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「高桑氏族」 覚書(142)

2013-11-13 10:13:47 | 歴史

一向一揆(3)

本願寺8世・「蓮如(れんにょ)」は、浄土真宗中興の祖と称され、石山(後の大坂城の地)に本願寺を建立し、真宗を強大無比の宗門に成長させた(「石山本願寺」)。

その蓮如は、「一向宗」の俗称を嫌い、常に正式な宗門名・「浄土真宗」を名乗るように説き続けた。しかし一向宗の名は、今日迄も全然消える事はなかった。

「一向」は、「只管(ひたすら)に・一筋に心を込めて・熱心に」の意であり、一向一揆の心構えを良く示している。

「一揆」の「揆」は、「計(はかり)ごと・方法」であるから、「一揆」は、「一致団結」となる。それで「揆を一にする」は、「軌を一にする」と同意となる。こうして「一向一揆」は、凄まじい勢力と化し、戦国大名達と激しく渡り合う事となった。

その代表的な一例として、日本史上でも有名な「加賀一向一揆」があり、一向一揆の反乱中、空前の規模であった。長享2年(1488年、室町中期)、一揆の門徒農民軍数万が蜂起し、加賀国・守護大名の居城・高尾城(現・金沢市外)を陥(おとしい)れ、守護・富樫政親を自刃させた。

富樫氏は歌舞伎で、義経・弁慶が登場する「安宅関」(現・石川県小松市外)の関守として、その名が出て来る。富樫氏は、古くから加賀地方の豪族であった。

こうして加賀国では、「大名領国制」に代わって、「門徒領国制」が実現し、しかもこれが実に90余年も続いた。これは、本願寺僧侶・国人(地侍・小領主・小土豪・在地有力者)・農民の3者による合議制の連合政権であった。現代式に言えば、「加賀共和国」であった。

これは、戦国の世を驚嘆させ、「百姓の持ちたる国」・「一向一揆の国」・「門徒王国」等と、言い囃(はや)された。

画像は、「蓮如上人」
室町時代 作

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