」の情景を、鮮やかに目に浮かび上がらせる、詠み人知らずの、佳作里謡であると言える。

上の旧東小熊の「一里塚」は、美濃路7宿、14里余(約57k)で、2つしか残存していない中の1つであり、史跡として、大切に保存されていると云う。

写真は、「境川高桑堤」
M.KEIZOさんの素晴らしい写真をお借りしました。

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今回を以って、本ブログを終了致します。言い訳になりますが、原資料不足に加え、浅学菲才・老骨の身の作業で、毎回言説整わない拙い覚書になってしまいました。それにも拘わらず、長らく閲覧下さいました方々、コメントをお寄せ下さいました方々に、厚く御禮申し上げます。将来に向けて、高桑氏族の益々の発展を念願して、筆を擱きます。


「高桑氏族」 覚書(152)

2013-11-21 11:20:54 | 歴史

一向一揆(13)

信長の非業の死によって、秀吉の天下になった。秀吉は、本願寺・一向一揆が、信長によって、すっかり勢力を失ったのを見ても、門徒に対して、敢えて弾圧せず、融和政策を採った。

秀吉は、信長の配下にあって、本願寺勢と戦い、その力を散々に見せ付けられていたからであった。一説には、一向一揆の延べ動員数は、500万と言われている。

秀吉は、「石山合戦」の総司令官であった、本願寺第11代・法主(ほっす)・顕如(覚書150)に対して、京都・堀川の地に、寺領を寄進している。顕如は、この地に「祖堂(親鸞堂)」を建立した。

これが、現在の「浄土真宗・本願寺派」の総本山・「西本願寺」の起源である。始祖は、顕如の第4子・「准如」である。末寺約1万、信者約650万と言われる。(通称・「お西さん」)

徳川家康も、激しかった「三河一向一揆」(覚書146)で、危くその死命を制せられそうになった、極めて苦い経験を持っていた。

顕如の長子に、第12代法主・「教如」がいた。教如も父を良く輔佐して、信長と激しく戦った人物であった。

家康も秀吉に倣(なら)って、融和政策を採り、慶長7年(1602年)、上記の教如に対して、京都・烏丸に寺地を与えた。

これが、現在の「浄土真宗・大谷派」の総本山・「東本願寺」である。(通称・「お東さん」)末寺約1万、信者約670万と称される。高桑の地の「善覚寺」(覚書148)は、この「大谷派」寺院である。

元々一つであった京都・本願寺に、上述の通り、「東西本願寺分立」の歴史があった。これは家康の、対本願寺政策であった。巨大な本願寺勢力を、顕如の跡継ぎ問題の内紛に乗じて、分割に成功したのである。

家康が、上述の通り、東本願寺に寺地を与えた慶長7年と言えば、翌8年は、江戸幕府を開いた年であり、もう「近世」の幕が開けていた。

写真は、「石山本願寺跡地」
大阪城公園内、「大阪城六番櫓」が見える。

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