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「高桑氏族」 覚書(145)

2013-11-15 17:14:42 | 歴史

一向一揆(6)

中世記事
天正10年(1582年)9月の文書・「高桑孫左衛門、越後上杉景勝に与力せり。」
「天正9年景勝、加賀越中の一向一揆と共に小出城を攻める。」

上の2つの中世記事の重要さは、一つは天正8年、「加賀独立国」が崩壊(覚書144)した後も翌9年、高桑孫左衛門が、一揆の残党農民を率いて、上杉軍と共に、信長方の城に攻撃を仕掛けている事である。

もう一つの重要さは、此処でも上杉景勝が、一向一揆と協同戦線を張っている事である。本来は、上杉方と一揆方は、仇敵同志であった。

「小出城」城主は、「佐々成政」で、城は現・富山市水橋小出に所在した。

佐々成政(さっさ なりまさ)」は、近江源氏の名門で、信長の馬廻りから戦功を重ね、頭角を表わした武将であった。

画像は、「佐々成政」
富山市郷土博物館 所蔵

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「高桑氏族」 覚書(144)

2013-11-15 10:23:57 | 歴史

一向一揆(5)

中世記事
歴史的にも貴重な文書として、「加賀門徒王国」(覚書142)の領袖(首領)の一人であった「高桑源左衛門尉武数」を含む、首領7名連名宛ての「上杉景勝」の書状が残っている(天正7年9月4日付・1579年)。

衆知の通り、景勝は戦国時代から江戸初期迄も活躍した勇将であった。上杉謙信が天正6年3月急逝すると、早速家督争いが起きた(「御舘(おたて)の乱」)。謙信には、甥の景勝と北条氏出の景虎との2人の養子がいた。この乱は、2人の戦いであったが、景勝が勝利を収めた。

其の後、秀吉の時代になると、越後から会津120万石に加増移封された。関ヶ原戦で、西軍に加担した為、家康によって、米沢30万石に移封されたが、謙信以来の輝かしい伝統を誇る上杉家の存続を果たした景勝の生涯であった。

扨て上記の景勝書状の内容であるが、仇敵同志の「一向一揆」と「上杉氏」とが、敢えて手を結ぼうという作戦計画であった。これは、予(か)ねて恐れていた信長の触手が、愈々(いよいよ)加賀・越中に迫り、「加賀一向王国」も風前の灯となり、伝統ある上杉氏も痛手を蒙るからであった。つまり両者の利害一致をみたからであった。

処が、上記の上杉家跡目争いで、景勝の出馬が、約束より大幅に遅れ、この目論見は画餅に帰してしまった。

果たして、この書状日付の半年後、翌天正8年閏3月、加賀一向王国の本拠・「金沢坊」(後の100万石・金沢城)は、信長軍・柴田勝家勢によって陥落し、90余年間の「加賀王国」は崩壊・消滅した。

画像は、「上杉景勝」

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