高桑堤の桜
平安以来、断続していた戦乱も、江戸期に入ると、美濃路(覚書117~118)から消えた。そして兵士に代わり、商人や旅芸人や伊勢参り等の旅人が、多く往き交うようになった。
春、桜の頃ともなると、旅人達に楽しみが加わった。美濃・高桑村の対岸、小熊村の「一里塚」で,休息をとる事であった。此処に茶店もあったであろう。
旅人達は、腰を下ろして、茶を啜り、煙管(きせる)を取り出しながら、美濃側の「高桑堤」を眺める。その堤には、桜の巨木が並び、春爛漫たる見事な花を付けた大枝が、幾つも此方迄も、掛かっているかの様に見える。それは、「高桑堤の桜」と呼ばれ、美濃路の名勝として、評判が高かった。
何時の頃からか、この一里塚で憩(いこ)う人々によって、歌われた。
美濃と尾張の境の桜
枝は尾張に、根は美濃に
美濃は、七枝(ななつえ)
尾張は、八枝(やつえ)
天下様へは、九枝(ここのつえ)
天下様(将軍様)には、畏(かしこ)まって「九枝」、御三家筆頭の尾張様には、敬意を表して「八枝」。これは、美濃・高桑堤の桜であるから、美濃は、遜(へりくだ)って「七枝」。
これは、往時の「美濃路の春」と「高桑堤の桜」の情景を、鮮やかに目に浮かび上がらせる、詠み人知らずの、佳作里謡であると言える。
上の旧東小熊の「一里塚」は、美濃路7宿、14里余(約57k)で、2つしか残存していない中の1つであり、史跡として、大切に保存されていると云う。
写真は、「境川高桑堤」
M.KEIZOさんの素晴らしい写真をお借りしました。
今回を以って、本ブログを終了致します。言い訳になりますが、原資料不足に加え、浅学菲才・老骨の身の作業で、毎回言説整わない拙い覚書になってしまいました。それにも拘わらず、長らく閲覧下さいました方々、コメントをお寄せ下さいました方々に、厚く御禮申し上げます。将来に向けて、高桑氏族の益々の発展を念願して、筆を擱きます。