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「高桑氏族」 覚書(136)

2013-11-02 10:32:22 | 歴史

高桑近辺の戦い(10)

「高桑河原の戦い」(1)

神奈川県史・資料編に、「本間文書」なる古記録が収められている。その中に、本間氏の、「軍忠状」(戦功状)1通がある。これによって、建武3年(1336年)1月、高桑河原に於て、合戦があった事が知られる。

この建武3年前後は、激動の時代であった。学校で、「建武の中興」と習った覚えがあるが、後醍醐天皇親政の「建武政権」は、足利尊氏が叛旗を翻して崩壊してしまった。

特に建武3年は、「湊川の戦い」で、楠木正成が戦死し、天皇の吉野遷幸、そして南北朝動乱が始まった。それで両者間で、多くの史上有名な戦いがあった。その様な中で、高桑合戦は、比較的小戦とはいえ、その一つであった。

                本間四郎左衛門尉有佐於所々抽合戦軍忠事
右有佐去年建武二年十月三十日馳参海道足近河奉属干大将軍足利上総宮内大輔殿御手今年正月八日於足近小熊高桑河原等致合戦軍忠・・・・・抽軍忠之上者給御判備後証為施弓箭面目恐々言上如件


読み下し:
  本間四郎左衛門尉有佐(さえもんのじょうありすけ)、所々(しょじょ)に於て合戦し、軍忠に抽(ぬき)んずるの事
右の有佐、去年(こぞ)建武二年十月三十日、海道(街道、東海道から美濃路)を足近河(あじかがわ、高桑対岸の足近村に木曽川から分流)に馳せ参じ、大将軍上総宮内大輔殿(かずさくないたいゆうどの、足利一族の吉良貞経、きらさだつね)の御手(おんて、手勢、軍)干(に)属し奉り、今年正月八日、足近(村、上出)・小熊(おぐま、高桑対岸の村)・
高桑河原等に於て合戦し、軍忠を致す(戦功を挙げ、忠義を盡した)。・・・・・(この様に)軍忠に抽(ぬき)んずる之上者(のうえは)、御判(ごはん)を給(たま)わり(この軍忠状に戦功証明印を押して頂き)、後証に備え、(この家門の栄誉を子子孫孫に傳えるのに備えて、)弓箭(きゅうせん、弓と矢、転じて武門)の面目を施さんが為(これは建前で、本音は後の恩賞獲得に備えて)、恐々言上(きょうきょうごんじょう)、件(くだん)の如し。

画像は、「後醍醐天皇」

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