どうしても文字を書く気になれない事、たまにあるよね。
私も今回、なかなかブログを開く事が出来ませんでした。
という訳で・・・
いつも読んで下さってる皆様、お久しぶりです
ちょっと悲しい話なので、
どうぞ心に余裕がある時にだけ読んで下さいナ(長いし)。
そして、これは私の独り言です。それでもよければ、、、。
学生時代、演劇と音楽の間でまだ私の気持ちが揺れていた頃、
見かねた演出家の先輩が何かのきっかけになればと、
知り合いのパーカッショニストY氏を紹介してくれました。
Y氏は一流のジャズミュージシャン。
今思っても本当にありがたい事ですが、
Y氏は国内外のアーティストと日々共演・録音する中で、
歌手がいる現場限定で私をローディー(荷物持ち)として
呼んでくれて、沢山の刺激を与えてくれたんです。
半年も経った頃、突然私のデモテープを聞きたいと言うので、
当時活動していた友人作曲バンドのテープを
移動中の車の中で聞いて頂きました。
感想はたった一言。「僕が講師をしているスクールには
いいボーカルの先生方もいるから、興味があるなら行きなさい。
本来はジャズスクールだけど、ポップスを歌いたいにしろ
演劇をやりたいにしろ、勉強になるから。」
はっきり言ってまだまだって事だなと判ったので(笑)
お言葉に甘えて紹介を受け、後日初めて“スクール”という所へ。
数人の先生の見学をして選んだのが、野瀬先生のクラス。
唯一シンガーとしての現役を退いていて、歳もかなり上。
“先生”に徹してる方になら自分をさらけだして向き合えると、
その時思った。
それから10年彼女は、私が大学卒業後に演劇を選んだ数年間も、
どうしても音楽を忘れられずにポップスを歌い始めた時も、
自分のオリジナル曲を書いてライヴ活動した数年間も、
20代後半にジャズに目覚めた頃も、
音楽に向き合えなくなって全ての活動を辞めた1年間も、
また歌い始めてジャズクラブに出演するようになってからも、
いつも同じ姿勢で週に一度一時間、私に向き合ってくれた。
ある日私は、苦しくなった。
彼女から盗みたいものはまだ沢山あるのに、自我が邪魔をする。
歌い方を教えてもらうというレベルは過ぎたとしても、
ボイスキープの為の大事な存在だと思っていたのに。
答えは簡単。彼女の存在は必要の無い“安心”を生み出し、
私は究極には自分と向き合う事が出来ず、成長が止まっていた。
最後のレッスンの日、私はその後仕事があって、
たった30分しか余裕がなかったけど、
先生を誘ってドトールでコーヒーを飲んだ。
先生は堰を切ったように彼女のプライベートの話、それも、
かなり重く悩んでいる事を息もつかずに話して泣いて笑った。
正直、驚いた。私は何も知らなかったから。
その後、先生と会ったのは、半年後に1度だけ。
彼女が教える数校の生徒の合同発表会に遊びに行って、
皆さんの歌を聴いて、打ち上げで騒いだけど、
ゆっくり2人で話す雰囲気ではなかった。
彼女のプライベートの事、とても気になっていたのに。
あれから1年と少し。
今、私は、凄く後悔しています。
彼女の元を離れて、自分と向き合い、変化があって、
もう少ししたら久しぶりに歌を聴いてもらいたいと思っていた。
2年前からたいした成長はしてないけど、
彼女の評価を怖がらずありのままで歌える用意がやっとあった。
もし「ここがまだまだよ~」って言われたって、
凹まずに受け入れたと思う。
でも本当は、そんな再会の方法なんて必要なかった。
思った時に連絡を取って、お茶を飲めば良かった。
歌う人同士で、色々な話をしながら。
今思うに私は、レッスンを辞めても生徒気分のままだった。
現在の生徒さん達が最近の先生の事を色々教えてくれました。
あの時の先生の悩みはそれなりの解決を向かえ、
引っ越して再出発しようとした矢先だったそうです。
昔私が紹介したピアノの調律師さんも電話をくれました。
彼が新居に出向き、翌日から始まる自宅レッスンに備えて調律、
ベランダで彼女の花に囲まれながらお茶を飲んだのが最後。
恐らくその夜、彼女は大好きなワインを飲み、
新しい未来に思いを馳せながら、目を閉じたようです。
無宗教の音楽葬でした。参列者が花を手向ける間ずっと、
彼女が愛したミュージシャン3名による演奏にのせて、
現役生徒だった方々がジャズスタンダードを歌っていました。
私はただ、聴いていました。
先生の写真を見つめていました。
先生。あの後、皆と沢山話したヨ。
先生は、わがままだったってサ!(笑)
だけど皆、先生の事が大好きだって!
私は、本当に可愛がってくれたのに、親不孝だったね。
よ~く分かってます。だから、
これからも私の音楽をちゃんと聴いていて下さい
野瀬美代子 先生へ
私も今回、なかなかブログを開く事が出来ませんでした。
という訳で・・・
いつも読んで下さってる皆様、お久しぶりです
ちょっと悲しい話なので、
どうぞ心に余裕がある時にだけ読んで下さいナ(長いし)。
そして、これは私の独り言です。それでもよければ、、、。
学生時代、演劇と音楽の間でまだ私の気持ちが揺れていた頃、
見かねた演出家の先輩が何かのきっかけになればと、
知り合いのパーカッショニストY氏を紹介してくれました。
Y氏は一流のジャズミュージシャン。
今思っても本当にありがたい事ですが、
Y氏は国内外のアーティストと日々共演・録音する中で、
歌手がいる現場限定で私をローディー(荷物持ち)として
呼んでくれて、沢山の刺激を与えてくれたんです。
半年も経った頃、突然私のデモテープを聞きたいと言うので、
当時活動していた友人作曲バンドのテープを
移動中の車の中で聞いて頂きました。
感想はたった一言。「僕が講師をしているスクールには
いいボーカルの先生方もいるから、興味があるなら行きなさい。
本来はジャズスクールだけど、ポップスを歌いたいにしろ
演劇をやりたいにしろ、勉強になるから。」
はっきり言ってまだまだって事だなと判ったので(笑)
お言葉に甘えて紹介を受け、後日初めて“スクール”という所へ。
数人の先生の見学をして選んだのが、野瀬先生のクラス。
唯一シンガーとしての現役を退いていて、歳もかなり上。
“先生”に徹してる方になら自分をさらけだして向き合えると、
その時思った。
それから10年彼女は、私が大学卒業後に演劇を選んだ数年間も、
どうしても音楽を忘れられずにポップスを歌い始めた時も、
自分のオリジナル曲を書いてライヴ活動した数年間も、
20代後半にジャズに目覚めた頃も、
音楽に向き合えなくなって全ての活動を辞めた1年間も、
また歌い始めてジャズクラブに出演するようになってからも、
いつも同じ姿勢で週に一度一時間、私に向き合ってくれた。
ある日私は、苦しくなった。
彼女から盗みたいものはまだ沢山あるのに、自我が邪魔をする。
歌い方を教えてもらうというレベルは過ぎたとしても、
ボイスキープの為の大事な存在だと思っていたのに。
答えは簡単。彼女の存在は必要の無い“安心”を生み出し、
私は究極には自分と向き合う事が出来ず、成長が止まっていた。
最後のレッスンの日、私はその後仕事があって、
たった30分しか余裕がなかったけど、
先生を誘ってドトールでコーヒーを飲んだ。
先生は堰を切ったように彼女のプライベートの話、それも、
かなり重く悩んでいる事を息もつかずに話して泣いて笑った。
正直、驚いた。私は何も知らなかったから。
その後、先生と会ったのは、半年後に1度だけ。
彼女が教える数校の生徒の合同発表会に遊びに行って、
皆さんの歌を聴いて、打ち上げで騒いだけど、
ゆっくり2人で話す雰囲気ではなかった。
彼女のプライベートの事、とても気になっていたのに。
あれから1年と少し。
今、私は、凄く後悔しています。
彼女の元を離れて、自分と向き合い、変化があって、
もう少ししたら久しぶりに歌を聴いてもらいたいと思っていた。
2年前からたいした成長はしてないけど、
彼女の評価を怖がらずありのままで歌える用意がやっとあった。
もし「ここがまだまだよ~」って言われたって、
凹まずに受け入れたと思う。
でも本当は、そんな再会の方法なんて必要なかった。
思った時に連絡を取って、お茶を飲めば良かった。
歌う人同士で、色々な話をしながら。
今思うに私は、レッスンを辞めても生徒気分のままだった。
現在の生徒さん達が最近の先生の事を色々教えてくれました。
あの時の先生の悩みはそれなりの解決を向かえ、
引っ越して再出発しようとした矢先だったそうです。
昔私が紹介したピアノの調律師さんも電話をくれました。
彼が新居に出向き、翌日から始まる自宅レッスンに備えて調律、
ベランダで彼女の花に囲まれながらお茶を飲んだのが最後。
恐らくその夜、彼女は大好きなワインを飲み、
新しい未来に思いを馳せながら、目を閉じたようです。
無宗教の音楽葬でした。参列者が花を手向ける間ずっと、
彼女が愛したミュージシャン3名による演奏にのせて、
現役生徒だった方々がジャズスタンダードを歌っていました。
私はただ、聴いていました。
先生の写真を見つめていました。
先生。あの後、皆と沢山話したヨ。
先生は、わがままだったってサ!(笑)
だけど皆、先生の事が大好きだって!
私は、本当に可愛がってくれたのに、親不孝だったね。
よ~く分かってます。だから、
これからも私の音楽をちゃんと聴いていて下さい
野瀬美代子 先生へ