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「高桑氏族」 覚書(149)

2013-11-18 11:26:28 | 歴史

一向一揆(10)

中世記事
天正4年(1576年)の文書 「高桑源左衛門尉武数、元来本願寺門徒の領袖(首領)たりしが、越後上杉謙信に与力せり。」

高桑武数は、本覚書にも屡(しばしば)登場するのは、「加賀門徒独立王国」を支配する首領の一人だったからである。しかも謙信と直接会って、協定を結んだのは、首領の代表たる大領袖だったからであろう。

この中世記事の筆者も、“高桑、元来本願寺門徒たりしが、”と、“謙信に与力”を、普通には考えられないという口吻(こうふん)で、記している。

この筆者が、不思議と思った事には、頷(うなず)ける物がある。謙信は、他の戦国武将と同じく、度々(たびたび)一向一揆と戦って来たからである。又謙信の父・長尾為景は、越後国に於ける一向宗を禁じている。上杉家は、代々禅宗であり、真宗は禁教であった。

しかし当時の信長・謙信・一向一揆、3者の差し迫った事情を見ると、仇敵同志の謙信と門徒とが、急遽手を結んだ理由が理解出来ると思う。

天正3年(1575年)、信長が、越前に侵攻して来た。謙信は危機感を懐き、信長との同盟を破棄し、対立していた本願寺と和睦して、共同で信長に対抗する事になった。上記の高桑武数との協定は、その具体化であったろう。

こうして謙信は、翌天正4年、越後から2万の大軍を率いて、越中に侵攻した。続いて、天正5年秋9月、1万5千人が守備する能登畠山氏の堅城・七尾城(石川県七尾市)を門徒軍との共同作戦で、攻略しようとしていた。

畠山氏は、足利氏の支族であり、室町幕府の武将として、重用された。更にその氏族が、能登畠山氏であり、守護であった。信長が支持して居り、謙信は足場を固める為に、能登制圧が必要であった。

信長軍は、救援に能登へ入ろうとしたが、盟約に従って門徒軍が阻止した。斯くて堅城七尾城も、謙信軍の重圧から、城内に内紛が起き、内通者も出て陥落し、畠山氏は滅亡した。

七尾城を特に有名にしているのは、将兵慰労の宴で、中秋十三夜の月を賞しながら詠まれたという、誰もが知っている謙信の漢詩であろう。

霜満軍営秋気清 霜は軍営に満ちて、秋気清し 
数行過雁月三更 
数行(すうこう)の過雁(かがん)月三更
越山併得能州景 
越山併せ得たり能州の景
遮莫家郷懐遠征
  遮莫(さもあればあれ)家郷の遠征を懐(おもう)を

月(月が冴えわたり)、三更(子ねの刻、深夜11~1)、越山(越後・越中)、能州(能登国)、家郷(故郷の家族)、遮莫(そうであっても、どうしようもない)

写真は、「七尾城址」

Nanao